見出し画像

そんな彼女の生い立ちは

今回の記事では、むかし僕がドイツで働いていた時に、同僚の女性から聞いた彼女の生い立ちに関する話を書いてみよう。

リンダについて

その同僚は、当時で既に60才くらいの女性。名前は、仮名でリンダとしておこう。

かなり個性が強くて、職場の人たち、特に女性たちとよく衝突していた。自己主張が強く、自分の考えを曲げない強さが、そういう状況をつくり出していたのだろうか。

特に、状況が複雑で頭が混乱してくると(彼女は数字が関係すると混乱しがち)、大きな声で自己弁護を始める。それがみんなの混乱に拍車をかける。

ドイツであっても、職場の人間関係がドロドロしている面があるのは日本と大なり小なり同じだった。そして、なんだかんだともっともらしい理由つけられて、ドイツ人同士のイザコザを調整する役回りが、僕に回ってくることがよくあった。

そんなこんなで、リンダと他の同僚との揉め事が、僕のところに持ち込まれることもしばしば。その多くは、リンダの高圧的な言い方が気にくわないとか、感情的になっているケースが多かった。

ただ、幸いなことにリンダ自身は悪意のない人だし、仕事は仕事として成果を出したいという意識が高い。自己弁護はそういう意識の裏返しなのか。だから揉めた場合は、場を改めて彼女の言い分をしっかり聞いて、じゃあ次からは同じようなことがあったら、こうしようか、とか落ち着いて現実的な解決案について相談すると、話はそれ以上エスカレートすることはなく、落ち着くところに落ち着いた。

他方で、彼女は並々ならない行動力と突破力を持っていて、そのバイタリティーに助けられることもよくあった。

そんな時は、彼女のバイタリティーを素直に褒めるのが何よりのお礼になるようだった。


「さすがだね、あれだけたくさんの人たちの利害調整を、たった2日で終わらせられるとは思ってなかったよ」

そうやって褒められると彼女は、はにかみながら、「あら、この仕事の大変さがよく分かってるじゃない、アナタ」とばかりに、上から目線で自分の存在価値を言語化してつぶやく。

彼女は、みんなからスゴイと認められたいけれども、なかなか認めてもらえないことに、どこかで拗ねているような印象を受ける人だった。

リンダの生い立ち

そんな彼女が、ある日の仕事の合間に、自分が生まれ育った時のことを問わず語りに話し始めた。

リンダ
「私が生まれ育ったのは、チェコスロバキアだったの」

彼女が生まれ育った時代のチェコスロバキアは、2つの意味で今はもう存在しない。

当時の時代のチェコスロバキアは社会主義国家で、いわゆるソ連の衛星国。その後1989年のビロード革命で社会主義体制が崩壊して民主化し、国の在り方が変わった。

そして民主化した後も、1992年末にはチェコとスロバキアがそれぞれの道を歩むため、2つの国に分かれた。

リンダ
「私の父親はユダヤ系で、事業を営んでいた。当時、社会主義国家のチェコスロバキアでは、労働者階級の家庭が望ましいとされていたのよ。でも、うちはブルジョア階級の家庭。ブルジョア階級は『悪い出自の人たち』と見なされていたから、国から不当なひどい扱いを受けていてね。父親もだし、母親もそう。両親はそのせいで、とても苦労していた」

具体的にどういう扱いを受けていたのか、そこはあまり詳しく言いたくない様子だった。また、この話を聞いた当時は未だ僕がドイツで働き始めた初期の頃。機微な話を掘り下げるには、未熟だったと言わざるを得ない。彼女が語るに任せた。

リンダ
「だから私は、大学へ入学するにも不利だったのよ。受験の際も労働者階級の子どもたちが優遇されるから。けど、たまたま大学で働いていた友人が、裏から入学試験に有利な情報を回してくれたこともあって、12倍の倍率を突破して合格できたけどね。もちろん、そういう行為が褒められたことでないのは分かっている。けど、そういう社会だったのよ」

公正で透明性のある社会って当たり前のことではなくって、世界では今も「裏で手を回して・・」ということが効く社会は多い。特に社会主義国家では、よく聞く話だった。

リンダ
「専攻は、本当は文化・芸術・歴史を勉強したかった。けれど、そういった文化的な学問は、社会主義国家ではご存知のように『つまらない捨て去るべきもの』と見なされていたから、専攻させてもらえなかった。だから結局、言語(ドイツ語・スラブ語)を専攻したの。本当は、華やかなルネッサンス文化を勉強したかったなぁ・・」


「社会主義政権の下での生活はどうだったの?」

リンダ
「国の雰囲気は、第二次大戦後にソ連軍が侵攻してきて以来、本当に厳しい暗黒の時代だった。そして、みんな自分の人生を社会主義の考えに無理にでも合わせないといけなかった。例えば、自由の大切さを主張する詩や演劇は、みんな共感しているにも関わらず、批判することを強制されたり」

文化的な勉強をしたかった彼女からすると、その状況がとてもつらいことだったのは想像に難くない。

リンダ
「でも、社会主義政府が崩壊した瞬間に、急にみんな”社会主義は間違っていた”って言い出して・・・いえ、 正確には、前からおかしいってことはみんな分かっていた。けど、急に公言できるようになって、それで社会が180度変わった。本当に、社会主義は多くの人の人生に影響を与えた・・・」


結局、彼女がいつ、どうやってドイツへ移住したのか、その経緯について僕は聞くことはできず、僕のメモはここで終わっている。

そして今、彼女は60才代の後半になり、僕はたまに彼女と短いメッセージのやり取りをする。旦那さんには早くに先立たれたけれども、たくさんの孫に囲まれてドイツで余生を過ごしている。定年退職後はボランティアや自治会の役を引き受けたりして、彼女の持ち前のバイタリティーで精力的に動き回っている様子。

この記事では、彼女の出自や生い立ちが、そのまま彼女の性格に結びついているとか、もっともらしい因果関係を見い出したいわけではない。

ただ、この会話の後。少なくとも僕としては、そんな彼女の強烈な個性を受け入れやすくなったことは事実だった。

人はこういった会話を経て人間関係をつくり、そして相手を受け入れられるようになっていくのだろうか、と思った経験だった。

チェコの教会より

by 世界の人に聞いてみた

この記事が参加している募集

多様性を考える

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?