理科の授業中
中学生の頃、ある日の理科の授業中のこと。担当の痩せっぽっちのおじちゃん先生が、掌に収まるほどの茶色い小瓶を取り出した。
「今日使うのはこれです。瓶に入っているので分からないと思いますが、劇物です。とても強い刺激臭を放つ、アンモニアです」
おじちゃん先生が顔の前で持っていた小瓶を、更に少し高く掲げ、「ではまず、この臭いを嗅いでみたい人?」と言って生徒達の挙手を促した。
私は何の躊躇もなく、すっと手を挙げた。手を挙げたままクラスを見渡すと、私以外に手を挙げている者は一人もいなかった。よっしゃ、独り占めできる、と妙なワクワク感が、私の腕をピンと伸ばした。
「よし、じゃあ蔵居、嗅いでみるか」
教卓から歩いてきたおじちゃん先生が、小瓶を私の眼前に差し出す。
「直接嗅ぐんじゃないぞ。手で扇ぎながら、少しだけ嗅ぐんだぞ、いいな」
小瓶を受け取った私は、ゆっくりと蓋を開ける。手をうちわのようにし、小瓶の上に配置する。一度息を吐き切る。そして、手を一振した瞬間に息を吸う。
「ぐふっ」
一瞬、鼻の粘膜が赤くただれたような感覚があり、喉が締まって息ができなくなった。しかし、ただれた感覚はあっという間に私の鼻を通り抜け、正常な嗅覚を取り戻した。
「大丈夫か?」
私を心配しながら微笑むおじちゃん先生。その視線を横目に、私はもう一度手を扇いだ。
「んぐぅ」
声にならない声が喉から漏れる。決していい匂いではないにも拘わらず、私は二度もアンモニアを嗅いだのだ。普通であれば一度嗅いだらすぐに先生に返すはずだが、私はそうはしなかった。なぜなら、私は歪な匂いを発するアンモニアの特異性に、陶酔したのだ。その特異性が、苦しいはずの刺激臭を私の快楽の材料にしてしまったのだ。
ーえ、大丈夫?
ー臭くないの?
ーあいつやべぇな
そんな会話と嘲笑で教室が満たされていた。クラスメイトのどよめきと、おじちゃん先生の苦笑いに、私はその時初めて気付かされた。私は変な人間なのだと。
ただ、恥ずかしさはなかった。私は何事もなかったように小瓶をおじちゃん先生に返し、視線を黒板に戻した。
それからも、私は人から「お前変わってんな」と言われながら生きてきた。まあ、いいんだけどね。頭の中で「お前面白いな」って変換させるんで。
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