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なぜ意図を働かさざるを得ないと感じるのかについての考察②

感覚から入ってくる情報が、私の中にさまざまな知覚を引き起こす。

全ての観念はこれらの知覚をもとに作られる。

知覚はあらゆる観念の根源的な素材と言える。

(それ以外の(抽象(複合)的なものを含む)観念は全て経験に帰する。)

知覚は外界の情報を感知するセンサーのような働きをする。

目が覚めている限り、意図する、しないに関わらず、あらゆる刺激に反応する。

そうして知覚された全ての情報を「私」が認識することはない。

視界の隅に映っている(はずの)対象を私は認識しない。

「意」は特定の知覚の存在を、「私」に知らしめる働きをする。

知覚として生じ、意の働きによって、私と紐付けられたモノが、最初の観念になる。

最初の観念は言葉で説明できない。

お茶の味は自ら確かめてみることによってのみ、(経験として)理解される。

そして、この(最初の)観念を、他の観念と取り違えることはない。

お茶を飲んでコーラの味がすることはない。

だから、この(最初の)観念が、もっとも明晰で判明なものといえる。

意がその時々で何と結びつくかは、自身の習慣、対象の情報量、変化の度合いによる。

目に映る対象で、大きなもの(情報量の大きなもの)、関心のあるものほど目を引きやすい。

お茶を飲み込まず、口に含んだままいれば味は消える(変化しないから)。

諸行無常だから意は絶えず何かと紐付こうとする。

何もしなければ意の働きは弱まる。

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