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ペテロ第一の手紙 3章1節       ことばのいらない福音


Ⅰペテロ
3:1 同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。

Ὁμοίως [αἱ] γυναῖκες ὑποτασσόμεναι τοῖς ἰδίοις ἀνδράσιν, ἵνα καὶ εἴ τινες ἀπειθοῦσιν τῷ λόγῳ διὰ τῆς τῶν γυναικῶν ἀναστροφῆς ἄνευ λόγου κερδηθήσονται



はじめに


 今回は、3章に入ります。2章では、主人に仕えることの意味について見てきました。それは、組織や社会に対するクリスチャンのありかたということです。3章は家庭生活と一般的な教えについて書かれている章になります。今回は3章1節を取り上げて、妻に対する教えを見ることにより、ペテロは読者に何を伝えたかったのかを学んでいきます。

SDGs エスディージーズ


 最近良く耳にするのは、国連が採択したSDGs(Sustainable Development Goals(持続可能な開発目標)という言葉をよく聞きます。17の目標が掲げてあり、すべての人の共存と繁栄、そこに至るゴールを達成するために、国連が目標を立て人々の平和と幸福を目指そうとする運動です。その中心となる課題はジェンダー(性差別)と多様性の維持ということです。

ジェンダーはSDGsの5番目のゴールになっているが、他のゴールを実現するうえでほぼ共通して重要な視点だ。「2030アジェンダ」の中でも、「ジェンダー平等の実現と女性・女児の能力強化は、すべての目標とターゲットにおける進展において死活的に重要な貢献をするものである」「新たなアジェンダの実施において、ジェンダーの視点をシステマティックに主流化していくことは不可欠である」とされている。
引用:ダイヤモンド・オンライン

そうした時代に生きる私たちからすれば、ペテロの記事を読みますと、

同じように、妻たちよ。自分の夫に服従しなさい。
Ⅰペテロ3:1 前半

という一節は現代人にとって衝撃的な言葉に映ります。初めて聖書に触れる女性ならば、えーっと思うでしょう。前時代的と言うか、封建的と言わざるを得ないということでしょうか。聖書の言葉は誤りのない神の言葉であるというのが保守的なキリスト教の立場ですが、この言葉を見ますと、保守的なキリスト教は、こんなことを信じているのですかと訴えられかねない言葉です。また、字義通りに信じて、女性は夫に従うようにと強要しかねないということもあるでしょう。では、私たちは、この時代にあってこの言葉をどう解釈していくべきでしょうか。

ところで、3章1節から6節に関しては、女性に対する心得をペテロは書いていますが、夫に対しては、7節のみで女性7節、男性1節のみという内容です。あまりに男性に対しての勧めが薄いと思います。こうした面から見ても聖書はあまりに男尊女卑、前時代的なものというように捉えられてしまうように感じます。

当時の時代背景と服従の目的


 なぜ、このように、女性に対して厳しいように書かれているのでしょうか。それは、ローマ時代の女性の立場が非常に低かったということがあります。当時の妻の立場というものが、家庭においても非常に低かったということがあるといいます。現在の教会でも多くあることですが、まず、信仰を持つのは妻の立場にある女性が入信し、その後、子供が救われて、ご主人が教会に導かれるということが多いのですが、当時のローマ帝国内の教会形成もそうした過程が多かったようです。

 そうした時代にあって、信仰を持ち、教会に行くというのは非常にハードルが高かったようです。強権的な主人のもとで、教会に行く許可を得なければ参加できないということもあったでしょうし、当然、異教の祭りや異教社会で生きるためには、安易に教会に行くというのは戦いがあったことでしょう。当時の社会にあってキリスト教というのは、市民権を得ていたわけでもなく、むしろ、異教の習慣を拒否する立場を堅持した教会は迫害にあうということで、社会の偏見や冷遇に置かれた立場でした。そうしたなかにあって、教会に参加するということは、当然、家庭の主人からは行くなと釘を刺されるのは当然かと思います。そうした逆境に置かれたクリスチャンの妻たちに対して、家庭の主人たちの理解を得るためにはどうしたらよいのか、また、ゆくゆくは、主人たちが救われるためにはどうしたらよいのかということを勧めたのが、この1節から6節の目的であったのです。

家庭において従うということの意味


 ところで、服従という言葉が出てきます。2章において何度も登場した ὑποτάσσω(ヒュポタッソー)という言葉です。服従と聞くと、隷属するとかネガティブに聞こえてしまう言葉ですが、主の御心に従って、自発的に、進んで自分を捧げることを意味します。つまり、明け渡すことです。つまり、それがもたらす、主のみこころや良いことを確信して、積極的にそうすることです。それは、主のために行うことを意味しています。人の圧力に屈して行うという意味ではありません。まるで、イエス・キリストが十字架において、私たちの罪を嫌々ながら負ったのではなく、積極的に負ったということを暗示する言葉です。

 神は、創造の秩序において男性を先に創造し、女性を次に創造しました。創造には神の順序があったのです。神は、家庭のおいても夫が主であり、妻は従であることを教えています。ただし、神は、その関係にあって、優劣はなく、果たすべき役割をその順序に示していたということです。ただし、この考えはしばしば誤用され、男尊女卑的な考えが保守的な教会にも色濃く残っているように思われますが、そもそも、男女には優劣はないのです。むしろ、教会はそうした男尊女卑的な考えを修正したということが正しいのです。

ところで、従うことのゴールは何であったのでしょうか。キリストが私たちのために服従したゴールは、私たちの罪の赦し、永遠のいのち、神の子供とされる特権を与えることでした。つまり、私たちが救われるということです。それと同じように、1節冒頭のὉμοίως(ホモイオース)は、キリストの十字架と妻のあり方の近似性を示す言葉として示されています。妻が夫に積極的に従うことは、キリストが十字架において負った犠牲と同じだということです。嫌々ながらではありません。苦しみはあるにせよ、心のなかでは喜びと満足にみたされながら行ったということです。

言葉のいらない福音


たとい、みことばに従わない夫であっても、妻の無言のふるまいによって、神のものとされるようになるためです。 1ペテロ3:1後半

 キリストを信じる主人であれば、喜んで主人に仕えることは容易いことであったでしょう。ギリシャ語でἀπειθοῦσιν τῷ λόγῳ (アペイソーシン トー ロゴー)と記されていますが、この言葉は、真っ向から福音を拒絶するというような強い意味を持ちます。こうした主人のもとで信仰を持つというのは非常に困難を強いられたことでしょう。日本においても、こうしたご家庭をよく聞きます。信仰を保つのが困難、先が見えない中で絶望する奥さんも多いかと思います。しかし、そこで何が大切なのか。ペテロはこう言います。 ἄνευ λόγου(アニュー ロゴー)無言のふるまいと訳されていますが、言葉ではなく、言葉なしに、ふだんの生活において積極的に従うことで言葉なしに、行動で夫に福音を伝えるということです。

 ここで、『ふるまい』と訳されるἀναστροφῆς(アナステロフェース)という言葉が出てきます。原型はアナステロフェですが、生活習慣という意味です。詳しくいうと、神に向かって浄化された生活というものです。わかりやすく言えば、飲酒の習慣があったものを飲酒をやめるであるとか、喫煙者がタバコをやめるというようなものです。クリスチャンとしてどう歩めば、神に喜ばれるのかというものを実践するというこです。つまり、福音を伝えるには、福音の言葉を伝えるということだけではなく、それ以上に、福音の言葉を聞いてその人がどう変わったのかを人々は見ているということです。私たちが神によって浄化された生活の行く末に注目しているということです。ですから、男女を問わず私たちは聖さに向かって自分を一新させていく必要があります。

ロマ 12:2
この世と調子を合わせてはいけません。いや、むしろ、神のみこころは何か、すなわち、何が良いことで、神に受け入れられ、完全であるのかをわきまえ知るために、心の一新によって自分を変えなさい。

SDGs エスディージーズにはゴールがあると話しましたが、福音にもゴールがあります。そのゴールとは

Ⅰテモ 2:4
神は、すべての人が救われて、真理を知るようになるのを望んでおられます。

ということです。そのために、福音に頑固な主人にクリスチャンの妻が遣わされているということが今回のみことばが示していることです。これは、妻だけではありません。日本においては福音を拒絶することは普通ですから、すべてのクリスチャンがこの言葉のために遣わされているのです。

今日の言葉の最後にκερδηθήσονται ケルデーセーソンタイという言葉が出てきます。原型はケルダイノーという言葉ですが、その意味は、利益を得る。古代の商売の用語は、ある善を別の善と交換(取引)するために、そして平凡な善をより良いものに交換(取引)するために、使用されました(ヨハネ4:13を参照)。信者にとって、ケルダイノーとは、(「得る、利益を得る」)とは、信仰に生きること、つまり主の働きかけに従うことによって生じます。つまり、私たちの無言のふるまいによって人々が救われ神への貢献をなすということです。そのことは、結果的に私たちに信仰の強化をもたらします。人々が救われて益をこうむる時、私たちもその姿を見て嬉しくなるではないですか。苦労が報われる瞬間です。私たちも諦めないで、日本人、いや世界の人、家族の人が主によって救われるように日々の生活を大切にしていこうではありませんか。

適 用


  1. 自己変革と信仰の実践
     ペテロの教えは、自分自身を変えることを強調しています。それは、信仰を言葉だけでなく、行動で示すことを意味します。私たちが日々の生活でどのように行動するかは、他人が私たちの信仰を理解するための最も重要な課題です。ですから、自分自身を一新し、神に喜ばれる生活を送ることができるように求めましょう。

  2. 信仰と家庭生活の調和:
    ペテロの教えは、家庭生活と信仰の間の調和を強調しています。特に、妻が夫に対して示すべき従順さについて言及しています。これは、夫が信仰を持たない場合でも、妻の行動が夫を救う可能性があることを示しています。この箇所は、信仰と家庭生活の間の調和を保つための重要な手引きとなります。

  3. 福音の伝播
    ペテロの教えは、福音を伝える方法についても示しています。それは、言葉だけでなく、行動によっても福音を伝えることができるということです。したがって、私たちの行動が、他人が福音を理解し、最終的には救われるための道を開く可能性があります。これは、私たちが福音を伝えるための重要な規範となることです。

以上の3つの適用は、それぞれの状況や背景により、さらに具体的に適用できます。重要なのは、私たちの信仰が私たちの日々の生活にどのように影響を与え、また、私たちの生活が他人にどのように影響を与えるかを常に考えることです。それにより、私たちは神の愛と福音をより効果的に伝えることができます。ですから、自分が正しいとするような独善的なものであってはいけません。

Lexicon レキシコン

Ὁμοίως,d \{hom'-oy-os}
1)のように、
似ている、

γυναῖκες γυνή,n \{goo-nay'}
Case V Number P Gender F
1)処女、既婚、未亡人を問わず、あらゆる年齢の女性2)妻2a)婚約者の女性

ὑποτασσόμεναι ὑποτάσσω、v \ {hoop-ot-as'-so}
Tense P Voice P Mood P Case N Number P Gender F
1)下に配置する、部下に2)服従する、服従させる3)自分自身に服従する、従う4)自分のコントロールに服従する5)自分の忠告やアドバイスに屈する6)従う、服従する 

ἴδιος、a \ {id'-ee-os}
1)自分自身に関係し、自分自身に属し、自分自身に属する

ἀνδράσιν ἀνήρ,n \{an'-ayr}
1)性別を参照して1a)男性の1b)夫の1c)婚約者または将来の夫の2)年齢を参照して成人男性と男の子を区別する3)男性4)一般的に使用される 男性と女性の両方のグループ

ἀπειθοῦσιν ἀπειθέω,v \{ap-i-theh'-o}
Person 3 Tense P Voice A Mood I Number P
1)自分自身を説得させない1a)信念を拒否または差し控える1b)信念と従順を拒否する2)従わない

γυναικῶν γυνή,n \{goo-nay'}
Case G Number P Gender F }
1)処女、既婚、未亡人を問わず、あらゆる年齢の女性2)妻2a)婚約者の女性

ἀναστροφῆς ἀναστροφή,n \{an-as-trof-ay'} 
1)生活様式、行動、行動、移送

ἄνευ,p{an'-yoo} 1)意志や介入なしに

κερδηθήσονται  κερδαίνω、v \ {ker-dah'-ee-no}
Person 3 Tense F Voice P Mood I Number P
1)獲得する、獲得する、獲得する2) 2a)悪からの忌避または脱出から生じる利益(「自分を惜しまない」、「惜しまれる」と言う場合)2b)誰かを獲得する、すなわち神の国に彼を引き継ぐ、信仰する人を獲得する キリスト2c)キリストの恵みと交わりを得るために