自他の区別が生じる前はどのような状態であったか③
ミルクという対象と、ミルクの味という性質を、私の外にあるものとして切り離す(心の中で分別する)。
何度もミルクとミルクの味が一緒に立ち現れては消える経験が積み重なる。
すると、ミルクを見ただけでミルクの味が(自動的に)思い出される様になる。
更にミルクのことを思うだけで、ミルクの味を思い出せる様にもなる。
そこまでくると、ミルク、ミルクの味という観念が既に出来上がってしまっている。
もはやミルク(実物)とは別に、思考はミルク(とその味)の観念をいつでも取り扱えるようになる。
同じ理屈で、視覚、聴覚、嗅覚、味覚、触覚とそれらを引き起こす対象との紐付けが、縦横無尽に出来上がる。
更にそうして出来上がった観念と観念同士の紐付けもなされていく。
何が事実で、何がそうではないのか、それらを取り扱っている私という主体も含め、分からなくなる。
もとを辿ればただの心の在り様、クオリア、六境等でもいいけど、縁に応じてそれらが生じては消えているだけ。
ミルクを飲めばミルクの味がする、見ればモノが見える(という心の在り様になる)。
味は、舌にモノが触れた時にしかないし、何も触れていなければどこにもない。
打掌すれば音は生じるけど、消えればどこにも残っていない。
私という存在も、自らを省みれば生じるが、それ以外の時にはどこにもいない。
何度も経験し、記憶が増すにつれ、ただ習慣的に、縁に触れて、その様に(在ると)思っているだけ。
以下の記事も同じ感じ。
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