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放蕩息子のたとえから

イエスのたとえ話シリーズ No.5 放蕩息子

2024年6月30日

ルカによる福音書15:11-32

15:11 またこう話された。「ある人に息子がふたりあった。
15:12 弟が父に、『お父さん。私に財産の分け前を下さい』と言った。それで父は、身代をふたりに分けてやった。
15:13 それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。そして、そこで放蕩して湯水のように財産を使ってしまった。
15:14 何もかも使い果たしたあとで、その国に大ききんが起こり、彼は食べるにも困り始めた。
15:15 それで、その国のある人のもとに身を寄せたところ、その人は彼を畑にやって、豚の世話をさせた。
15:16 彼は豚の食べるいなご豆で腹を満たしたいほどであったが、だれひとり彼に与えようとはしなかった。
15:17 しかし、我に返ったとき彼は、こう言った。『父のところには、パンのあり余っている雇い人が大ぜいいるではないか。それなのに、私はここで、飢え死にしそうだ。
15:18 立って、父のところに行って、こう言おう。「お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。
15:19 もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。雇い人のひとりにしてください。」』
15:20 こうして彼は立ち上がって、自分の父のもとに行った。ところが、まだ家までは遠かったのに、父親は彼を見つけ、かわいそうに思い、走り寄って彼を抱き、口づけした。
15:21 息子は言った。『お父さん。私は天に対して罪を犯し、またあなたの前に罪を犯しました。もう私は、あなたの子と呼ばれる資格はありません。』
15:22 ところが父親は、しもべたちに言った。『急いで一番良い着物を持って来て、この子に着せなさい。それから、手に指輪をはめさせ、足にくつをはかせなさい。
15:23 そして肥えた子牛を引いて来てほふりなさい。食べて祝おうではないか。
15:24 この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。』そして彼らは祝宴を始めた。
15:25 ところで、兄息子は畑にいたが、帰って来て家に近づくと、音楽や踊りの音が聞こえて来た。
15:26 それで、しもべのひとりを呼んで、これはいったい何事かと尋ねると、
15:27 しもべは言った。『弟さんがお帰りになったのです。無事な姿をお迎えしたというので、お父さんが、肥えた子牛をほふらせなさったのです。』
15:28 すると、兄はおこって、家に入ろうともしなかった。それで、父が出て来て、いろいろなだめてみた。
15:29 しかし兄は父にこう言った。『ご覧なさい。長年の間、私はお父さんに仕え、戒めを破ったことは一度もありません。その私には、友だちと楽しめと言って、子山羊一匹下さったことがありません。
15:30 それなのに、遊女におぼれてあなたの身代を食いつぶして帰って来たこのあなたの息子のためには、肥えた子牛をほふらせなさったのですか。』
15:31 父は彼に言った。『子よ。おまえはいつも私といっしょにいる。私のものは、全部おまえのものだ。
15:32 だがおまえの弟は、死んでいたのが生き返って来たのだ。いなくなっていたのが見つかったのだから、楽しんで喜ぶのは当然ではないか。』」

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

タイトル画像:TomによるPixabayからの画像


はじめに


私たちは人生で迷い、過ちを犯すことがあります。時に自分の道を見失い、大切なものから遠ざかってしまうこともあるでしょう。そんな時、もう二度と戻れないのではないか、許されないのではないかと恐れを感じることがあります。

しかし、神様の愛はそれらの恐れや不安をはるかに超えるものです。イエス・キリストが語られた「放蕩息子の譬え」は、まさにこの真理を美しく、力強く描いています。

この物語は、私たち一人一人に語りかけています。迷える者、傷ついた者、自分は価値がないと感じている者、そして完璧であろうとするあまり他者を裁いてしまう者に。全ての人に向けられた神様の無条件の愛と赦しのメッセージがここにあるのです。

共にこの物語に耳を傾け、私たちの人生にどのように当てはまるか、そして神様の驚くべき愛がどれほど深いものかを一緒に考えていきましょう。この物語が、あなたの心に新たな希望と勇気をもたらすことを願っています。

物 語


放蕩息子のたとえは、新約聖書のルカによる福音書15章11-32節に記されている、イエス・キリストによる有名な譬え話です。

ある富裕層の父親に2人の息子がいました。何を思ったか次男は父親に遺産の生前分与を求め、それを受け取ると故郷を離れて遠い国へ行きます。外国へ渡った次男は相続した多額の遺産をもとに放蕩の限りを尽くし、全財産を使い果たしてしまいました。ほどなくして、飢饉が起こり、金を使い果たした次男は、豚の世話をする仕事さえ得られないほど困窮します。自分の身の上に起こった不幸の原因が、自分にあると悟り、後悔した次男は父のもとへ帰ることを決意し、雇い人として働かせてほしいと懇願しようと考えます。

当然のことながら、相続財産を浪費し、今や一文無しになった自分を父親は許してくれるはずもないと思い悩みます。しかし、そうした思いは杞憂でした。父親は次男の帰りをいつも待っていたのです。息子の姿を見ると喜び、盛大な祝宴を開きました。

ところが、兄は放蕩して湯水のように財産を使い果たした弟の帰りを喜ぶことはできません。それは当然のことでしょう。弟が財産を分割するよう要求し、遊んで身上を食いつぶし、その上、困ったら父親にせがむという姿を許すことはできません。父親の弟への歓待に不満を抱きます。この長男の思いを知った父親は次男の帰還を祝うべき理由を伝えました。親にとっては、たとえ出来が悪くとも子供は子供です。子供に優劣はなく愛すべき存在であることを教えます。神も私たち人間に対する思いは親の思いそのものです。

このたとえ話は、神の無条件の愛と赦しを表しています。また、悔い改めと和解の重要性と、そして失われていたものが見つかった時の喜びを強調しているたとえ話として、繰り返しクリスチャンに語られている話です。

横田めぐみさんのこと

皆様は、自分の子が突然いなくなったとしたらどうでしょうか。親であれば、居ても立っても居られないはずです。愛する我が子が居なくなるということを想像しただけでも耐えられないことです。

このたとえ話を思い出す時に、一つの事件を思い出します。それは、北朝鮮拉致被害者の横田めぐみさんのことです。

1977年11月15日、新潟の街から13歳の時です。その朝、横田めぐみさんは家族と笑顔で朝食を取り、いつものように学校へ向かいました。それが、家族にとってめぐみさんを見た最後の瞬間となったのです。

夕方、バドミントン部の練習を終えて帰るはずのめぐみさんは戻ってきませんでした。家族の不安は恐怖へと変わり、必死の捜索が始まりました。しかし、めぐみさんの痕跡は何一つ見つかりませんでした。

後に明らかになった真実は、家族の最悪の悪夢をも超えるものでした。めぐみさんは北朝鮮の工作員に拉致され、40時間もの間、暗く冷たい船倉に閉じ込められていたのです。「お母さん、お母さん」と泣き叫び、壁を引っかいためぐみさんの手の爪は、血だらけになっていたといいます。

明るく元気だっためぐみさんの存在は、家族にとって太陽のようでした。歌や絵を愛し、習字やバレエに励む少女の輝く未来が、一瞬にして奪われてしまったのです。

めぐみさんの失踪後、家族の生活は暗闇に包まれました。父は毎朝早く起きて海岸を探し回り、母は家事の合間に街中を歩き回り、めぐみさんの名を呼び続けました。夜になると、父は風呂で、母は誰にも気付かれないよう一人で涙を流しました。

20年後、めぐみさんが生存しているという情報が入り、わずかな希望が芽生えました。しかし、北朝鮮からの説明は不十分で、提出された「遺骨」さえもめぐみさんのものではありませんでした。

45年以上が過ぎた今も、めぐみさんは北朝鮮に囚われたままです。母の早紀江さんは、「帰ってきたら、大自然の中で『自由だよー!』って言わせてあげたい」と、今も娘の帰りを待ち続けています。

残念ながら、父の滋さんは娘の帰りを待ちわびながらも2020年の6月5日に天に召されました。

この事件の手記を読む時に、ふと目頭が熱くなるのです。自分の子供がこういう事になった時のことを考えずにはいられません。冷静にその事実を受け止められるでしょうか。

自分の愛する者を失ったときの喪失感と絶望。私はふと思ったのです。この思いは、神が私たちに抱いている思いそのものだとも言えるのではないか。

また、なんとか、こうした事件は決して風化させてはいけない。この世からこうした悲劇を起こさせてはいけないのだと。

自分の子供や愛する人がこのような状況に陥ったことを想像すると、その痛みは計り知れません。冷静に受け止めることは極めて困難でしょう。横田家の方々が経験された喪失感と絶望は、私たちの想像を遥かに超えるものだと思います。

この深い愛情と喪失の感覚は、ある意味で神の愛を反映しているのかもしれません。人間の愛でさえこれほど強く、深いものであるならば、神の愛はさらに測り知れないものだと考えられます。

そして、このような悲劇を風化させないこと、そして二度と起こさせないことへの強い思いは非常に重要です。私たちには、こうした事件の記憶を守り、被害者とその家族のために声を上げ続ける責任があります。

同時に、この悲劇から学び、より compassionate(思いやりのある)で just(公正な)社会を作り上げていく必要があります。

一人一人が、人権と人間の尊厳の重要性を深く理解し、行動することが求められています。

深い共感と洞察を持つ人々の存在が、こうした悲劇の再発を防ぎ、より良い世界を作り上げていく希望となるのです。私たちは決して諦めず、愛する人々のために、そして未来のために、声を上げ続けなければなりません。

イエスが語った背景


どのような人々が集まっていたのか

ルカによる福音書
15:1 さて、取税人、罪人たちがみな、イエスの話を聞こうとして、みもとに近寄って来た。

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

イエスがこの放蕩息子の物語を語った背景とは一体どのようなものであったのでしょう。
ルカによる福音書15章の冒頭で、取税人や罪人たちがイエスの話を聞くために集まってきました。取税人とは、ローマ帝国の徴税をする人々であり、ローマ政府から税金のノルマを徴収するよう委託されていました。 しかし徴税人は、ノルマ以上の税をを自分のポケットに入れることができました。不正な税の徴収は、住民の負担を増すばかりか、反対する住民に対して恐喝を招行い、徴税人は悪党として見なされていました。

彼らはしばしば民衆の残滓から選ばれ、強奪で悪名高かったので、常習的に遊女や罪人と同じカテゴリーに含まれていた。 もしユダヤ人が税金を納めることが正しいと自分自身を説得することがほとんどできなかったとしたら、税金を徴収するための疑わしいほど正直な道具になることは、彼の目にはどれほど凶悪な罪であったに違いない。 公僕が嫌われたとすれば、ユダヤ人である公僕に対する嫌悪はどれほど激しかったことだろう」(ファーラー著『キリストの生涯』)。公人』という言葉は、一般的な非難語として、私たちの主によってさえ使われていた(マタイ18:17)。 異邦人でさえ、彼らを軽蔑していた。 ファラーは『公人はみな強盗である』というギリシャ語のことわざを引用している」(WS, 148)。

『取税人』The Discovery Bible,Dr. Gary Hill  

一方、罪人ですが、旧約聖書では神に背くものとして描かれており、イエス・キリストの時代もそうした文脈で捉えられていたことでしょう。具体的には、どのような対象が罪人であったかといえば、旧約聖書時代、モーセの律法に抵触する職業や社会階層の人々、遊女など、問題がある人々全般を「罪人」と表現していました。ユダヤ人にとって罪とは、神がモーセとの契約の中で与えた命令から外れたことを意味していました。

以上のような人々がイエス・キリストの言葉を聞こうとして集まっていたのです。

イエス・キリストの行動を批判する人々

ルカによる福音書
15:2 すると、パリサイ人、律法学者たちは、つぶやいてこう言った。「この人は、罪人たちを受け入れて、食事までいっしょにする。」

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

こうした、パリサイ人たちの批判に対して、イエスはこのたとえ話を含む3つの物語(失われた羊、失われた銀貨、放蕩息子)を語りました。これらはすべて、失われたものが見つかる喜びを主題にしています。

イエスは、神が悔い改める罪人を喜んで受け入れることを示そうとしました。これは、当時の宗教指導者たちの排他的な態度とは対照的でした。

さらにたとえの中に登場する長男は、パリサイ人や律法学者たちを象徴していると解釈できます。イエスは彼らの自分は間違いがなく、問題がないとする自己義認的な態度に挑み、神の恵みの本質を示そうとしました。

批判に対する応答

その本質は、悔い改めの重要性を求めました。
自分は、神の前にいかに罪深く、罪赦される資格がないものであることの自覚です。しかし、罪赦されることのない自分に対して、赦してくださるお方を認め、自分のあり方が間違っていたと悔い改め、神に立ち返ることの重要性を強調しています。

次にに全ての人の罪を赦そうとしておられる神の愛があることです。
イエスは、神の愛が、正しいことを行っているから愛されるというような条件付きのものではなく、赦されるはずのない罪を行ったとしても神は悔い改めるすべての人々に開かれていることを示そうとしました。

このように、イエスはこの物語を通じて、神の無条件の愛と赦しという深い真理を、実際に起こった出来事を基にしていると考えられています。当時のパレスチナの社会状況を考えると、ユダヤ人がローマ帝国の大都市と接触していたことから、ここで記録されているような出来事はあまりにもよく知られていた事件であったようで、イエスの創作ではないといわれております。ですから、イエス・キリストの放蕩息子のたとえは人々の心に響く内容であったことでしょう。

放蕩息子の意味


イエスの放蕩息子の物語は、当時の宗教的・社会的な考え方に大きな挑戦を与え、新しい視点を提供したこととして知られています。

愛によること

当時のユダヤ教指導者たちは、厳格な律法遵守を重視していました。この物語は、厳格な行いよりも自分が神から離れていることへの悔い改めと神に立ち返ることを強調し、律法主義的な考え方に対して、親が子に対するような無条件の愛によって挑戦しました。

行いによるのではないことですから、人間の努力や功績ではなく、神の無条件の愛と恵みを中心に置くありかたを示しました。これは、当時の功徳思想とは対照的であり、あくまでも神の愛と恵みが中心であることを示したことです。

イエス・キリストは、「罪人」とされる人々にも、神は受け入れており、愛をもって臨むという考え方は、社会的・宗教的なヒエラルキーに挑戦するものでした。私たちも自然と、外国人やジェンダー、他宗教、他宗派、社会階層、民度等々の物差しで分離をすぐに考えてしまうものですが、神の愛が特定の集団だけでなく、すべての人に開かれているという包括的な見方を提示しました。

そうした人間が作った枠を超えたところに主イエスの子に対する愛があることを理解する必要があります。こうしたイエスがたとえで示した神との人との関係は、血縁関係を超えた、神の家族としての人類という概念を示唆しています。

さらに、イエス・キリストは、救いが単なる罰の回避ではなく、神との関係の回復としての悔い改めという新しい視点を提供したことです。また、過去の過ちにとらわれるのではなく、赦しと和解を通じて神との新しい関係を構築し、人生を始められるという希望を示しました。私たちは、これでお仕舞いということがないのです。無条件で愛し、罪を赦してくださるイエス・キリストを信じることで、諦めから、新たな人生を切り開くことの希望が生まれます。

神は慈悲と赦しであること

このたとえは、ユダヤ人が旧約聖書を誤って解釈した応報的正義ではなく、慈悲と赦しを重視する新しい正義の概念を提示しました。応報的正義とはどういう考えかと言いますと、犯罪や悪行に対して、それに見合った罰を与えるべきだという考え方です。

もともとは、ハムラビ法典や旧約聖書に見られる「目には目を、歯には歯を」という考え方に基づいています。罪を犯した者は、その罪に応じた代償を払うべきだとする原則です。

たとえば、犯罪者に罰を与えることで社会の秩序を維持しようとする考えです。同時に、被害者や社会に対する公平性を保つという役割があります。また、将来の犯罪を抑止する効果が期待できると考えます。現代の刑事司法制度もある程度この考え方を取り入れています。

しかしながら、たとえ厳罰化を求めても、犯罪者の更生や抑止、社会復帰には繋がらないという批判もあります。また、被害者の心の癒しや回復には繋がらないという指摘もあります。罰則を厳しくすることで、社会が調和を保つかというとそうは言い切れないものでもあります。

放蕩息子の物語は、従来の世界の応報的正義の考え方に挑戦し、赦しと回復を重視する新しい視点を古代世界に提供しました。父親は息子の過ちに対して罰を与えるのではなく、無条件に受け入れ、喜んで迎え入れます。これは、神の愛と赦しの本質を示すとともに、人間社会における正義と和解について新たな視点を人間に与えたのです。

こうしてみると、単純なたとえに聞こえるこの放蕩息子のたとえですが、神の計り知れない知恵や人間に与えた多大な影響力の大きさを考えると、神の愛の素晴らしさというものが理解できたのではないかと思います。

救霊の喜び

また、イエス・キリストは、放蕩息子が示した財産を持つことや、刹那的な放蕩の喜びであるとか、また、兄が示した自分の喜びを滅して、真面目に生きることが喜びとするような自己欺瞞ではなく、失われた者の回復にこそ、真の喜びがあるという視点を提供しました。それは、失われた子を求める親の思いです。これは、今の教会に求められている重要な視点でしょう。

救霊という言葉を皆様ご存知でしょうか。

「救霊」という概念は、放蕩息子の物語とも深く関連しています。この物語は、神が悔い改める罪人の魂を救う(救霊する)ことを象徴的に表現しているともいえます。父親が放蕩した息子を受け入れる行為は、神が人間の魂を救う行為の比喩とも考えられるのです。

イエス・キリストの救霊によって、私たちは素晴らしい恵みを受けました。イエス・キリストの愛と救いを知る喜びを味わっているのです。イエス・キリストは、親の思いで、私たちが救われるために生命を差し出しました。救われてほしいという熱い思いで私たちに臨まれました。その熱い思いを今私たちは受け取っているのです。

イエス・キリストは、自分の生命を失い、また熱い涙の末に私たちが救われたことを喜んでいるのですが、その喜びは私たちだけのものではありません。周りを見渡してください。まだこの愛を知らない人々がどれほどいることでしょう。

神様は、一人一人を深く愛しておられます。全ての人が神様のもとに帰ってくることを、切に願っておられるのです。私たちはこの愛の仲介者となるよう召されています。

あなたの信仰、あなたの祈り、そしてあなたの行動が、誰かの人生を変える鍵となるかもしれません。自分だけが救われて満足するのではなく、この素晴らしい愛の物語を広めていく使命が私たちにはあるのです。

イエス様が私たちに与えてくださった愛は、分かち合うためのものです。その愛で満たされた私たちこそ、人々をイエス様へと導く架け橋となれるのです。

さあ、立ち上がりましょう。あなたの隣人に、友人に、家族に、イエス・キリストの愛を伝えましょう。一人でも多くの人が神様の愛を知り、永遠のいのちを得ることができるよう、共に歩んでいきましょう。

あなたの小さな一歩が、誰かの人生を永遠に変えるかもしれません。今こそ、神様の愛を世界中に広める時です。共に、この素晴らしい使命に応えていきましょう。

適 用


  1. 赦しと和解の力をいただこう
    私たちの人間関係において、赦しと和解の力を実践することが可能です。家族や友人との間に生じた軋轢や誤解があれば、この物語を思い出し、赦しの心を持って相手に接することが大切です。まずは、イエス・キリストが実践してくれたことを思い出しましょう。自分が傷つけられたとしても、相手を受け入れる勇気を持つことで、関係の回復と深められます。

  2. 自己義認の危険性を認識する
    私たちは兄のように、自分は正しいと思い込み、他者を裁くことの危険性に気をつける必要があります。日々の生活の中で、自分の価値観や基準で他人を判断せず、むしろ相手の立場に立って理解しようとする姿勢が重要です。これは職場や地域社会での人間関係を円滑にする上でも非常に有効です。

  3. 悔い改めは新たな出発をもたらします
    過去の過ちや失敗にとらわれず、常に新たな出発の機会があることを覚えましょう。自分の間違いを神の前に素直に認め、赦してくださるイエス・キリストに立ち返る勇気を持つことが大切です。これは個人の成長にとどまらず、組織や社会の発展にも適用できる考え方です。失敗を恐れず、神の前にチャレンジできることを覚えて歩みだしましょう。