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映画「悪魔を見た」視聴

1998年、映画「ディープインパクト」は地球に彗星を落とした。

アルマゲドンがそうだったように、ディープインパクトでも自己犠牲により彗星は破壊されたが、すべてを救うことはできなかった。
小さな星の落下は甚大な被害をもたらした。巨大な津波が数百万もの命を奪ったのだ。

しかし今回、あの懐かしい映画で思い出したいのは「あの日、たしかに幸せだった」と共有した親子の物語だ。
自分の内にある「あの日、たしかに幸せだった」と実感できるものについてだ。


先日視聴したビー・デビルにおいては、なんだったか。
犯行に至った者にとって、幸せとはソウルに旅立った幼なじみとの日々だ。幼なじみであり、ソウルであり、娘だ。

「あの日、たしかに幸せだった」と感じるものを踏みにじられたとき、破壊されたとき、奪われたとき、人は悪魔のような所業に出るほかに自分を守れないのではないか。

それほどの傷を負うのではないか。


人気俳優イ・ビョンホン主演の「悪魔を見た」。
原題は「악마를 보았다」。
あまりにも陰惨な表現がある。
とりわけ女性への加害行為が描かれることが多いため、苦手な方には絶対に勧めてはならない作品だ。


・内容をかるく紹介すると?

国家情報院捜査官スヒョンは仕事中に婚約者ジョヨンから連絡を受ける。夜間に車を運転中、パンクをして立ち往生しているというのだ。ロードサービスを頼んで待っていると語っていた彼女が不安を訴える。男が声を掛けてきた。どうしよう、と。
ロードサービスを待って。車から出ないで。仕事があるから、ごめんと通話を切る。それがふたりの最後の会話になった。
後日、ジョヨンは遺体となって発見された。身体がいくつもバラバラにされた、とても無残な姿で。
スヒョンは休暇を申し出て復讐を始める。
ジョヨンはだれに殺されたのか。どのようにして?
犯人がジョヨンの苦しみを味わうことを望み、スヒョンはあらゆる手を尽くす。


・感想

作中では犯人の犯行場面がたびたび映る。
それに犯罪者は犯人以外にもごろごろ出てくる。
殺人犯、猟奇殺人、性描写に過激なゴア表現ありと、年齢制限ありの内容でも、ここまで尖った作品には久しぶりに出会った。


ビー・デビルは幸せの象徴を何度も回顧したり、憧憬の場面を描いていたうえで、ことごとく希望が裏切られる過程を描く。
ささやかな幸せがとても残酷な形で破壊されていく。

悪魔を見たでは幸せを描かず、破壊と喪失の場面を繰り返しながら奪いあいへと転じていく。
失ったスヒョンが犯人を苦しめて、如何にして破壊するかに執心していく。

怪我をすると、その痛みで頭がいっぱいになる。
キッチンや風呂場、寝室に害虫が出たら気になって仕方なくなる。
比較としては弱いが、こうした反応がより過剰に、より深刻に続く。

そうした反応と現実の安定をどのようにして取ろうか。
許せない。許せない。許せない。我慢してなるものか。
やまほど浮かぶ敵意や殺意、復讐の意欲。
スヒョンが復讐を遂げようとすればするほど、観ているこちらは、彼の行いから彼の内にある悪魔を目撃することになる。

ビー・デビル、悪魔を見た。
両作品に共通するのは「たしかに幸せだった」ものが壊されたとき、人は歯止めが利かなくなるという事実ではないか。

壊れてしまうのだ。
過剰に行動するほど悪魔のような所業に出るが、その自覚がない。それどころではないのだ。そのため、まず他者が自分に悪魔を見る。悪魔になった自分は主観において変化に気づかない。気づく余裕がない。そのつもりもない。

「たしかに幸せだった」ものを思い出すことさえできない。
壊された。奪われた。盗まれた。台無しにされた。
そのことで頭も心もいっぱいなのだ。
受け入れるどころではないのだ。

あの日、たしかに幸せだった。
そう思えるものがいま、どれほど数えられるだろう?
それらはどれほど、この胸を、心を癒やすだろう。
それが破壊された。奪われた。盗まれた。台無しにされた。
許せるはずがない。

「悪魔を見た」には耳障りのいいことばも救いとなる結末もない。
現実のように、なにをしようと癒やせるものではない。
壊された。奪われた。盗まれた。台無しにされた。
そのことで頭も心もいっぱいなのだ。
受け入れるどころではないのだ。

現実を自分の痛みに合わせるように行動する。
犯人は性嗜好にあう人をものとして、はけ口に利用する。そうでないものは邪魔かどうかで捉える。
スヒョンはジョヨンを穢し、傷つけ、絶望させたうえで無残に殺した犯人をジョヨンと同じ目に合わせるためのものとして復讐する。

「あの日、たしかに幸せだった」と振り返り、自分を癒やす余白はない。破壊されたこと、手に入らないものばかり浮かんでしまうから。
それならそれで構わない。ほしいもののために生きる。
一見すると、よくある選択に思えるが、実際はどうか。
ほしいもののために生きることを選んだ犯人は、際限なく人を殺していく。犯せるとみるや、躊躇せず女性に暴行を働く。恫喝する。武器で殴りつけて気絶させる。
スヒョンが復讐のために犯人を苦しめようとすればするほど、泳がせるほどに人が死んでいく。スヒョンは犯人の身の回りの音を盗聴しているため犯行に気づく場面も多い。
止めに入ることもあるが、すべて後手だ。
犯人を泳がせる時点で犠牲者が出ること、その行いについて、頭にない。スヒョンは犯人を甘く見ていた。舐めていた。その報いを、だれが受けるのか。どういう人が殺されていくのか。そしてそれらはいったいどのような形でスヒョンを追いつめるのか。

傷つくほど、傷つけられるほどに頭は憎悪と憤怒で満たされていく。
そこに「あの日、たしかに幸せだった」と思えるものが入り込む余地などない。そもそも、そんなものがあったのかどうかさえ定かではなくなっていく。
壊された。奪われた。盗まれた。台無しにされた。
そのことで頭も心もいっぱいなのだから。
幸せな瞬間すべてを喪失に塗りつぶされた。
そう感じながら自ら憎悪と憤怒で塗りつぶしていくのだから人生は皮肉だ。

どれほどの登場人物が悪魔を見ただろう?

いま、ふり返ることはできるだろうか。
「あの日、たしかに幸せだった」と思える瞬間をいくつ数えられるだろう?
それとも悪魔を見るのだろうか。

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