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人づきあいの極意 ペテロ第一の手紙3章11節

悪から遠ざかって善を行い、平和を求めてこれを追い求めよ。
Ⅰペテロ3:11

ἐκκλινάτω δὲ ἀπὸ κακοῦ καὶ ποιησάτω ἀγαθόν, ζητησάτω εἰρήνην καὶ διωξάτω αὐτήν.

2022年1月30日 礼拝


■ はじめに

前回は、ペテロの手紙第一3章10節から語りました。
幸いな日々を過ごすためにはどうしたらよいかという格言をペテロは読者に伝えました。ペテロが活躍した時代、クリスチャンたちは、奴隷や女性が多く人とはみなされない人々が中心であったということでした。

こうした人々に共通していたのは、自由人がふつうに手に入れられる幸せがなかったということです。人間としての幸福、人間の権利が剥奪された状態にあって、希望が失われた状態であったわけです。

希望が失われたときに、出てくるのは悪口です。悪口が存在するところに偽りもついてくるということでした。ペテロは、こうした人々の苦しみを知った上で、10節の格言を語りました。今回は、その格言のつづきです。


■ 悪とは

前回、ペテロは、『舌を押さえて悪を言わず』と10節のなかで伝えました。今回は重複するかたちで『 悪から遠ざかって』と新改訳聖書にはあります。似た言葉を繰り返し伝えるのは、くどい気もいたしますが、今回、あえてペテロが、『悪』について伝えるには、それなりの理由があるからだろうと思うのです。

なぜ、繰り返し『悪』について伝えたのでしょうか。前節では、悪の存在をクリスチャンたちに見ており、その悪を言わないようにとの消極的な対応を勧めているのですが、今回は、さらに踏み込んで、そもそもが、悪から遠ざかることで悪を言わなくなるというところにまで、目標を掘り下げているのだとの印象を受けます。

何度も取り上げた『悪』と訳された言葉κακός(カコス)の原意は、

[2556/kakosはしばしば「邪悪さ、内なる悪」という意味の代名詞的な形容詞(つまり実体として使われる)である] 。

2556/kakos(「邪悪さ」)は、生まれつきの性質に上塗りする、すなわち惨めな(embittered)気質を持つ人を、他人に害(injury)を与えるという歪んだ満足感にまで拡張させる。
[語源(kak-)は「本質的に悪い(有害な)」「性質と目的において邪悪な」(H. Cremer, 326)という意味である]。

この「意地の悪い心は人道と公正に反対するもので、一般に悪意と称される」(J・カルヴァン、エペ4:32)。

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単に、悪というイメージではなく、厳密には、人を悪い状況に引きずり下ろすとか、足を引っ張るという意味で使われる言葉だということに留意すべきではないでしょうか。

■ 悪から遠ざかる

ペテロは、この悪に対して、言ってはならないと諭すばかりか、遠ざかりなさいと言います。通常、悪に対しては対決しなさいであるとか、戦いなさいと聞くものです。ところが、ここでは、遠ざかるようにペテロは教えております。なぜ、悪に対しては、遠ざかるのかということです。

読者の対象は、圧倒的な力の差の存在があり、歯向かうことすら不可能だった人々です。奴隷が暴徒化し、主人に対決したところで勝ち目はない中にあって、悪から遠ざかるというは適切な対応だったかと思います。
不利な立場のクリスチャンが無謀な戦いを強いるようなことは、ペテロは勧めなかったと考えるべきでしょう。

ここで、『遠ざかる』と訳されたギリシャ語を見ていくことにしましょう。
ἐκκλίνω(エクリノー)という言葉です。その意味は、

κκλίνω,v {ek-klee'-no}
1)(正しい道から)それる、逸れる 2)(自分の)背を向ける、社会から目をそらす 3)敬遠する3)1578 ekklínō(1537/ek「から、へ」と2827/klínō「曲げる」から)-正しくは、必然的な結果(out-come)と共に、頭を下げる(背ける);除外する;意図的、決定的な拒絶(背ける)によって完全に回避する;。

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(1 Pet 3:11) 避ける - M. Vincent,
1537/ek「出る」と2827/klínō「曲げる」の合成語。
そのため、この語は、悪が近づくと自分の進路から「身をかがめる」様子を表している」(WS, 310)。

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身をかがめること

悪から遠ざかるとは新改訳聖書で言われてはいましても、奴隷という囚人のような、主人からの虐待やハラスメントといった悪が避けられない環境にあって、むしろ、ペテロは、身をかがめて対処するように勧めています。

 身をかがめて余計な争いは避けるというような対応は、一見消極的に聞こえるようですが、無駄な争いをして、禍根を残す、余計に被害を被るよりは、むしろ、被害を最小限にとどめるという現実的な対応を勧めているのです。

悪に対しては悪に報いないということです。

■ 善を行う

悪に対して、わたしたちは、善を行うというのは共通認識であるかと思います。ところが、この善ということばは厄介です。
善について一体どのくらい私たちは知っているでしょうか。

英語の訳を見ていきますと、『善』ということばはすべて”Good”に訳されています。では、ギリシャ語では、ἀγαθός(アガソス)という言葉です。直訳では、『良い』という意味です。

ἀγαθός,a {ag-ath-os'}
1)良い体質または性質 2)役に立つ、役に立つ 3)良い、心地よい、楽しい、幸せ 4)優れた、優れた 5)直立した、名誉のある

http://www.greekbible.com/

なぜ、新改訳聖書の翻訳者たちは、『善』を用いたのでしょうか。詳しくἀγαθός(アガソス)を見ていきますと、下記のような意味を持ちます。

agathós - 本質的に(本質的に)良い;信者との関係では、(agathós)は彼らの人生において神から由来するもの、すなわち、信仰を通して神によって生み出され力を与えられたものを表します。
agathos(「本質的に良い」)は通常、神によって実現された徳(信仰の結果)、すなわち主が信者に(の中に)言葉を授け、それを力づけることを表します。したがって、18(agathós)は信仰(「神の働きかけられた説得」/pístis)と密接に関連しています。

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つまり、アガソスという言葉は、信仰に基づいた神の力によってもたらされる徳ということです。

善を行うと聞きますと、良いことをするというように思いがちです。そうではありません。人は、人によく思われようとして、心に悪意をもったまま、善い行いができるものです。こうした善行は、本当の意味での善い行いではありません。偽りです。つまり偽善ということです。

クリスチャンは、悪に対しては、偽善で臨んではいけいけないことはわかると思いますが、善は自分で作り出すような種類のものではありません。

信者にとって、(agathós)とは、信仰によって生み出された善のことである。これは、神の声を聞き、神の力によってそれに従うことから生じるものである。このように、聖書では、「良い(アガトス)働き」は、神が生み出されたものでなければならないので、常に信仰による働きなのである。

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こうしてみますと、『善』とは神から生み出されたもの、逆に『偽善』は自分が生み出すものと理解することができます。

良心に従うべきです

善は自分の力で努力するように思われますが、そうではなく、信仰による働きであり、その働きこそが御霊(Soul)によって活きる姿であると要約できます。そうなるためには、自分を神に明け渡し、良心に基づいて行動するということが求められます。いかがでしょうか。あなたは、自分の行いに対して良心に従って生きているでしょうか。良心の声を遮り自分の考えを優先させてはいないでしょうか。周囲からは正しい行いに思えても、神に前に見せることができないならば、それは偽善です。

イスカリオテのユダに見る偽善の例

イスカリオテのユダは、ヨハネ12章1節~8節の記事のなかで、ベタニヤのマリヤがイエス・キリストに高価なナルドの香油の場面があります。
そこで、イエスを裏切るユダは、マリヤが主に施した香油の塗布に対して12:5 「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」とマリヤを責めるのです。香油の値段を今の価値に置き換えますと300万円ほどの価値があったようです。その香油を貧しい人に施したほうが良いともっともらしいことを言うわけです。心のなかに悪意が隠されてはいても、表面上は世のため人のためと言ってのけるのが人間の悪意というものです。

ヨハネによる福音書
12:1 イエスは過越の祭りの六日前にベタニヤに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。
12:2 人々はイエスのために、そこに晩餐を用意した。そしてマルタは給仕していた。ラザロは、イエスとともに食卓に着いている人々の中に混じっていた。
12:3 マリヤは、非常に高価な、純粋なナルドの香油三百グラムを取って、イエスの足に塗り、彼女の髪の毛でイエスの足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。
12:4 ところが、弟子のひとりで、イエスを裏切ろうとしているイスカリオテ・ユダが言った。
12:5 「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
12:6 しかしこう言ったのは、彼が貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人であって、金入れを預かっていたが、その中に収められたものを、いつも盗んでいたからである。
12:7 イエスは言われた。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです。
12:8 あなたがたは、貧しい人々とはいつもいっしょにいるが、わたしとはいつもいっしょにいるわけではないからです。」

新改訳改訂第3版 いのちのことば社

あなたはどうでしょうか。妬みから人の足を引っ張る言動、思いに駆られてはいませんか。自分が不利になると優位な人を引き落とす、罠に嵌める、無視する、仲間はずれにするということがあるとすれば、『善』のうちを歩んではいません。私たちは、こうした思いから避けなければなりませんし、遠ざかるようにするべきです。それがクリスチャンの処世術といっても良いでしょう。

幸いなこと

善(アガソス)とは、信仰から生み出される神のわざであることを知りました。つまり、信仰がなければ、善はすべて『偽善』なのです。最近、国連でもエスディジーズという目標が提唱されてはいますが、それで人間社会が良い方向に向かっているかといえば、そうではなく、表面上は繕っていても、水面下では、全く変わらないばかりか、表面化させないような取り組みにすり替わっているという事例が多数見られます。それも国家ぐるみで行っているといった嘆くことしかできな現状があります。人間の努力や目標というものには、罪という限界があります。それらはすべて『肉(サルクス)』の行いです。

ところが、クリスチャンには、解決があります。それは、自分を通して神が働かれるようになっているからです。神の力が自分を通して働かれること、それが、善を行うことですが、そうなることで、偽善から解放されていくのです。すなわち、神の力によって神とともに信仰を行うことを示唆しています。私たちに必要なのは神への明け渡しです。まずは、明け渡しを礼拝から始めていきましょう。礼拝は自分を明け渡す場だということを覚えてください。

■ 平和を追求すること

平和とは

最後に、ペテロは、『平和を求めてこれを追い求めよ。』と新改訳聖書にはあります。これはどういうことなのでしょうか。
平和とは、εἰρήνη(エイレーネ)という言葉です。

εἰρήνη,n {i-ray'-nay}
1)国家が平穏な状態であること 1a) 戦争による怒りや破壊からの免除 2) 個人間の平和、すなわち 3) 安心、安全、繁栄、幸福、(平和と調和が物事を安全にし、繁栄させるので) 4) メシアの平和 4a) 平和(救い)に至る道 5) キリスト教の、キリストによる救いを確信した魂の平穏な状態、したがって神から何も恐れず、どんな種類の地上での運命にも満足する 6) 敬虔でまっすぐな人の死後の祝福された状態

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εἰρήνη(エイレーネ)を詳しく見ていきますと

聖書では、平和(1515/eirēnē)は最初から最後まで神の御業である。 救い(改心)は「神との平和」(神の和解、ローマ5:1)、すなわち、神との真の契約関係の中で神と和解し、積極的に共に交わることから始まります。 この平和は、信仰に歩む信者に絶えず作用する "神からの平和"(cf. ピリピ 4:7; Ⅱテサ 3:16)から流れ出る。

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つまり、平和とは、神との和解を意味するということです。人との平和というようにとらえがちですが、まずは、神との平和を見出すこと、つまり救われて、神との平和を追い求めなさいというのが直接的な意味です。

神との平和(和解)を経験した後、降伏した信者は信仰と神の愛において成長し、そこから神からの平和が流れ出る(1ペテロ5:14参照)。
アウグスティヌス「あなたはご自分のために私たちを造られました。人の心は、あなたに安らぎを見出すまで落ち着きません」(『告白』I、I、5世紀頃)。

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ところで、平和についての誤解がありますが、平和のうちに生きることは、自動的に「幸せ」をもたらすとは限りません。 聖書の平和は「状況に基づく幸福」ではなく、「状況に依存しない喜び」です。クリスチャンにとって、信仰に生きることで、人生のあらゆる場面で、神の栄光に触れることができます。 このことは、クリスチャンの精神状況を安定に導きます。しかし、それは必ずしも「幸せな状況」ではないことです。

クリスチャンのディアスポラの例がわかりやすいでしょう。

使徒の働き8:3-5
サウロは教会を荒らし、家々に入って、男も女も引きずり出し、次々に牢に入れた。 他方、散らされた人たちは、みことばを宣べながら、巡り歩いた。ピリポはサマリヤの町に下って行き、人々にキリストを宣べ伝えた。

新改訳改訂第3版 いのちのことば社

使徒の働きを見ますと、迫害にあったクリスチャンたちは、その逃避行のなかにあっても福音を伝え続けました。家や財産を失い、故郷を奪われても彼らは伝道し続けたのは、神との平和のうちに生きていたからです。平和は環境の安定を意味する言葉ではないことが理解できます。

主は苦しみの時にも、楽しい時 と同じように、主の平安を与えてくださるのです。

すなわち、心の平和と平和な状況を決定するのは、問題の有る無しに関わらず、神の臨在があるかどうかにかかっているということです。したがって、神からの祝福を求めるよりも、神の臨在を求める方がより価値があるのです。

求めること、追い求めること

『求める』新改訳にありますが、ζητηω(ぜーテオー)という言葉です。

ζητηω
1)推論する、調べる 1c) 後に求める、探す、目指す、努力する 2) 求める、すなわち要求する 2a) 誰かに何かを切望する、要求する

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正しくは、拘束力のある(最終的な)解決に達するために、問い合わせる、調査することによって求めること、問題の「真相を知る」ことによって探すこと、追求するという意味です。「探すことの背後にある」道徳的態度(価値観)、すなわち求道者を駆り立てる内的確信(精神的価値観)に焦点を当てています。

一方、『追い求める』という訳はディオコーという言葉です。

διώκω,v {dee-o'-ko}
2)ある人や物を捕まえるために素早く走る、追いかける 2a)押し進める:レースでゴールに到達するために素早く走る人の比喩 2b)(敵対的に)追跡する 3)どのような方法でも、嫌がらせ、トラブル、痴漢 3a)迫害 3b)何かの理由で虐待される、迫害を受ける 4) 敵意の考えなしに、誰かの後に走る、後に従う 5) 形容詞.., to pursue 5a) 熱心に追い求める、獲得するために真剣に努力する。

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ディオコーは、狩人が獲物(賞品)を追いかけるように、積極的に追いかけることを意味します。それは、肯定的な意味(「熱心に追いかける」)にも否定的な意味(「熱心に迫害する、追い詰める」)にも使われます。

平和を求めることに関して、知的な面においても、感情的な面にも追求しなさいとのペテロの言葉です。

すなわち、私たちは状況に関わらず、あらゆる場において、熱心でありながら、置かれた状況の意味を探りながら主の臨在を求めていくこと、
これが平和を追求することの意味ということです。私たちが幸不幸に関わらず、置かれた環境や状況には主の深遠な配慮と意味があるということです。その状況を御言葉に照らして把握していく。感情に流されて理性を失わず、理性ばかりで熱意を失うのではいけません。

夏目漱石の『草枕』の冒頭に『智に働けば角が立つ情に棹させば流される意地を通せば窮屈だとかくに、人の世は住みにくい』との言葉がありますが、世間の人とつきあうときには、頭のいいところが見えすぎると嫌われる。あまりにも情が深いとそれに流されてしまう。また自分の意見を強く押し出すと、衝突することも多く世間を狭くする。人づきあいというのは、智と情と意地のバランスを上手にとらなければならず、なかなか困難なことだという意味ですが、

クリスチャンは、知情意を尽くして主を愛する。このことが、閉ざされた世界での人づきあいの極意と言えましょう。

■ Translation 対訳

【NASB】"HE MUST TURNE AWAY FROM EVIL AND DOE GOOD; HE MUST SEEKE PEACE AND PURSUEE IT.
悪から離れ、善を行い、平和を見て、それを追求しなければならない。

【KJV】 Let him eschew evil, and do good; let him seek peace, and ensue it.
悪を避け、善を行い、平和を求め、それを実現させなさい。

【TEV】 You must turn away from evil and do good; /you must strive for peace with all your heart.
悪から遠ざかり、善を行うのだ。平和のために心から努力しなければなりません。