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生きるとは。

アウトプットが間に合わない。

書きたいことが山ほどある。
それに伴う技量が、ない。

感じるものは、ある。
書きたいことも、ある。

それを文章に変えることに
まだまだ時間が掛かり過ぎてしまう。

それでも、このnoteを
毎朝書くようになってから
言語化の負荷が下がってきている。

つまり、言語化筋肉が付いてきたようです。
言語化の筋トレ。

でも言語化の筋トレをしようとして
note執筆に取り組んでいたのなら
とっくに匙を投げていたに違いない。

そんな、努力忍耐根性はない。わたしに。

おもしろいからやっていた。
面白いんだ。言葉って。
言語化って。

そしてやってみると
難しい。悔しい。足りない。

だからまた、もっとやりたくなる。


でも、わたしは難しいって言葉が
好きじゃなくて。

難しい、って口から出そうになったら
「奥深い」と言い換えている。

難しい、ってラベリングした事象って
とっつきにくくなってしまうから。

感じたことに対して「難しい」という
意味を付けた途端、
もう自分のものではなくなる感覚がして。

手に入れることを諦めた、という
意思表明のように思えて。

「理解するのは無理だ!」と同じ意味の。

あなたにとってはどうですか?
知りたい。

難しい、という言葉の
重さ、深さ、質感、香り。
空気感。

難しい、という言葉を用いると
「よし!やってやろうじゃないか…!」
「その、難しいってやつを解いてやろう!」
等と、力に漲ってくる人もいると思う。

言葉。

言葉って本当に………難しい。

今ね、わざと使ってみたんです。
言葉って「難しい」と。

もうね、諦めている感満載。
自分のものにならないことを甘んじている、
諦めている、自分がちっぽけになる。

そんな感覚。

言葉って、奥深い。  

うん。奥深い。 
こっちなんだよなぁ。
奥深い、だと
こちらから見据えている感覚なんだよね。

難しい、だと
「難しい」と感じている事象がメインで
自分が遠く離れた場所にいる、そんな感覚。

奥深い、は
自らその事象に触れて味わっている感覚。
容易に全貌が掴めないさまを
味わっている。興味深く。

わたしはね、そのように感じているようです。
わたしの価値観です。

そんなこと普段わざわざ言語化しなかったけど常々、頭の何処かでそのように考えてはいたんですよね。

あなたは、どうなんでしょう。
あなたの価値観。



8時間ぶっ通しで語り合う


昨日は台風の影響により
朝から晩までほとんど缶詰め状態。

丸一日休みだったんです昨日は。
わたしもパートナーも。

それでね、朝から晩まで
ずっと話をしていたんですよね。

楽しくて楽しくて。
おのろけかしら。いえいえ。

だって、ここだけの話ですけど
仲がよろしくなかったんですよね。
少し前まで。

ここだけの話し、って
こんなオープンな空間で
何を言っているんだお前はと言いたいですけど。

仲が悪くなっちゃってたんです。
ははは。

まぁ、色々ありますからね。 

色々があって、色々がなくなって
色々が増えて、色々が減って。

我々夫婦も移り変わって来た訳です。
諸行無常。

何が言いたいかというと
ただの仲良しほのぼの夫婦ではなくて
紆余曲曲曲折折折折あっての
今なのだということです。

そして昨日。
朝から晩まで話が尽きなかった。
こんなに話したのは
本当にいつぶりだったんだろう。

笑い過ぎて声が出なくなって
足をジタバタさせたり

お互いの価値観の違いを楽しんだり。

へぇー!あなたはそう思っているんだ!
私はこう思っている。
あなたはどう?

というコールアンドレスポンスの
ラリーが延々と続いて。

中でも驚いたことが「ひまつぶし」について。


ひまつぶし、とは


彼はよく言う。
「人生はひまつぶしだ」と。

わたしはその言葉が
非常にいただけない。

人それぞれだから、それでいいんじゃない
とは思うんですけれど

一緒に生きているのに
それを言われてしまうと
ものすごい虚しさに見舞われる。

自分の中にその言葉を取り入れたいとか
興味深く感じて、落とし込みたいという
気持ちになりようがないのだ。

そして。
昨日、彼が言った。
「人生はひまつぶしだ」と。

わたしはこの言葉を聞くと
非常にやるせない。虚しい。と伝えた。

そして、わたしは彼に問いを立てた。
ひまつぶしとは何か、と。

まず、わたしの価値観で言う
「ひまつぶし」とは何なのかを聴いてもらった。


「暇」とは。

つまり、やりたいことがない。
主体性を持って積極的な行動を
起こそうとしていない、怠惰なさま。
やる気がない状態。

それに甘んじて、だらけていることを
「ひまつぶし」だと。

やる気のなさを
意味のないことで埋める行為だ、と。

すると、彼はたいそう驚いた。
俺の「ひまつぶし」はそうじゃない、と。

やっぱり。
やっぱり。
やっぱりそうなんだ!!!!


ひ、ま、つ、ぶ、し。

この5文字に込めたアレコレ。
ドンピシャ、ぴったり、バシーン
そんなことあり得ないんだ。


彼の思う「ひまつぶし」とは。

起きていることに何の意味もない。
何の意味もない「暇」に相当する。

神から与えられた「暇」
それ自体が人生そのものであるからして
それを自ら「潰していく」と。

何かをせねばならないのでもなく
何かをせねばならないと使命感にかられても良い。

あらかじめ決められた意味を持たずして
生きることが許されている。 

だからこそ、この世に生を受けた時点で
与えられた「時間」イコール「暇」なのだ、と。

お好きにどうぞ、だと。

つまりは
何の意味もない、真っ白なノート。
人にはそのノートが与えられている。
ページが限られた、それ。

そのノートに好きなだけ好きなように
自分で書き入れていく行為。
それが「ひまつぶし」だと。

驚いた。
なにそれ………!!!!

それ………… 
わたしの知ってる
ひまつぶしちゃう…………!!!


ぜんっぜん違う。



「暇」でも「潰し」でもないよ、もはや。

彼の言う、ひまつぶし
めっちゃええやん。

それなら、いい。
そういうことなら、受け入れたい。
人生はひまつぶし説。

すれ違い。
こういうことなんだ。

わたしにとってのひまつぶしは
もっと消極的でだらしなくて
その怠惰を受け入れて
時間を無駄にするさまだったのに。

これなんだ。
こうやって、すれ違っていくんだ。

こうやって、伝えたいことを
伝えたつもりで伝わって無くて

伝えたかったことは伝わっておらず
伝えたはずのないことが伝わっていて

めちゃくちゃ。
でも、それで良いような気がして。

それでも、それでも、それでも
それでも知りたい。相手のことを。
知ってほしい、自分のことを。

という間柄だけでいいと思う。
心を通わせ合いたい、と
本腰入れるのは。

それ以外はそれなりで。
フィーリングで。それも良い。
余白を残して、その余白で味わう。

そう。その余白が
心地良いものを放ってくれている人。

いるいる。
もはや言葉が要らない。
かえって邪魔になるような。

好きだーー、そういう人と居るの。
チル、ですね。いわゆる。


逆に、交わし合う何かの中で
違和感を感じざるを得ない余白を持つ人もいる。

いたたまれなくなるような緊迫感を持った、それ。
おそらく強烈にコントロールしたい 
想念に駆られている人特有のそれ。 

こんな時はこんなことを言わねばならない
こんな時はこんなことをしてはならない

思考に苛まれていると陥る
余白埋めたがり屋さんになっちゃう。

この場合の思考とは
不安、ネガティブのことと言い換えられる。

わたし、この状態に入りがち。
だから手に取るようにわかる。この状態。
埋めたくて埋めたくて仕方無いの。

また小難しいこと言っちゃって


この世界は
分離を味わうようにできている。

わたしと、あなた。
全く同じじゃない
でも全く同じでもある。

常に分離しながら広がり
全一に戻ろうとする性質。

だから、諸行無常。

すれ違うのは当然のこと。

リアルタイムで起きる
すれ違いならば良いんだけれど

良くはないんだけど
まだ、マシ。でしょう。

伝承されてきたものが
どんどんすり替わっていく、
それはどうすりゃいいのさ。と。

人が作ったものを人が作り替えていく。
進化とも言えるけど
果たしてどうなのだろうか。

聖書だって、般若心経だって
経典、教え、あれもこれも
どんどんどんどん
改編されて内容が変わっていっている。

口伝も、何でもかんでも。
伝言ゲーム状態になってしまう。

例えばですよ。

始めに伝えようとした文言
「長雨に飽き飽きして踊り出した」 

というものから
捉え違い、解釈の違い、
あれこれがなんやかんやして

最終的には
「長雨にウキウキして踊り出した」
なんてすり替わっていっちゃったとしたら

長雨にうなだれる消極的な生き方ではなく
積極的に、自ら踊りだそうではないか!

という心境をうたったと思われる前者と

長雨という現象から、
ウキウキとした高揚感にさせられて
踊りたくなる気持ちにさせられて踊り出した

という現象をうたったであろう後者では
大分意味が変わる。
いや、まったく意味が違う。

汲み取れるものがまるで違う。

もはや何が何だか

  
だから、やっぱり
すべてのものに意味はないのだから 

自分で好きなように好きなだけ
あれはこうで、これはああだ、と
意味を付けていって、それを味わう。
シェアしあう。それがいい。

と、すると…一周回って
彼の言う「全てはひまつぶしに過ぎない」
ということになるのかもしれない。

残ることが許されたものは残る。
そうでないものは淘汰されてしまう
そういうことなのだとしたら 

もう、与えられる事を待ったり
残されたものを拾い集めるよりも

自ら仮説を立てて検証して
考察して練り直してまた仮説を立てていく。
繰り返していく。

つまり自分を使って人体実験、実践をする。

そして、ああでもないこうでもないと
考え抜いて、そしてその全てを捨てて
また人体実験、実践をする。
その繰り返し。

とは言え、先人たちの
残してくれた教えによる
多大なる恩恵に預かりつつ。

自分で、自分の力で得た知恵、なんて
慢心していると浅はかな自分に
酔ってしまったりする。

そんな愚かさが、わたしには少なからずある。

言語化による違和感

なんとなく思っているけど
わざわざ言葉にしないことを言葉にすると
ちょっと後ずさりしそうになる。

随分とご立派ですねぇ、と。

威張っているわけでもないのだけど
わたしは小難しい。細かい。

それが嫌で、そういう自分を蓋して
感覚鈍麻に陥らせて生きてきたけれど。

吹っ切れて。

もうこの小難しい自分でいく、と。

この小難しさも出し切れば
何か変わるのかもしれないし。

ただ、noteを読み返すと
頭を抱えてしまいそうになる。

ご立派なこと言っちゃってますねぇ、と。

生き方と一致せず背伸びしたこと
言っちゃってますねぇ、と。

それでいいのかもしれない。
それこそが今の自分だから。

もがいている。
そして、それが好き。

見上げるところは高いが
足元からかなり離れている。
その距離についてを言葉にしている。

足元見て歩くのもいいけど
「うわー!すごいー!」って
憧れを見上げて
自分を持っていかれちゃうような。

それがこのnoteで表現していることだ。


アートとは

言葉にならないものを
表現することがアートだと思ってきた。

歌うこと、演奏すること
踊ること、絵を描くこと
木を彫ること、筆を走らせること

そう。それで間違いない。

だけど、でも、

言葉って。

伝えたいものを、想いを、
どうにかこうにかして
込めて、できあがったものなんだよね。
言葉って。本来は。きっと。

言葉にならないもの、
想い、重さ、温度、質感、エネルギー。

そのエネルギーをさ、
抜いたって、一応外面としては
言葉には変わりがないんだよね。

つまり、こういうこと。

言葉にならないものを
言葉にしたのが言葉
(そりゃそうだ。)

自分が、見て感じたもの。
触れて感じたもの。
聴いて感じたもの。
舌で感じたもの。
こころで感じたもの。

それを、相手に伝えたい。
それらを凝縮、圧縮、濃縮したものが「言葉」

それ以外にも音霊とか
音の持つ感覚から伝わる感覚
「オノマトペ」(フワフワ、とか)
そういう類のものも含めて。

その、言葉という入れ物ができたから
その入れ物にエネルギーを注ぎ
相手に渡すことで「気持ちを伝える」
その行為が簡略化、つまり便利になった、と。

しかし。

しかしですよ。

人間はラクをしたがる。
ラク、とは怠けることとしてのそれ。

入れ物だけを渡し始めるのだ。
からっぽの。

それで伝わるだろう、と。

やるやる。
しょっちゅうやっている。

社交辞令、とかね。まさに、それ。

「ありがとう」と言う時に
「ありがとう」と一致した
エネルギーを込めているなんて
そうそうやっていないかもしれない。

藤岡弘、氏以外。
あと、戦場カメラマンの渡部陽一さん。

まぁ、それは冗談ですけどね。

田舎のあったかいおばあちゃんや
言葉を覚えたての子どもだってやっている。

ゆっくり話す人の
みんながみんなじゃないけど 
一致している感がある。
自分そのものと言葉とが。


本当に想っていることを言葉にして
伝えようとしているのが伝わってくると
温もりを感じる。

その正体は、その言葉を発した相手の
エネルギーそのものを受けて、のそれなのだと。

Aを想いながらAを表す行動をする
Bを想いながらAを表す行動をする

後者の連続が現代に生きる中では
当たり前になってしまっている。
その自覚すらもなく。


これ。


自分が自分とズレていくことも
自分が相手とズレていくことも
きっと、そこにあるんだ。

だから、引き算引き算引き算で
自分の意識が渡らせる領域に留めるのが
物の数の少なさ、所作の型、
言葉の雛形になっていて
そへが和の美学なのでは、と。

すべてに意識を渡らせることができるように、と。

自分と一致して生きる。生き方。
それが美しさなんだろうなぁ。


入れ物と中身が違う


ビジネス会話の時なんか露骨にそれ。

「お世話になっております」という
言葉の入れ物に入れる
「円滑にコミュニケーションしたいです〜」
というエネルギー

トラブルに見舞われた時なんか
「本日はありがとうございました。失礼いたします。」
(あー、もう早く切り上げて今すぐ帰りたい。泣きそう。もう。)

とかね。


回り道し過ぎた。
言いたかったことはこれ。

言葉だって、本当は
言葉にしたいけど言葉にならない、
そういったエネルギーが
入ったものだからこそ
伝わるものがあるはずなのに

言葉、という入れ物に
おざなりにしたエネルギーを
チャチャチャッと入れた感じにして
相手に渡してはいないだろうか、と。

入れ物に、全く違うものを
入れている訳では無いのだから
間違いではないけれど
薄い薄いエネルギーのやり取り。

会話。触れ合い。想うこと。
願うこと。祈ること。

自分のすべてと一致した瞬間。
それが真に生きた瞬間だと思う。

そうでない瞬間の連続を甘んじながらも。

生きるとは、そういうことだと思う。



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