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賢さと愚かさ

イエスのたとえ話シリーズ No.4

岩の上に家を建てた人と砂の上に家を建てた人

2024年6月23日

マタイによる福音書7:24-29

7:24 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
7:25 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけたが、それでも倒れませんでした。岩の上に建てられていたからです。
7:26 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。
7:27 雨が降って洪水が押し寄せ、風が吹いてその家に打ちつけると、倒れてしまいました。しかもそれはひどい倒れ方でした。」
7:28 イエスがこれらのことばを語り終えられると、群衆はその教えに驚いた。
7:29 というのは、イエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである。
新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

タイトル画像:TomによるPixabayからの画像


はじめに


今回のたとえ話は、イエス・キリストの山上の説教の中で語られた御言葉になります。山上の説教は、新約聖書の『マタイによる福音書』第5章から7章と『ルカによる福音書』第6章に記されてます。イエス・キリストがガリラヤ湖畔の丘の上で弟子たちと群集に語った教えのことです。

今回のマタイ伝7章24節から29節は、「岩の上に家を建てた人と砂の上に家を建てた人のたとえ話」として知られ、イエスの山上の説教の最後を締めくくるものです。

物 語


このたとえでは、二つの異なる人々が家を建てる様子が描かれています。一人は家を岩の上に建て、もう一人は家を砂地に建てます。その後、大雨が降り、洪水が起こり、風が吹き荒れると、岩の上に建てた家は揺るがずに立ち続けますが、砂地に建てた家は倒れてしまうという内容です。
このたとえは実にシンプルな内容です。幼い子どもでも直感的に理解できるでしょう。だからといって、シンプルゆえに稚拙な教えであると侮ってはいけません。シンプルゆえに、年齢を問わず普遍的な価値を持つ言葉といってもおかしくないものであります。

この教えの中心的なメッセージは、人生の基盤をどこに置くかが重要であるということです。イエスは、自分の言葉を聞いてそれを行う人々を、岩の上に家を建てた賢い人に例えています。これは、神の言葉を聞き、それに従うことが、人生の困難に耐え抜く強固な基盤となるという教えを示しています。つまり、人生の基礎がイエス・キリストの言葉にあるということです。

一方、イエスの言葉を聞くだけでそれを行わない人々は、砂地に家を建てた愚かな人に例えられます。こうした人々の人生の基盤は不安定で、困難が訪れたときには容易に崩れ去ってしまうといいます。

このたとえは、私たちが日々の生活の中で直面する選択や困難に対して、どのように対処し、どのように生きるべきかについてイエス・キリストはごく簡単なたとえを用いて私たちに提供しています。それは、目に見えない世界、すなわち神の世界を大切に生きることが、見える世界、すなわち現実の世界での困難に立ち向かうための強固な基盤となるという教えです。

賢さと愚かさ


今回の個所で気になる部分があるとすれば、賢さと愚かさについてではないでしょうか。

「賢さ」という言葉には多くの要素が含まれています。それは「頭が良い」「処理能力が高い」「創造性」「ミスが少ない」「勉強ができる」「空気が読める」「思慮深い」「知識が豊富」「会話がうまい」など、さまざまな要素が含まれています。こうしたことを総合して「賢さ」というものを理解しています。単に記憶力が良いとか、豊富な知識を持っているということだけではなく、それを用いて柔軟に問題を解決し、困難に立ち向かう力を真の賢さと考える人が多いのではないでしょうか。

一方、「愚かさ」とは何かです。「愚かさ」とは、人が間違った判断や行動をすることを指す言葉です。具体的には、物事を理解する能力が不足している状態であるとか、無意味な行動や、理性に反する行動に対して使われます。経験や知識が不足している未熟な状態を一般的には指します。

では、聖書で語られる「賢さ」と「愚かさ」という言葉の意味についてですが、実にわかりやすく説明されています。

マタイによる福音書
7:24 だから、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者はみな、岩の上に自分の家を建てた賢い人に比べることができます。
24 Πᾶς οὖν ὅστις ἀκούει μου τοὺς λόγους τούτους καὶ ποιεῖ αὐτοὺς ὁμοιωθήσεται ἀνδρὶ φρονίμῳ, ὅστις ᾠκοδόμησεν αὐτοῦ τὴν οἰκίαν ἐπὶ τὴν πέτραν.
7:26 また、わたしのこれらのことばを聞いてそれを行わない者はみな、砂の上に自分の家を建てた愚かな人に比べることができます。
26 καὶ πᾶς ὁ ἀκούων μου τοὺς λόγους τούτους καὶ μὴ ποιῶν αὐτοὺς ὁμοιωθήσεται ἀνδρὶ μωρῷ, ὅστις ᾠκοδόμησεν αὐτοῦ τὴν οἰκίαν ἐπὶ τὴν ἄμμον.

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

聖書の語る「賢さ」とは、『わたしのこれらのことばを聞いてそれを行う者」であり、「愚かさ」とは、『わたしのこれらのことばを聞いてそれを行なわない者』というようにイエス・キリストは伝えています。

行う人行わない人

これらの言葉の意味について、ギリシャ語本文から見ていきますと次のようになります。

『それを行う人』ποιεῖ αὐτοὺς(ポイエイ アウトゥス)
『それを行わない人』μὴ ποιῶν αὐτοὺς (メ ポイオーン アウトゥス)

上記の違いがあります。日本語では、否定の言葉がつくだけの違いですから、当然ギリシャ語でも否定詞+ ποιεῖ αὐτοὺςにすれば良いと単純に思うのですが、ここでは、ποιεῖ(ポイエイ)ではなく、現在分詞のποιῶν(ポイオーン)になっています。

現在分詞は継続的な行為や状態が良くないことを示します。現在分詞は「~している」との訳すのが適切ですので、『それを行わない人』という訳よりは、『意識的に行わない』というように訳すべきです。

また、 分詞の属格の使用法は、特性や性質を表現するものを省きますので、この場合、「行なわない」という特性を持つ人を対象とします。ですから、「意識的に行わない」という解釈は、文法的構造と否定詞の選択を考慮すると、非常に説得力があります。これは単なる怠慢や無知ではなく、意図的な不従順を示唆しています。

聖書の語る賢い人、愚かな人

ところで、「賢い人」と「愚かな人」のギリシャ語の意味を分類すると次のようになります。

  •  φρόνιμος (phronimos):賢い人、実践的な知恵を持つ人

  •  μωρός (mōros):愚かな人、深い霊的・道徳的な意味での愚かさを示す

「賢さ phrónimos」
「実践的な知恵」や「慎重さ」を意味し、神の下での「慎重な」生活を反映しています。

このフロニモスは、「賢明さ」や「洞察力」を表していますが、それ以上に、個人の視点や意見が行動を決定するという考え方を示しています。ですから、個人の「内面的な視点」が「抜け目なさ」を決めるという考え方を示します。

この単語は、単に私たちが思い描くような『賢い』ということではなく、私たちの「内面的な思考」と「外向的な行動」の密接な関連性を強調している言葉になります。ですから、神の御心にそった思考は私たちの行動に現れるということです。
信者にとって、フロニモスは、神の御心にそった生き方をしようとする「実践的な知恵」や「慎重さ」を意味し、神の下での「慎重な」生活を反映しています。

「愚かさ mōros」
愚かさ μωρός (mōros)は、「愚かさ」や「鈍さ」を表し、理解力が鈍く、現実を把握する能力が欠けていることを示しています。このmōrósは、「愚かさ」よりも悪質とされており、それは貧弱な想像力のゆえに無意味なことを指す言葉です。マタイによる福音書25章2-3節の中で、愚かな乙女のたとえ話で使用されています。

マタイによる福音書
25:2 そのうち五人は愚かで、五人は賢かった。
25:3 愚かな娘たちは、ともしびは持っていたが、油を用意しておかなかった。

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

イエスは怒りの中で人を「モロス」と呼ぶことを戒めましたが、パリサイ人の愚かさを指摘する際にはこの言葉を使用しています。重要なのは言葉そのものではなく、それを発する精神であるとされています。

この言葉は、単なる知的能力の欠如ではなく、より深い霊的・道徳的な意味を持つ「愚かさ」を表現しているのが特徴です。

20世紀最高の物理学者 アインシュタイン


相対性理論を編み出した偉大な天才物理学者として知られるアルベルト・アインシュタインはこう言いました。

Photograph by Orren Jack Turner, Princeton, N.J. Modified with Photoshop by PM_Poon and later by Dantadd., Public domain, via Wikimedia Commons

「私は個人的な神を信じていないし、それを否定したこともない。. . . 私の中に宗教的と呼べるものがあるとすれば、それは科学が明らかにしうる限りの世界の構造に対する限りない賞賛である。
「私は個人の不死を信じず、倫理はもっぱら人間的な関心事であり、その背後に超人的な権威はないと考える。」

アインシュタインの言葉

アインシュタインの考え

彼の考え方はこうでした。
アインシュタインは伝統的な意味での「個人的な神」、人格を持ち、人間の世界に直接介入するような神を信じていないと述べました。彼にとって「宗教的」と呼べるものがあるとすれば、それは科学によって明らかにされる宇宙の構造や法則に対する深い畏敬の念です。

彼の「宗教」は創造主の存在を信じる信仰ではなく、自然界の秩序や美しさへの賞賛に基づいています。また、彼は、個人が死後も存続するという考え(魂の不滅など)を信じていないと述べています。さらに彼は倫理(道徳的な行動規範)を純粋に人間的なものと考えています。

ですから、倫理は神や超自然的な存在によって定められたものではなく、人間社会の中で発展してきたものだと考えています。倫理の背後に「超人的な権威」(神や絶対的な道徳法則など)はないと彼は考えています。これは、倫理や道徳が人間社会の中で相対的に形成されるものだという見方を示しています。

要約すれば、アインシュタインの世界観は、伝統的な宗教的信仰よりも科学的な宇宙理解に基づいており、倫理や道徳を人間中心的に捉えています。彼は宇宙の秩序や法則に対して深い畏敬の念を抱いていましたが、それを人格神への信仰や超自然的な道徳律とは結びつけていませんでした。

こうしてみると物理学の天才アインシュタインは、イエス・キリストと真っ向から対立する見解を持っていたということがわかります。

アインシュタインとイエス・キリストの人間観の違い

ここで、アインシュタインとイエス・キリストの人間観の違いについてまとめますと以下のようになります。

  1. アインシュタインの人間観

    • 神無しの世界観:アインシュタインは個人的な神の存在を否定し、宇宙の法則や秩序そのものに畏敬の念を抱いていました。

    • 科学的決定論:彼は宇宙を厳密な物理法則に従うものとして見ており、これは人間の行動や選択にも適用されると考えていました。

    • 目的の不在:こうした科学的な見方では、宇宙や人生に内在する超越的な目的は存在しません。人間の存在は偶然の産物であり、宇宙の広大さの中では取るに足らないものとなります。

    • 倫理の相対性:神が不在であるなら、道徳や倫理は人間社会の産物であり、絶対的な基準は存在しないと考えました。

    • 有限性の受容:個人の不死を信じなかったアインシュタインの視点では、人生は死によって完全に終わります。

  2. イエス・キリストの人間観

    • 神中心の世界観:イエスは全ての存在の中心に神を置き、人間を神との関係性の中で理解します。

    • 神の似姿:人間は神のかたちに創造された尊厳ある存在であり、特別な価値を持つとされます。

    • 目的の存在:人生には明確な目的があり、それは神を知り、神と和解し、神の栄光を現すことです。

    • 永遠の視点:イエスは死後の生存と復活を教え、現世の生活を永遠の文脈で捉えます。

    • 絶対的倫理:道徳や倫理の基準は神の性質に基づいており、普遍的で絶対的なものとされます。

    • 罪と救済:人間は罪によって神から離れた存在ですが、イエスを通じて神との和解が可能だと教えます。

  3. 両者の対比

    • 人間の価値:アインシュタインの見方では人間の価値は相対的ですが、イエスの教えでは各個人が無限の価値を持ちます。

    • 生きる意味:アインシュタインの世界観では、意味は個人が作り出すものですが、イエスの教えでは神との関係の中に究極の意味があります。

    • 死の意味:アインシュタインにとって死は終わりですが、イエスの教えでは新しい始まりとなります。

    • 宇宙の理解:アインシュタインは宇宙を物理法則の集合体として見ましたが、イエスはそれを神の創造物として捉えます。

アインシュタインの人間観は、科学的な理解、可視化できることに基づく非常に知的で洗練されたものですが、究極的には人間の存在の目的や永遠の意味を提供しません。

一方、イエス・キリストの人間観は、神との関係性を中心に据え、人間の存在に深い意味と目的を与えます。イエスの教えによれば、人生の真の目的は神との和解を通じて神の栄光を現すことにあり、これは現世を超えて永遠に続くものであると述べます。

僅かな差が生と死を分ける


このように、イエス・キリストと現代の天才アインシュタインとの対比をしましたが、これは同時に、『岩の上に家を立てた人と、砂の上に家を立てた人』との対比であると言えます。その差は、以下の聖書の言葉にあるように

『それを行う人』ποιεῖ αὐτοὺς(ポイエイ アウトゥス)
『それを行わない人』μὴ ποιῶν αὐτοὺς (メ ポイオーン アウトゥス)

その差は極めて僅かであることがわかります。しかし、その二つの単語の違いが極めて深い断絶となって横たわっていることを知っていただきたいと思うのです。神の言葉を素直に受け入れるか、受け入れないかの差は極めて大きいのです。その差は『天と地』の違いなのです。

イエス・キリストが山上の説教を行った時、律法学者やパリサイ人たちは、彼の言葉を聞きながらも、それを受け入れることを意図的に拒否しました。同様に、アインシュタインは神の言葉を知りつつも、それとは全く逆の理論を語りました。これらの人々は、その時代の知識人であり、賢者として認識されていました。

しかし、イエスは彼らを「愚かな人」と呼びました。ここで重要なのは、私たちは自分が愚かになりたいと思って愚かになったわけではないということです。自分なりに賢明な生き方を追求した結果、結果的に愚かな者となったのです。その結果、困難な時期、すなわち人生の嵐が訪れた時に、彼らは倒れてしまったのです。

しかし、幸運なことに、イエス・キリストの言葉と信仰を心の指針とし、人生の基盤としているならば、どんな困難が待ち受けていたとしても、崩れることはありません。なぜなら、イエス・キリストは岩、つまり揺るぎない基盤であるからです。一方、イエス・キリストを拒否し、彼の言葉を信じ受け入れない人々は、困難や新たな理論が彼らを覆す時に、自分の信念や拠り所が崩れ去ってしまいます。

最終的には、私たちの死後の世界についても、イエス・キリストはここで示しています。イエス・キリストへの信仰を受け入れるならば、死後の審判を免れ、永遠のいのちを得ることができます。しかし、イエス・キリストを信じない人々は、審判を受け、地獄と呼ばれる永遠の火の中に落とされます。そうなった時に、私たちを救い出すものは何であるのかという問いに対する答えは、イエス・キリストの言葉以外には存在しません。

私たちは、日々の生活の中で、死という現実を忘れがちです。しかし、それは私たちのすぐそばに存在しています。年齢や職業に関係なく、私たちはいつ何が起こるかわからない世界で生きています。

そして、その不確定性に対する最善の備えは何でしょうか。それは、物質的な保険ではありません。物質的な保険は、私たちが去った後の世界のためのものです。しかし、私たちが真に必要としているのは、自分自身の魂のための保険です。

その保険とは、イエス・キリストへの信仰です。イエス・キリストを信じることで、私たちは永遠の命を得ることができます。これは、私たちが愚かになるか、賢くなるかを決定する重要な選択です。イエス・キリストを信じることは、私たちが賢く、永遠の命を選ぶことを意味します。

今日、あなたはどう選びますか?
イエス・キリストを信じ、永遠の命を選びませんか?
それは、私たちが直面する不確定性に対する最善の備えであり、私たちの魂を永遠に保護する唯一の保険です。アーメン。

適 用


  1. 日々をどう生きるか
     私たちが日々直面する選択は、私たちがどのような基盤の上に人生を築いているかを反映したものです。イエス・キリストの言葉を聞き、それに従うことで、私たちは困難に耐え抜く強固な基礎となります。

  2. 信仰に基盤をおくこと
    イエス・キリストへの信仰が私たちの人生の基盤となり、永遠の命を得るための唯一の道です。信仰は、私たちが直面する不確定性に対する最善の備えであり、私たちの魂を永遠に保護するものであることを信じましょう。

  3. 自己認識が成長をもたらす
    このたとえでは、自分が賢いと思っているか、愚かであると認識しているかによって、私たちがどのように行動し、どのように生きるかを決定されるものであることを教えてくれます。私たちが真の賢さを追求するためには、日々デボーションによって、聖霊から矯正していただくことが必要です。