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スポーツとメンタル不調がセットな私、それでもソーシャルフットボールに取り組むわけ。

 大学の単位認定試験の真っただ中。noteを書いている時間はないはずなのだけど、束の間の現実逃避…。

記事の概要

 幼いころの好きな遊びはサッカーとレゴブロック。小学校にあがってからはあるスポーツチームに所属し、毎日練習漬けの日々を送る文字通りスポーツ少女だった私。12歳になったころ走っていると幻聴が聞こえたり、夢の中でもスポーツ関連の悪夢にうなされるようになった。
 中学生になり、部活に行けないから学校に行けない。担任の先生が母に電話をし、児童精神科を受診することになった。
 あの日から今年で12年が経過する。今でもフットサルに取り組んでいるが、パニックのような状態に陥ってしまう。なのにそれでもフットサルやスポーツに取り組むのはなぜか。しんどいしやめてしまいたいと思うこともあるのに。
 これまでの私の人生と私の考えるリカバリー、ウェルビーイング、それでもスポーツを続ける訳を考察してみたという記事です。

身体を動かすことがしんどい(発症初期)

 小学生の頃、あるスポーツクラブに所属していた。体罰は当たり前の環境の中、熱心な指導のおかげもあり、全国大会で結果を残すなどしてきた。
 過酷な練習も、チームメイトと時には辛い気持ちを吐露し合い、励まし合い、高みを目指して頑張ってきた。

 ただ私の心は疲弊していた。チームメイトと愚痴をこぼすだけでは足りなくて、練習の行き帰りに「遠くへ行きたい。死んだらすべて終わるのかな。」と考えるようになった。実際に何度か家出をしては警察のお世話になっていた。
 身体もおかしくなってきた。日課のように毎朝、3キロ走っていたのだけれど走っていると後ろから友人が追いかけてくる吐息が聞こえるようになった。夢の中でも練習をしていて、監督から叱責を受けている練習で、飛び起きると寝汗がぐっしょり。鼓動も早くて、夢を見るのが怖くて寝付けない。練習に行く前にも体の震えや吐き気に見舞われるようになった。 

 今思うと①外部からのプレッシャー、②自分自身のプライド(負けてはいけない、頑張らないといけない)、③成長期の身体の変化など色々な要因で心も身体もバランスを崩していたのだと思う。
 ただ、私は上記の症状は隠さないといけないもの、だと思い込んでいた。なんとか自分をだましだましやっていたけど、小6の秋の学校のマラソン大会で過呼吸のようなものになって走れなくなって棄権した。棄権したと聞き駆け付けた担任の先生に「足が痛くて走れませんでした」と嘘をついた日から自分は身体を動かすことをやめた。

中学生・高校生(それでも運動部を選ぶ)

 最初、地元の中学校に進学した。心機一転やり直そうと小学校時代の友人らと運動部に入部した。ダメだった。みんなと同じように動こうと思うのに精神的にも身体的にもしんどくなる。昼休みが終わり、5時間目が終わり…部活の時間が近づいてくるとドキドキする。午後は保健室に行くことも増え、部活は休みがちになった。
 担任の先生が母に電話をし、あっけなく部活に行ってないことがばれた。併せて児童精神科も受診することになった。(この時処方された睡眠薬が自分の不安や苦しさを誤魔化してくれることを知り、見事に依存。薬物依存症と診断され、現在は自助グループに繋がって回復を続けている。)

 自分のことを誰も知らない土地に行けばもう一度やり直せるのではと、地元から新幹線で左に3時間ほど先の中学校へ転校した。父は「無理に身体を動かさなくてもいい。適当にやればいいよ。文化部もいいやん。」とアドバイスをくれた。転校してすぐにあった体育祭は力を抜いて走った。うーん。気づけば再び運動部に入部していた。

 高校はまた小学校の友達も中学校の友人もいない場所へ進学した。進学してからの部活選びは最後まで迷った。GW明けが入部届の締め切りで、ある部活のマネージャーをするか、中学の時と同じ部活に選手として入部するかで迷っていた。
 締め切りの最終日に母は保護者の名前と印鑑を押した入部届を持たせてくれた。「マネージャーも楽しいと思うよ。でも最後はどっちでも自分で決めたらいい。」と言ってくれた。結局、中学の時と同じ部活でもう一度頑張ることにして、入部届を提出した。

 中学も高校も、学校に行けないことが度々あった。定期的に悪い波が襲ってくる。症状として、①過去の悪夢にうなされる、眠れない。部活の顧問の先生が私のことをよく思っていないと被害妄想を膨らませる。②部活に行かないといけないと思うと吐き気がする、通学中に電車を途中で降りてしまう、学校の最寄り駅で電車を降りれない。通学しても午後になると吐き気や動悸がおこる。③いざ身体を動かすと身体が鉛のように重い、身体が震えたり、脳内で嫌なこと(自分はダメなやつだとか、過去のトラウマ、叱責を受けた言葉など)が再生されて、練習に参加し続けられない。
 症状の結果、不甲斐ない自分に涙が出る。生きていても仕方ない。死んでしまえばすべてから解放される。ここから消えてしまいたいと考える。
 でもいつもこれらの思いを誰かに伝えることはしなくて、怪我をしていると嘘をついたり、部内の人間関係に疲れたと言ったり、言い訳をして学校を休んだり、中学も高校も周囲の勧めで1か月程度の休部も経験した。
 でもどっちでも引退まで部活を続けた。友人に恵まれたことが大きな理由ではあるが、スポーツをやめる選択をなぜかできなくて、続けてきた。

【脳内で嫌なことが生成されるときの感じ・手書きメモ】日常的に生成は生じていて付き合っているけど、うつの時期やストレスがかかると生成が増えて発散が追い付かない。スポーツをしている最中や運動前によく生じるが練習中や体育館へ向かう電車の中では発散できないので首を振る、回す、身体が震える、身体、腕をつねる、首周り、耳回りをひっかくなどが生じる。他のことに意識が向くと自然と収まる。
私以外の人にも伝わるとすれば、「くしゃみ」が連続して出続けるようなもの?生理現象で出るときは出る。普通になんもなくても出るときもあるし、風邪ひいてよく出ることもある。誰かに噂されて出ることもある?埃っぽい部屋に入るとよく出るし、春になって花粉が飛ぶとよく出るかもしれない。だけど会議中だったとしたらできるだけ音がならないように遠慮したくしゃみをする。さらにかくれんぼをしていて音を出せない状況ならくしゃみを我慢する。鼻をさすったりすると思う。でもすっきりはしない。鼻の中に気持ち悪いのが残り続ける。何とか発散したい、我慢できなくなるような感じ。この説明、無理があるか。

 勉強が好きだったおかげか、テスト期間の部活休みや引退してからの受験期は精神的に落ち着いていたり、調子がよく部活を頑張れる時期もあったり、高校3年のとき、睡眠薬欲しさに通っていた精神科で双極性障害と診断された。

大学生(運動部を選んだが…。)

 高校生の時の進路選択で、自分の経験から、生きづらさやメンタルヘルスについて興味を持っていた。いろいろな大学のOCに足を運ぶなかで、スポーツ心理学を学べる大学を見つけた。特にその大学は脳神経科学に力を入れているようで理系だった私は自分の脳や心を数値化できるのかもしれないとそのことに希望を感じてこの大学に進学した。
 大学でもサークルに入るか、バイトを頑張るか、いろいろ迷った挙句、その大学で一番活発な体育会の運動部に入った。
 5月ごろから例の症状が再燃してきて大学に行けなくなった。同時に薬物依存症にも飲まれてしまい、精神科病院入院、大学は休学、中退、、、、。

ソーシャルフットボールとの出会い

 その後、18歳から精神科病院へ入退院を繰り返し、薬物依存症の治療のために自助グループや回復支援施設に繋がった。もう一つ繋がったものがある。ソーシャルフットボールである。
 精神疾患を抱える人が参加できる競技性のチームがあると知り、興味を持った。友人にこんなのがあると相談したところ、「☆はマネージャータイプじゃなくて自分がやりたいタイプやろ」と背中を押してもらった。
 同じく精神疾患を抱えるチームメイトといつも私たちのことを考えて動いてくださるスタッフ、応援してくださる方に恵まれて今日まで続けてこれているが、ソーシャルフットボールとの向き合い方は何度か変化している。

【第1フェーズ】
 フットサルを始めた時、二年前は薬物依存症の回復プログラムに取り組みだした時期でもあった。日々自分の過去を語り、見つめる中で、今度こそ病気に負けたくない、と強く思い込んでいた時期があった。
 過去のフラッシュバックや身体を動かすことの不調に今度は向き合う。逃げない。練習は休まない。自分の弱さと向き合うことにリカバリーがあると考えていた。
 実際に去年の7月ごろ、自分のうつの症状、上記の脳内生成がひどくて、それでも身体を動かすべし!!!と思っていて、それで人のいない道路を走りながら奇声を発することで脳内生成を発散できることが分かってからは毎晩11時くらいに走りに出かけていた…足が痛くて走れなくなるまで…。100年前、精神病者監護法の時代に生まれていて、奇声を発する姿を発見されていたら山の上での収容生活で一生を終えることになっていたと思う(笑)
この頃ソーシャルフットボールの関西大会前でもあって大会というものがかなり苦手で症状の再燃が顕著にあったのだと思う。逃げたくないと思っていたこともあり、逆に無理して身体を動かすことで症状や自分の気持ちを抑え込んでいた。
この時の状況や考えた対処法などを書き出したメモがあったので貼り付ける。リカバリーは自分と向き合うことと感じていたであろうし、それを選んでか睡眠薬をオーバードーズすることはなかった。かといって、自分と向き合えたかというと怪しくて、関西大会まで足の痛みを我慢して走り続けてた。関西大会が終わると落ち着いて、その後1ヶ月身体を動かすことすらしなくなって、次第に症状は落ち着いていった…。

当時の自分が当時の状況を書出したメモ
過去にあったことの部分は競技名とかが出てくるので隠していますが、過去同じような状況(精神的に身体が動かせないや動けないことへの不安など)が起こった時に自分がどのような対処をしていたかを書き出してました。過去を振り返り後悔…次は違う行動を取りたい。


【第2フェーズ】
それから、時がたち、「リカバリーは他者と繋がることをあきらめないこと」と考えるようになった。
 病気の症状から逃げないこと、受け入れてそれでもスポーツを続けることが一番大事と思っていたところから、①一人にならないこと、一人で解決しなくてよいこと②スポーツだけが私のリカバリーの道具・要素ではないことと思えるようになった。
 結果として、①身体を動かすことがしんどいなら練習は休めばいいし、休んでゆっくりするもよし、自助グループのミーティングで仲間と過ごすもよし、自分で選択すればいい。②でも、一人ぼっちにはならない、一人で睡眠薬をオーバードーズすることはリカバリーとは違う。他者と繋がることは諦めないでほしい。と自分に言い聞かせることができるようになった。

他者との関係にまみれる
家族による介護のむずかしさ、「感情労働」のむずかしさを痛感するなかで、それでも相手との関係から下りないこと。傷つきながらも、くたくたに疲れながらも、相手の傍らから去らないこと。そういう〈まみれ〉のことを、あのたこ八郎は「めいわく」と呼んでいたのではなかったか。じぶんが望んで関係のなかへ入っていったわけでもないその他者との関係にまみれ、ぐらぐら揺れ、ときに陥没し、しかしそれでも関係を切ろうとはせずに、どうしたらいい、どうしたらいいんだろうと、ときにはあきらめ寸前のところで、ときにはじぶん自身を責めもしながら、それでもそこから立ち去らなかったひとたち、そのひとたちのその〈まみれ〉に、「ありがとう」と言ったのではないか。

〈弱さ〉のちから ホスピタブルな光景  鷲田  清一


「他者と繋がることを諦めないこと」を大事だよと思えるようになったきっかけを得た本の一節。

【第3フェーズ】
 第2フェーズで解決かと思いきやそうはいかなかった。練習を休む決断ができなかった。ここ最近、かなり例の脳内生成に苦しみ、過去の悪夢にうなされ、時期で言うと、うつっぽい時で、無理に身体を動かす、練習に行く必要はない時期。練習に行くかどうか、試合にいくかどうか、これに悩んで時間が過ぎて、その間ずっとしんどくて。何をしているのか。

 何なのだろうか。昔からずっと。運動部に入らなければ学校のに行けるのに。現に受験期なんかはかなり楽しく学生生活を送った。フットサルもやめればいいのに。他に行くことややることはある。バイト中は比較的体調も落ち着いている。できることをやればいいのに。

 死にたいと思っている。小学生のとき、むくっと湧き出したこの感情は今も変わらない。死んでしまえばすべてが終わる。楽になれる。みんなの記憶から消えてしまいたい。これも今も思う。勇気がなくて死ねないのだけど。
 なのに運動部退部すればいい、フットサルやめればいい。練習行かなくていい、スポーツなんてやらなくていい。とはすぐになれない。ほんとに何で。

【たどりついた現在の答え:ウェルビーイング】

  遺伝子的・生物学的かつ育ってきた家庭環境・小学生時代のスポーツクラブの指導など様々な要因の結果、私のしあわせは他者に起因することが多い。画像左。承認欲求がかなり強いし、結果、頑張らないといけない、失敗してはいけない、0ー100思考で、失敗しそうな時、辛い状況からは睡眠薬をODして逃げてきた。脳内生成?パニックの症状も自分の事態、環境、状況が悪い時に発生する。

 一方で画像右のしあわせも持っている。かなり頻度としては少ないが、おいしいものを食べた時、一人じゃない幸せをかみしめた時など。
 スポーツでいうと、小学生の時、全国大会の決勝戦、あの緊張感、観客席の盛り上がりの中でやる試合はとても気持ちがよかった。あの日あの時、ミスをしたら監督に殴られる、母に褒められたいから頑張るなどということは忘れていた。だから楽しかった。心のうちから湧き上がる幸せだった。
 フットサルでもあった。2022年の関西大会Y戦、とても集中できた。それが気持ちよかった。チームで戦っている感覚も、みんなと同じ思いで戦えていることが嬉しかった。その試合は負けて、全国も行けなかったけど、チームとしては悔しいけど、自分の心は満たされていた。
 あの日の前日、涙が止まらなかった。薬物依存の回復が始まって、薬をやめだして半年ごろだった。薬を使いたい欲求が連日かなり強く出てきていてもたってもいられず泣いていた。でも、試合の後、薬をやめていてよかったと思えた。それまでは主治医の先生や仲間、支えてくれている人のために止めなくてはいけないと思っていたけど、自分のために止めててよかったと思えた。

私がスポーツ、フットサルを続ける答え。この自分のうちから湧き上がる幸せを感じられるから、感じたいから。これを感じないと生きている意味が分からないのだと思う。
今でも日々死にたい感情が湧き出る、睡眠薬をODしたい欲求に見舞われる、もうどうでもいいと、頑張らない方が楽なのではないかと。過去のフラッシュバックやパニックに見舞われる度にどうして自分だけと自己憐憫に走る。私なんてと思う。
それでもリカバリーを選択する、薬ではなく人との繋がりを選択する、死ではなく生を選択する、少し前はどうしてわざわざしんどい選択をするのか謎だった。リカバリーって大変で辛い道のりでリカバリーしなくてもいいのにと。
でも生きているうちに、一年に数回でもこの本当の幸せ、ウェルビーイング(というのかは分からないが)を感じることでやっぱり生きようと思える。リカバリーを続けようと思える。
もう一度、スポーツしている時の喜びを感じるのではないかなと思うとソーシャルフットボールを続けたいと思う。リカバリーに揺らぎが出た時、思い出すようにしている、自分の内なる幸せ、喜びを。
 今の私にとってソーシャルフットボールはウェルビーイングを感じるための、育むための要素。ウェルビーイングはリカバリーの動機であり、それでもやっぱり生きていくための希望。つまりソーシャルフットボールは私にとって希望。
 だからこそ上手く症状と付き合う方法を模索し続けたいし、やっぱり楽しみやわくわくを感じてスポーツに取り組める時間を増やしていきたい。その第一歩であり土台がリカバリー。辛い道のりでもリカバリー、他者と繋がることを選択する。

私の考えるリカバリーとその上のウェルビーイングの世界観(2024/02/18)
リカバリーに対して希望になるものがウェルビーイング(ウェルビーイングの使い方は誤っているかもだが)

 長くなりましたが、最後まで読んで下さりありがとうございました。




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