タイトルが先『日記:2024.5.2』
今日は自分史についてよく考えてみた。
近々自分史のコンテストがある。私は日記に自分のことをよく書くし、就活の時もそれなりにやっていた気がする。いつもはやらない自身の行動を振り返るという自分史は新鮮な気持ちで自分を見れる気がして好きだ。
だが、人の目を気にして自分史を書いたことがあるかと聞かれれば首を傾げてしまう。
日記も見てくれる人がいたら嬉しいな〜くらいで始めてしまったし、就活の自分史は自己PRの捻出の為に使われたまでだ。
私の自分史を見てくれる人は、どんな風に書けば惹かれるのだろうかと考える。
1年前に、朝井リョウさんにハマった。映画化する直前にYouTubeで見つけた「正欲」を始め、どんどんハマっていった。物書きの中には、脚本家だけではなく小説家という道もあるんだなと志を示してくれたのは彼と彼の作品である。
もっと彼のことを知りたくて、彼の自分史を買った。「時をかけるゆとり」である。
だいぶ前に買ったというのに全く手を付けていなかった。自分史を学ぶ為にも開いてみた。
どうしてこうも漫画みたいな人生が送れるのだろうと驚きながら読み進めた。あまりにも主人公属性が高過ぎる。私は彼と同じ年齢になった時、同じくらいの経験値を踏むことは出来ないだろうなと失望するほどだ。
一つ一つのエピソードが頭の中で再現されていく。その場所で葛藤する彼がよく見える。作り物のようね本当の話、私はこんな人が小説を書いて面白いのは至極当然のことだと納得した。
そして私が彼の自分史で驚いたのは、タイトルの面白さである。
最後に光原百合さんが解説を書かれているが、この書籍はどこから読んでも面白く読める作品になっている。だがどこから読んでも面白いなと思わせるためには、タイトルに懸かっていると考える。
その話気になるな、そう思って開くのが文章、記事。物書きに限らず、ドラマや映画のタイトル、バラエティのコーナー名、YouTubeのチャンネル名やサムネイルなど、最初に見たものでこの先を自ら開いて確認したいと思わせなくてはいけないのだ。
知っていたはずなのに、忘れていた自分に悔しさを覚える。
自分史を書き始めると意外とスムーズに進むが、やはりタイトルを先に決めるのと決めないのとでは進捗度に違いが出た。
タイトルを決めることで、それに沿った文章を書かないといけないという一つの縛りが出来て、脱線常習犯の私にきちんとした線路を設けることが出来る。
自分史というのはまだまだよく分からないけど、物事がブレないように、そして面白い自分史を書けるように、タイトルを先に提示して文章を書こうと思った。
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