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WHO AM I?

ー2024.08.16
大文字の送り火、お盆で帰ってきていたお先祖様を送る日
今日、バイト先で「大文字の送り火を見ると夏が終わったなと感じるよね」と話しかけられた。

きょとんとしたけど、うんうんとはならなかったけど、「そうですよね~」と返した。京都の人に私もなりたい。

20時。私の家からは遠くて文字までは見えないけれども、それでも赤く燃える送り火を遠くから眺めて、今年は私も夏の終わりを感じてみた。

○○○

「DNAの旅」(2016年 5分 日本語字幕つき) [制作] モ・モンド旅行社 [日本語字幕] イルコモンズ 「人びとを結びつけているものよりも、人びとを分断しているものを思いうかべることの方が簡単です。でも私たちは、思っているよりもずっと多くのものを他の国の人たちと共有しています。私たちは世界中の67人の人たちにDNA鑑定をうけてくれるように頼みました。その結果、彼らは他の国の人たちと、思っていたよりも多くのものを共有していることが分かったのです」(動画解説より)

この動画を、昨年、大学の授業の中で見た。
自らのアイデンティティを強固に設定すること、自分の内側と外側を区別すること、自分のアイデンティティや輪郭を失うことを恐れること、が世界や他者との分断を生む。DNAをたどるとみんな繋がっていて、これまで私たちが固執し、区別してきたものが何だったのか、みたいなことが問いかけられていると感じた。

アイデンティティって恣意的でよくて、複数のアイデンティティを持っていい、自分のアイデンティティを見失うことがあっていいし、何度も見つける旅にでて、自分とは、を再定義してもいい。

ここまでは授業の振り返り。

この動画を見た時に、自国への愛着を持ち、自らのアイデンティティを確立している彼らに驚いた。アイデンティティに固執することが視野を狭め、自分と異なるものへの排除に繋がるのかもしれんが、そもそも誇りを持つアイデンティティがあることが素敵やと思った。

○○○

送り火を遠目に焼き付けながら上記の授業と動画を思い出していた。

ああ、今の私にはこの手のアイデンティティを持っている。
一年前にはなかったものが今の私にはある。
私は京都の人。強くそう思う、そして京都が好き。

京都に生まれてもうすぐ24年。
京都といっても京都出身とは気安く言えないような位置、大阪と奈良と京都の間の京都府の町に生まれた。
中学、高校、成人後のフリーター時代は大阪で暮らした。
「出身地は?」と問われると京都と答えたり、大阪と答えたり、正直どっちでもよかった。京都でもなければ大阪でもない、みたいな感覚が正解かな。
転校したこともあって、小学校、中学校、高校、大学、全部友達が繋がっていない、成人式もどこの成人式に行けばいいのか、ここの町の成人式に出よう!みたいな地域がなくて、行かなかった。

そんな私がどうして京都の人になりたいと思ったのか。

“京都”で自助グループを立ち上げてほしい」とある時、京都の人に声を掛けられた。
この時、私は大阪に住んでいて、お金がなくて京都の実家に出戻りしようかな~と動き出した時期だった。大阪でバイトをし、フットサルをし、自助グループに通っていたので、大阪に愛着を感じていた。大阪で立ち上げられないかな、そんな思いもあったのだけど(きっとこの時は大阪人が私のアイデンティティだった笑)、京都に縁があったので京都で、京都の仲間とグループを立ち上げた。



1年半、私自身が自助グループの力を借りて、京都の医療機関や行政機関、地域のカフェや社協、教育機関、地域の人、、、との繋がりを感じて、輪が広がるのを日々体験していって、自らも“京都”の住民であることを感じる。京都に私のことを知っている人が確実に増えた。自分の居場所というかひととの繋がりが京都にあると思える。これからもここで活動したいし、京都のまちの力に少しでもなってたら嬉しいなと思う。そう自然と思う自分がいる。

京都に住まい、京都でバイトし、京都で自助グループの活動をし、自然と京都の市バス(超難関)に迷わず乗れるようになり、通りの名前を聞くだけでだいたいの位置が分かる、祇園祭や大文字の送り火、まちの行事も自然と覚えていった、もちろんエスカレーターは左に立つ(大阪は右)。

自分が京都のひとになっている、それを感じる瞬間はちょっとガッツポーズ。

自助グループから得た京都のまちへ自分がいていいというか、自分も京都のひとになりたいという思いが、自らがアイデンティティを積み上げるきっかけになったと思う。
そう、だから、今日もさらにちょっと自分のアイデンティティを積み上げるためにも、送り火にいつもより早い夏の終わりを感じてみた。

アイデンティティって、決して、最初から備わっているものだけじゃない、幼少期から人生のどの時期でも、ひととの繋がりや人生経験のなかで見つけていくもの、作り上げていくものなんだと思う。

動画に登場する彼らもまた、自らのアイデンティティを、他者から受け継ぎ、教えてもらったり、見つけていったりして、手にしたんだと思う。

みんなそれぞれ、いろんな、アイデンティティを持つ、そしてそれらは常に変わっても行く。私だってそう。エスカレーターは右に立つもんって思ってみたり、いやいや左ですってしてみたり。
でもその思いには背景と意味がある。自分のアイデンティティが生まれた物語を知ること、それは、他者のアイデンティティにもまた物語が存在すると想像できること、他者のアイデンティティを大切にしたいと思えることに繋がるんかな。

アイデンティティって恣意的、流動的、複雑でたくさん持ってていいもの。アイデンティティは一人一人にとってかけがえのないもの。
他者と自分を区別するもんじゃなくて、お互いにそのアイデンティティを大切に愛すべきものなんだろう、授業での学びも絡めて、そう思う。

世界に出れば、イギリスへ留学すればもっともっと自分を日本人だと誇るようになるんかな、なるよね、今でも少しそうなってきている気がする。意識してなかったから気づけてなかった。
海外の方に連絡する時は必ず、日本人で、日本の学生でって、書く。毎月、留学の受け入れ交渉をしている所にニュースレターを送るんやけど、私のことと日本の話題を添えたニュースレターを作成してる。自然とそうしてたけど、日本のことも知ってもらいたくて、そうしてる。
イギリスのリカバリーカレッジというとのものに、イギリスの精神保健福祉制度に一目惚れして、恋焦がれて、留学を決めたのだけど、イギリスに目を向けながら日本に目を向けるようになっている。

この留学のプロセスがまた1つ私のアイデンティティを作ってくれると信じて、留学するよね、いく、よね、、

書く前に想定していた着地点と違ったところにきたけれどもまあいいか。

ほんとはこの自分か誰だかワカンナクナッターを言葉にしたかったけど、また今度。






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