例のヤツがマルタで広まってから起きたこと*宗教編

 マルタは言わずと知れたカトリック大国で、祝日もカトリック関連のもので溢れかえっている。例えば、つい最近でいうと、聖ヨゼフ(イエスの父)の日だ。無原罪の御宿も祝日だし、聖ペテロと聖パウロの日(イムナリヤ)、聖パウロの難破の日も祝日だ。祝日だけでもそうなのに、すぐ歩けば教会(それも大きい)がそこらじゅうにある。復活祭や聖週間、レント、待降節、エピファニー、守護聖人の祝日など視覚的にもわかりやすい。とまれ、カトリックに関心がなくても、マルタで生活していると、否応なしにカトリックの暦を体感することになる。中絶をめぐる議論では、否定派が圧倒的に世論を占めている。妊娠中絶をする場合は、どこかへ出かけて、そこでするしかないのだ。モーニングアフターピルの議論だって、一筋縄ではいかなかった。正式に離婚できるようになったのも、2011年のことだ。

 さてこの調子でマルタがいかにカトリックであるかということを語っているとキリがないのだが、今話題の例のヤツで何が起きたかというと、日曜日のミサの出席義務は免除され、予防措置のため、集団での祈りが行われない代わりに、ロザリオの祈りを公共放送で生中継、さらには、日曜日にはゴゾ島の言わずと知れた奇跡の教会タピーヌ教会からのミサのテレビでの生中継である。

 また、南部のゼイトゥーンのある通りでは、近所の人たちがバルコニーに出て、みんなでロザリオの祈りを唱えるという出来事があったし、某SNSでは教区教会でのミサをlive videoで中継していた。余談ではあるが、そのミサを執り行っていたのは、知り合いの司祭だった。

 間違いなくこのまま聖週間に突入するだろうし、プロセッション(イエスの受難を再現する練り歩き)も中止である。復活祭のミサも画面越しとなるであろう。カトリックを基にした共同体そのもの自体の存続が危うくなることはないのだろうか。あるひとつの場所に集まらずに、各個人が画面越しにミサに「参加」しているのだが、それはあくまでも非常時の手段であることはわかる。しかしそこでは、それまでは教会という共同体を形成する聖なる場で行われていたものが、家あるいは個人の空間に持ち込まれることによって、ミサの意味がいかに変化するのか(あるいは、変化しないのか)観察するに至るのには興味深い。専門ではないので論じるには至らないかもしれないが、考えてみることに畏れることはないので、隙あらば考えてみることにする。

 

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