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自他の区別が生じる前はどのような状態であったか②

赤ん坊は私という存在を知らない。

その様な状態でミルクを口に含む。

私はいなくても、味は生じる。

味を生じさせた対象(ミルク)が、味とは別に存在することも知らない。

主体も客体もないんだけど、ミルクの味(という知覚)のみ生じる。

心は「〰になる」働きだから、ミルクの味しかないとき、心は、自身がミルクの味になったと感じる。

私=ミルクの味だと感じる。

心が味を感じるのではなく、心は味そのものになる。

心は対象そのものになることで、自身(心)と対象とを存在させる。

何度もミルクの味がするにつれて、それが生じるとき、必ずミルクもセットであることを経験的に学ぶ。

すると、ミルク=ミルクの味という紐付けが生じる。

更に、(私の在り様であった)ミルクの味という性質についても、ミルクの中に在るものだと思い始める。

対象を分離すると共に、それを経験する主体すら別に拵えてしまう。

ミルクを飲むと、ミルクの味がする、という一連の判断が定着し、習慣化される。

こうして、対象を分離し、私の性質(ミルクの味としての在り方)すら、外部にあるものとして分別してしまう。

見たら見たモノになる、聞いたら聞いたモノになる、とか言うけど、赤ん坊の頃はその様に感じていたはず。

私が生じてから、主体を分離するから、その様な在り方を忘れてしまっているだけ。

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