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「女性」×「活躍」のもたらしたもの

1.東大生のジェンダー熱


コロナ以来、行く先々の美容院で雑誌を読むツールが、タブレットに変わった。美容院が契約するサブスクの雑誌読み放題のおかけで、書店の実店舗に山と積まれている雑誌が、眼前に小さなアイコンで並んでいる。気になってたけどお金は出したくないな、という類のものまで手が出せるのが嬉しい。

私が手を伸ばしたのは、プレジデントFamily2022年10月号。「東大生」という3文字だけで、親を惹きつけるのだから、惹きつけられる私も私だが、その単語にあまたの含意があるとは言え、教育熱心な親なら手が伸びるタイトルではないだろうか。この特集、特に記憶に残るのが、東大ではジェンダー論の授業が人気で、現役東大生が小学生向けに推薦する図書のなかに、この分野が数冊混じっていたこと。

もしかしたら、2019年の東大の入学式で、ジェンダー学者の上野千鶴子氏が行った祝辞の余波があるのかもしれない。賛否はあったものの、日本の性差別を数値をもとに指摘して反響のあったメッセージだ。その年度のジェンダー論の授業は、立ち見がでる程の盛況ぶりが続いたという記事をみかけた。でも、たとえインパクトのある祝辞というキッカケがあったにせよ、数年も余波が続く説明はならない。ではこれから出る社会を東大生が眺めた時、ジェンダー論に対する関心を維持させる何かがあるのだろうか。

2.社会の地殻変動

最近のジェンダーの話題と言って何が思い起こされるだろうか。選択的夫婦別姓、五輪組織委の森氏の「わきまえている女性」発言、それとも実質的な影響を感じる、いわゆる女性活躍推進法だろうか。

直近で言えば、今年、内閣府が実施した選択的夫婦別姓に関する世論調査で、賛成の割合が過去最低だったことに関し、質問文を変え、選択肢の順番を変え、調査法も変えたことに対し、各所から恣意的ではないかとの疑問の声が上がっていることだろうか。これ以外にも、選択的夫婦別姓への支持をゆり戻すような動きへの報道は事欠かない。

女性活躍推進法と言えば、成果として、女性の管理職が増加している現状を目の当たりにしている実感だろうか。因みに、2020年までに女性管理職を30%まで増やすという政府目標は、2020年度末の時点で達成した企業は19%だったとのこと。

3. =「分断」


いわゆる202030目標が達成されなかった社会は、「活躍」を推奨された当の本人「女性」にとっては、数値では示されない、個々の女性にとっては、どのような社会として映るのだろうか。

女性活躍推進法が成立したのは2017年だから、その時点で既に退職して家事と育児の担い手であった女性には苦いメッセージだったのではないだろうか。家庭に収まることを暗にに奨励されてきたのに、今から「活躍」って?

「活躍」できる土壌ができたと言われたけれど、改革が叫ばれて久しい働き方は組織では変わっておらず、その組織に属しながら母でもあることで家事と育児の高いハードルをも超えることを期待されることに苦痛を感じる女性も多いだろう。

数値の上では、女性が活躍している社会とは言えない現状で、指導的地位に到達した女性も少なからずいるのも事実だ。

「女性」×「活躍」の背景をたどれば、少子高齢化の日本社会で、埋もれた資源(=女性)を、経済活性化のため、発掘して活用/就業(=活躍)することを鼓舞している。けれど、その2017年の女性活躍推進法の成立直後に、くだんの東大祝辞を送った上野千鶴子氏はその実効性をこう予見していた。

『一部の特権的な女性は、祖母力や外国人家事労 働者の力を借りて「指導的地位」に到達するだろうが、それができない多くの女性は「二流の労働力」に甘んじることになるだろう。・・・一部のエリート女性と大多数の女性との間の格差は拡大するだろう。そして「指導的地位」についた女性は、「わたしにできることがなぜあなたにはできないの?」と弱者を責めるだろう。 』上野千鶴子. 「202030」は何のためか?. 学術の動向, 2017, p.98 - 100 (J-stage)

一部のエリート女性と、二流の労働力である女性の分断は予見通りである上に、ケア労働とよばれる育児と家事を支える女性の割合も高いまま、このグループとの分断も深いものがある。「活躍」を推奨された結果、「女性」の間にうまれた溝や、分断をソコカシコで実感しているの私だけではないはずだ。

4.国際的視点

昨今のジェンダー論を論じる話題には事欠かない社会、それが今の日本の現在地だろう。五輪組織委員長を降りた森氏の発言後に、日本に大使館をおくヨーロッパ各国の外交官が、「男女平等」「黙っていないで」というハッシュタグをつけてツイッター投稿を続けたのご存じだろうか。

外から見た日本の社会に対する抗議だ。これは森氏だけに向けられたものだろうか。黙っている女性たち自身、黙っている性別には関係なくとりあえず黙認する人々への抗議ではないだろうか。それくらい、国際的視野に立ったときの日本のジェンダーギャップ指数はあまりに低位だ(2022年に至っても先進国中最低レベルの116位。韓国や中国よりも低く、ASEAN諸国よりももちろん下位)。

現状に黙っていることの弊害のひとつは、現状維持されている価値の再生産が続いていくこと。自分が一部の特権的な女性なのか、二流の労働力なのか、ケア労働者なのかに関わらず、女性が分断された構造を再生産する社会が、我が子達の生きる社会であってもよいのか、そんな問いをたててみると、東大生だけでなく、ジェンダー論に関心を持つ人も増えるのではないだろうか。

史上最年少でノーベル平和賞を受賞したマララ・ユスフザイさんのお父さんのTEDスピーチは、社会が個人にもたらす価値観の再生産に抵抗しながら教育者として、親として何をしてきたかを語って感動的だ。

自国の社会を眺め、違和感を覚え、我が子の翼を折らない、簡単そうでできないのは、問題の構造と、その構造の深さを、批判的な目で眺めながら、伝承しないという覚悟が必要だから。

パキスタンのジェンダーギャップ指数は日本のそれより低いからと参考にならないのであれば、一昨年他界したアメリカのルース・ベイダー・ギンズバーグ最高裁判事が1970年代のアメリカで性差別の撤廃のために闘った記録(映画)「ビリーブ 未来への大逆転」は、先を行く、でも決して遠くない先を歩んでいるに過ぎないアメリカ社会の乗り越えてきた歴史をたどるのにおススメだ。

国際的な視点にたって日本社会を眺めるとき、変化の兆しを感じながら、変化からの揺り戻しを感じる事象に度々出くわす。変わりそうで、変わらないと社会を眺めつつ、自分が我が子達の生きる時代のためにできること、翼を折らないこと、意欲をそがないことのためにできること、そして、決してしてはいけないことは何か自問する日々が続きそうだと思いながら、雑誌に新聞にを追う今日この頃。

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