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映画「ビー・デビル」視聴

映画「김복남 살인 사건의 전말(Be devilled)」を視聴。
邦題はビー・デビル。
韓国語の本作タイトルを日本語にすると「キム・ボンナム殺人事件の顛末」かな?
年齢制限あり。
暴力、差別、性加害その他加害行為場面を含める。




・ネタバレ含むあらすじ

ソウルの銀行で働くヘウォンは、かつて生まれ育った無島の幼なじみボンナムからの手紙や連絡を無視して過ごしていた。ある日、女性が若者三名に暴行される現場を目撃するも、なにもせず。警察に出頭して証言を求められるが、なにも言わずに逃げようとして犯人に絡まれる。

そんな出来事も起きる日常に疲れ果てたヘウォンは顧客への態度が辛辣、後輩への態度も悪く、親切さが欠片もなくて孤立していた。そんな日常に疲れ果てていたある日、トイレ清掃での嫌がらせに遭い、後輩の仕業だと勘違いして八つ当たりビンタ。休みを言い渡されて、無島に帰ることを決意。

無島。住民が十名に満たない、小さくて閉鎖的な島でボンナムが喜び出迎えてくれるが、年配女性たちはヘウォンを厄介者扱い。それにボンナムへの言動も辛辣。
なぜか。ボンナムは幼い頃にわずかな住民のわずかな少年たちに性的暴行を受けていた。そのため妊娠。学校に通うことも許されず、避妊具などもなく、あっても使うことを許さない身勝手な少年たちは男へと成長。そのうちのひとりマンジョンがボンナムを嫁にして、生まれた娘ヨニを迎える。けれど、マンジョンはヨニにさえ性的暴行を継続的に加えていた。そのような男がボンナムに対してどのような態度で過ごすのか。ろくなものではない。

だれもがみなボンナムの妊娠の経緯について知りながら「島に必要不可欠な男だから」と擁護。その代わりに、すべての責任をボンナムに押しつけて村八分にしていた。それだけではなく、ボンナムに過酷な労働を押しつけて、四六時中のように罵倒していた。小さな島でボンナムが心安まる相手はヨニしかいない。

ボンナムはヨニに教育を受けさせたい。十歳になってもまだ小学校に通えていない。ソウルに住むヘウォンに助けを求めていた。

マンジョンは家父長制の権化のような男で、ボンナムの合意など得ずに自分の欲のまま性行為に及ぶ加害を長年つづけている。村の男たちもふたりのときには当たり前のようにボンナムの身体に触れてくる。そんな事態をすべてボンナムのせいにしながら、マンジョンは時折、行商にやってくる者を金で買い、暴行のような性行為に及ぶ。その時間こそがボンナムにとって「今日は、いまだけは休める」「さすがに私に手を出すまい」という時間なのだから皮肉だ。その選択がマンジョンの母をはじめ、周囲に白眼視される行為だと知っても、ボンナムにとっては切実だ。

そんな村の歪さに触れながら、ヘウォンは過去を思い出していく。退屈な島の生活でボンナムと過ごした幼い頃の記憶を。楽しい時間のなかにある、ごく僅かな遊び、戯れのような触れあいの時間を。キスをして笑っていたら、少年たちがやってきて、ボンナムが助けてくれた。そうして逃げたヘウォンは、ボンナムが追いかけてこないことに気づく。戻ってみると、少年たちが幼いボンナムに群がっていた。“見ていた”けれど、ヘウォンは助けなかった。

ヨニを抱いて臀部をなで回すマンジョンを見て、このままではいけないと危機感を抱いたボンナムは島を出る決意をするが、船に乗ったところでマンジョンに見つかる。癇癪持ちのマンジョンの怒りは収まるはずもなく、ボンナムへの暴行が止まらない。見ていられないヨニが仲裁に入ろうとして、マンジョンに蹴り飛ばされた。後頭部を岩に叩きつけられて、ヨニはそのまま亡くなってしまう。しかも島の外から来た医者に、村人たちはよってたかってボンナムのせいにした。ヘウォンは「見ていないから」と証言するが、彼女はやはり“見ていた”。そのうえで嘘をついたのだ。

ボンナムは翌日、ジャガイモ掘りを強要されて働く。だれもなにもしない。手を貸そうともしない。疲れ果てて見上げた太陽に、踏ん切りがつく。

「我慢をしたら、自分が壊れる」

鎌を手に住民たちを殺害。漁に出ていた男たちを殺す。その現場を目撃したヘウォンはボンナムから逃げて荷物もそのままに島を出た。そのため身元不明者として警察に捕まる。

ボンナムはヘウォンの荷物を持ってソウルに行こうとするが、ヘウォンの使った船が警察に調べられていることを見つけて、彼女がいる留置所へ。

憧れと愛着を持てる唯一無二のヘウォン。自分を見捨てるヘウォン。助けてくれないヘウォン。彼女が親切ではないといいながらもボンナムは、幼い頃にヘウォンが吹いていた笛を渡して吹いてくれと願う。襲撃した警察署で息も絶え絶えの警官に撃たれてしまう。さらにはヘウォンがふたつに割った笛でボンナムの首を刺した。
それでもボンナムは死の間際、ヘウォンの音を懇願。彼女に寄りかかり、残ったもう片方の笛を彼女の口にあてがう。恐れながらも吹いたヘウォン。縋るように伸びたボンナムの手を取り、自分の過ちを自覚するが、次の瞬間にはボンナムが絶命。なんの救いもない結末へと至る。

悔いたヘウォンは冒頭で目撃した女性殺害暴行事件の犯人について証言。家に帰り水を浴びる。濡れた服のまま、何通も届いていながらゴミ箱に入れたボンナムの手紙を取りだして開封した。
愛するヘウォンへ。ボンナムより。何通もの手紙に綴られた文字はヘウォンのことばをずっと望んでいた。




・感想


傍観者というのが本作のテーマだそうだ。
ヘウォンは目撃した暴行事件、殺害を傍観した。警察署で殺害された女性の父親が必死な形相で「頼む! 見たんだろう!? 話してくれ!」と懇願されても無視して職場に戻ったのだ。
ヘウォンの傍観者になる選択はこどもの頃から繰り返されるもの。ボンナムへの暴行。島の人たちのボンナムへの態度。すべて、見て見ぬ振りをする。ヨニが殺されたときも。ヨニ殺害がボンナムの責任にされたときも。
徹底的に傍観者になろうとする。傍観者は助けない。傍観者は問題に関わろうとしない。語らない。

島民たちは積極的・消極的な虐待を行いながらも同時に傍観者だ。
狭い島、架空の場所である無島では男至上主義、家父長制を掲げながら男たちを都合良く利用していた。シニア層の女性たちには男たちはなくてはならないインフラだった。
そのために男たちが島の外に出ないように繋ぎ止める生け贄が必要だ。それこそが若い女性。男たちが性衝動をぶつけることのできる存在なのだ。
正当な調査などされては困る。若い女はボンナムしかいない。
ヨニに教育? 困る、困る。教育を受けた女は都会に逃げる。
そしたらどうなる?
男たちがいなくなる。
自分たちが面倒になる。
だからみな、傍観する。
若い女が男たちにどれほど虐げられようと、見て見ぬ振りをする。そのうえで若さを汚らわしく扱い、暴行された女を奴隷のように捉える。その態度を隠そうともしない。
傍観者でいることが利益になる。ひとりを犠牲にして、自分たちの生活が維持されるのなら、それでいい。みんなでひとりを生け贄にする。その対象として幼い少女さえ例外にしない。

島民の意思決定の旗を振るマンジョン、マンジョンの母は、それでいいのだ。マンジョンの母も島に嫁いできたのは十五のとき。なにをどう体験してきたのか、想像するに余りある。が、行き着いた選択がボンナムを生け贄に。あらゆる虐待、性的暴行を黙認するのみならず、村全体でボンナムを奴隷扱いする。
そこにはマンジョンの母の自己投影、影を察するなにかがあるし、ボンナムへの対応を擁護するものでは断じてなく、できるものでもまた断じてない。

あらすじにおいては触れなかったが、島には“なにも語らない、まともに動けない老人”がひとりいる。彼は島を襲った嵐で生き延びた男だ。男だが、彼は嵐の後遺症か高齢だからか、前後不覚で働けない。そんな彼はまるで島の象徴のように、お供え物をされる。みんなに世話をされている。いうなれば神だ。支配しない。語らない。ただ偶像として利用されるだけの男だ。
男を立てる、という象徴として彼はただいるだけ。ボンナムにひどい態度を取ることもない。そのためにボンナムは彼を殺すことさえしない。
彼は徹頭徹尾、傍観者だ。なにもできない傍観者。生かさず殺さずに置かれるだけの傍観者。

そんな傍観者たちの、そして欲望を晴らしたいものたちの生け贄にされて、我慢を強いられたのがボンナムだ。
娘のヨニは母がどんな扱いを受けているかを目の当たりにしているだけではない。書類上の父マンジョンが島の実権を握っていて、島で生きるにはマンジョンに好かれなくてはならないと思い込んでさえいる。

洗濯したマンジョンのズボンのポケットから、ヨニが履くであろうウサギのパンツが出てきた場面は言葉を失うが、他のシーンもおぞましい。ボンナムが家の扉を開けると、マンジョンが自室でヨニを向かい合って抱いて、臀部をなで回す。腰を密着させた状態で。
ヨニは母にこう語ることさえあった。「お父さんに好かれないといけない」。

島の人間はだれもあてにならない。ボンナムはヘウォンに助けを求める。ソウルに連れていってと。けれど面倒がるヘウォンはこれを拒絶した。娘が父に? あり得ない! こんな嘘までついてとボンナムを罵倒して。
翌日、ヘウォンがヨニに尋ねる。お父さんにどう愛されているの? と。その答えでヨニになにがあったかを察しながら、それでもなお、ヘウォンはボンナムもヨニも助けようとはしなかった。

ボンナムは徹頭徹尾、虐げられる。
作中には性行為の描写があるが、どれもが暴行だ。
合意形成のごの字もなく、尊厳のその字も無視。
マンジョンは途中、行商にきた女性と行為に及ぶ。
その場面においてはより一方的かつ暴力的だ。
性行為を動画として多数製作・販売されている。世界中で。そのなかでも目を背けたくなる、けれど目にしたことのあるものだ。
ただただ一方的に、ボンナムを、行商の女性を利用して、自分を満たしたいだけの加害行為。
それは男にとって存在することを否定できないものだ。
いわんや、女性にとってはどうか。

島においては、人はものだった。
自分に都合のいいものに過ぎない。
だれもかれもがそう扱い扱われるのだが、そのすべての不満のはけ口として、ボンナムが生け贄であることをボンナム以外の全員が選んだ。
そのために増える傷も、踏みにじられるばかりの尊厳も、だれも気にしない。目を向けようとしない。
痛みに苦しむだれかに対して、だれもかれもが傍観者だ。
苦痛、苦悩に関わらない。
求めるのは自分の都合を満たせる“もの”としての振る舞いだけ。

韓国で起きた性犯罪を三件、題材にしているという。
性犯罪は人権を踏みにじる犯罪でもある。
おとなが守られないとき、おとなさえ自己責任だの必要だからだの理由をつけて尊厳などないように扱うとき、その矛先は当然のようにこどもにさえ向かうし、全体が被害を再生産する仕組みを維持するほうへと協力していく。

ボンナムが「我慢をしたら死んでしまう」と行動を起こす。
その行動こそがフィクションの魔法として選ばれたものではないか? あまりにも無慈悲な話だが。
現実には行動を起こせない人のほうが大多数ではないか。
それはそうだ。当たり前なのだ。被害に遭って傷つき苦しむ者に「なにかをしろ」だなんて、酷な話なんてことばさえおこがましいものだ。
司法だけでは足りない。法制度だけでも足りない。生活の保証だけでも足りない。なにより傍観者が多すぎる。
そうした問題提起として、鋭く描いた一作だ。

人はものではない。
すべての人に尊厳があり、権利があり、犯してはならない領域がある。それゆえの合意形成がある。
私たちには等しく人権がある。
けれど、いまもボンナムのように我慢を強いられている人がいる。
私たちはどうする?
あらゆる場面で問いかけている。

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