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1982年7月23日 長崎大水害

1982年7月23日の長崎大水害を違う面から書いてみる。

平成元年、社会人になって初めての職場の飲み会での話。
「高校の修学旅行で長崎に行った時、その年の水害で壊れた眼鏡橋が工事中で見られなかった」という話を長崎出身の先輩M樹さんにしたところ、こんな話になった。

~M樹先輩の1982年7月23日の話~

『あぁ、あの水害の日、私、居酒屋で友達と飲んでたんだ・・・』

小雨だった夕方から居酒屋の二階の窓際の席で飲んでいたら、急激に雨が強くなり、雨が止むまで飲み続けようという事になったという。しかし雨は一向に止まない、それどころか強くなるばかり、そのうえ停電と冠水の発生で帰るどころじゃなくなってしまった。窓の外の水量もみるみるうちに増えてゆき、どこまで水量が増えるのか、最初のうちは酔った勢いでおもしろがっていたが、シャレにならない水量になってきて酔いも醒め、逃げようと思った時にはすでに遅かった。夜中には窓のすぐ下にまで水が押し寄せていてさすがに命の危険を感じたと。
梅雨末期で雨の日が続いていて、連日のように注意報、警報が出されていたことで、大したことはない、大丈夫とナメていたとも言っていた。

M樹先輩は、ネタのようにけっこう軽く話していたが、笑うに笑えなかった。あいさつ代わりの儀礼的な出身地の話、しかも安直な修学旅行の話に返ってきたすごい話だった。

地表から2.05mの高さまで浸水した ことを示す説明板(2009年7月撮影)

長崎市内では23日夕刻までの小雨模様が急変し、夕食や帰宅時間帯に100mm前後の猛烈な雨が集中。長崎海洋気象台は、雨脚が強まる前の16時50分には大雨警報を発して厳重な警戒を呼びかけたものの、折悪しく連日の警報に慣れた市民の多くは事前に対策を講じることなく、市民生活を完全に麻痺させた。また、斜面都市としての長崎市の特性が災いし、「水害」の名とは裏腹に土砂災害による犠牲が溺死者を大きく上回ったのが長崎大水害の特徴で、長崎市内の死者・行方不明者299名のうち、およそ9割にあたる262名が土石流や崖崩れによるものであった。

雨の降り方は激烈を極め、夜間、停電という悪条件が重なり、住民の避難の足が鈍っていたところを、短時間での冠水により、車やバス、電車の立ち往生、橋梁流失や土砂災害による交通寸断が短期間に起こり、なすすべがなかった。通信の輻輳や寸断で行政当局に救助を求める通報すらままならず、通報を受けた行政側も救援が思うに任せず、被害は拡大していった。

Wikipediaより

長崎県の主な被害状況
死者:294人(内、長崎市内の死者:257人)
行方不明:5人
全壊:584棟
半壊:954棟
一部破損:1111棟
床上浸水:17909棟
床下浸水:19197棟

7.23長崎大水害 気象台のデータ

私が住む関東でも、昭和57年(1982年)は、梅雨明けが8月にずれ込み、不順な夏、冷夏だった。
この「7.23長崎大水害(昭和57年7月豪雨)」は、日本最大の水害で、長崎の都市インフラが破壊され、「都市型災害」の始まりとも言われていて、後の記録的短時間大雨情報の創設につながっている。

私が社会人となったこの年(平成元年)から、夏の暑さが変わった記憶がある。私の勤務していた会社の近くの目黒川が、大雨で何度か氾濫し、流れてきたゴミが橋の上に打ち上げられ、散乱していたのをよく覚えている。

地球温暖化、環境の変化が激しい今の時代、毎年のように起きる大水害。どこで起きるかわからないからホント要注意だな。

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