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花びらの行方なんて知らない

24歳。あと2ヶ月もすれば25になってしまう。
紀伊国屋の1階と2階をぐるりとしたけれど、強く心惹かれるような本は見つからない。
落胆してブルーの座椅子に腰掛けて、窓から花曇りの外を眺めた。
どちらかと言うと、花曇りって、明るい曇りに近い曇を言うことが多いらしいけど、外は薄暗い。
でも、桜が満開だから、花曇りでいいよね。

活字は好きだけれど、社会に出てから随分と離れてしまった。
季語とか、もう、ほとんど覚えてない。

桜ってあんなに繊細な色味なのに、どうしてこの時期のショーウィンドウの桜ときたら、あんなにチープなピンク色なんだろう。
100円ショップの画用紙を切り貼りしたような、そんな。
"はなびら"という言葉は、なんだか散っていることを連想させるから好き。
でも、桜の"はなびら"じゃなくて文字に起こそうとすると、"花弁"の方がしっくりくるのが不思議。
大きく"生物"で分類された理科の授業は、別に好きではなかったけれど、植物の所だけはいつも点数が良かったっけ。
私にとって植物って、なんだか大切なものだったんだと思う。
もう、都会のアスファルトに焼かれて忘れてしまいつつあるけれど。

幼い頃、家の近所の広場に落ちている桜の花弁を拾い集めて、内側に家の電話番号が母親によってマッキーで書き込まれた、薄ピンク色のポシェットに詰め込んでいた。

そのまま、時間が過ぎて、気がついた時にはその花弁は茶色く乾涸びていたけれど、なんとなく捨てるのは気が咎めて、土を掘り返してそこに埋めた。
埋められた花弁は、何処へ行ったのだろう。

瑞々しく綺麗な色をしていた時はあんなにチヤホヤしていたのに、枯れた瞬間そこらに撒き散らされるなんて、花弁を思ったら、なんだか出来なかった。

紀伊国屋から出て、冷たそうなアスファルトを踏みしめる。
4月だというのに、風がまだ冷たくて、すぐに地下に潜った。
澱んだ地下の空気にはもう慣れてしまったな。

10年前くらい、首からあのポシェットを下げなくなった私は、クローゼットの整理をしていて、偶然それを見つけた。
開けると中には少し滲んだ母の字と、2つに折られた千円札が2枚。
千円札だけ抜き取って、そのポシェットは処分した。

いつかの春と、あのポシェットを捨てた日を思い出して、20年以上前の私は、心が綺麗だったんだろうと、今は思う。

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幼子の私が埋めた花弁(はなびら)を、
掘り返して踏む24の春。

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