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貪欲に警戒せよ ルカ12章13-15節

2023年9月24日 礼拝

ルカによる福音書12:15
そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」
εἶπεν δὲ πρὸς αὐτούς, Ὁρᾶτε καὶ φυλάσσεσθε ἀπὸ πάσης πλεονεξίας, ὅτι οὐκ ἐν τῷ περισσεύειν τινὶ ἡ ζωὴ αὐτοῦ ἐστιν ἐκ τῶν ὑπαρχόντων αὐτῷ.

タイトル画像:Benedikt GeyerによるPixabayからの画像


はじめに


事情により、長らくNoteの執筆を止めておりました。いよいよ活動再開いたします。読者の方々にはご心配おかけしたかと思いますが、心機一転、主のお言葉を深く力強く語っていきたいと思いますので、どうぞ皆様のお力添えとお祈りをお願い致します。

さて今回は、ルカの福音書から、自分のうちにある貪欲について考えていきたいと思います。自分とは関係がないと思う方も多いかと思いますが、知らないうちに欲にしたがって生きている自分というものを見つめさせるイエスの言葉を紹介していきます。

ルカによる福音書12:13-15


12:13 群衆の中のひとりが、「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください。」と言った。
12:14 すると彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。」
12:15 そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」

イエスに調停を求める人


ルカの福音書12章を読んでいきますと、人々がイエスの教えを聞きたいという人でごった返す様子が見られます。

イエスは、律法学者とパリサイ人と論争を繰り広げ、糾弾しました。しかし、反論するどころか何も言えず防戦一方の彼らの姿を見たときに、多くの人のイエスへの信頼と共感が寄せられていたようです。
当時のイスラエル人の多くが抱いていた律法学者やパリサイ人の言葉に対して憤懣を持ちつつも、その矛先を見いだせない群衆の心に刺さるものでした。きっと、イエスの言葉に快哉を叫んだのではないかと思うのです。

イエスの言葉に心酔し、この方こそ、本物のラビ、いやメシアであると感じた人々は、彼に自分の問題解決の糸口を見出したに違いありません。これほどの知力や洞察力、歴史観を披露した方ならば、自分の問題くらいなんてことはない、必ず解決してくださると思ったのでしょう。聖霊についての話が終わるやいなや、イエスの言葉を遮るようにひとりの人が声を上げました。

ルカ12:13 群衆の中のひとりが、「先生。私と遺産を分けるように私の兄弟に話してください。」と言った。

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そこで、男が要求したことばは、兄弟との遺産相続についての解決を求めてきたのです。

この男性の依頼は、律法学者あるいはラビとして、主を認めていることを暗示していますが、それはあくまでも世俗的な側面からラビとして認めていたに過ぎませんでした。

当時の律法の専門家である律法学者は、財産や結婚に関する問題の弁護師、仲裁者としての役割を果たしていました。

今回、イエスに訴えたケースでの正確な内容はここには記されていませんが、申立人の言葉から想像した時に、彼は次男であり、父の死後、長子には二倍の取り分が与えられるという判例(Ⅱ列王記2:9)に従い、兄に自分の取り分以上のものを要求し、明らかにその全額を要求したであろうということです。

第二列王記2:9 渡り終わると、エリヤはエリシャに言った。「私はあなたのために何をしようか。私があなたのところから取り去られる前に、求めなさい。」すると、エリシャは、「では、あなたの霊の、二つの分け前が私のものになりますように。」と言った。

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調停を拒んだイエス


ルカ12:14 すると彼に言われた。「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。」
ὁ δὲ εἶπεν αὐτῷ, Ἄνθρωπε, τίς με κατέστησεν κριτὴν ἢ μεριστὴν ἐφ' ὑμᾶς;

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イエスは多くの人の問題に関わり、その問題に応え、解決を行ってきました。
しかし、ここでは、申立人の要求に対して、応えてイエスはどのように対応したのかといいますと、「いったいだれが、わたしをあなたがたの裁判官や調停者に任命したのですか。」と男の申し立てに対してきっぱりと拒否しました。本文のギリシャ語では次のように記されています。

Ἄνθρωπε, τίς με κατέστησεν κριτὴν ἢ μεριστὴν ἐφ' ὑμᾶς;
アンスロペ ティス メ カテステーセン クリテーン ヘ メリステーン エフマース

直訳しますと、『人よ、だれがわたしをさばき人にしたのか』という役になりますが、これは、主のもとに来た人に、主がこのように話しかけた唯一の例です。

ローマ2:1やローマ2:3の用例を見ますと、「人よ」という呼びかけは、重大な非難と憤りを表す呼び方であるということです。

なぜ、主イエスがお怒りになられたのでしょうか。
それは、男が主のもとに来た理由というのは、男が純粋に主を求めるのではなく、イエスを自分の利得を得るのための手段としたことが理由でした。

また、さらに主は、律法学者がなすべきことは何であるのかということをここではっきりさせたのです。つまり、律法学者とは、この世の調停者や裁判官ではなく、あくまでも人の執り成しのために存在し、霊的な側面以外をはっきりと否定したという意味がこの言葉にはあります。

このような御言葉に際して反省させられるものですが、自分の利益や利得のために、イエスを利用していないだろうかということです。気をつけないと、主イエスが神ではなく、私たちの利得を求める心こそが、『神』にはなっていないかということです。

貪欲に注意する


ルカ12:15 そして人々に言われた。「どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。なぜなら、いくら豊かな人でも、その人のいのちは財産にあるのではないからです。」
εἶπεν δὲ πρὸς αὐτούς, Ὁρᾶτε καὶ φυλάσσεσθε ἀπὸ πάσης πλεονεξίας, ὅτι οὐκ ἐν τῷ περισσεύειν τινὶ ἡ ζωὴ αὐτοῦ ἐστιν ἐκ τῶν ὑπαρχόντων αὐτῷ.

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ともすると、私たちはこの御言葉のように、いのちは財産にあるように感じてしまうものです。たしかに財産は、私たちの生活や健康を支えるものとして欠かさざるものであることは事実です。しかし、真の意味においてどうでしょうか。皆様もご存知のように、いくら財産を持っていても死から免れることはできません。あくまでも、財産は補助的なものであることを心に刻まなければなりません。

人のいのち、さらに言えば人格というものは、持っている物の豊かさによって決まるのではありません。

貪欲とは

主は言われます。『どんな貪欲にも注意して、よく警戒しなさい。』と。
それは頭では理解している。しかし、どうでしょうか。自分たちが追い込まれた時に頭に浮かぶのは、何でしょうか。まずはお金ではないでしょうか。振り返ってみたときに、神よりも金という思いに駆られるということは誰しもあるはずです。

ところで、貪欲という言葉を見てみますと、本文ではπλεονεξίας(プレオネクシアス)という言葉です。原型はプレオネクシア。
意味について見ていきますと、「数的に多い」という意味のプレイオンと2「持つ」という意味のエコーが合成した名詞です。
こうして、より多くの物を求める欲望であるとか、神が最善として与えるもの以上により多くの物を欲する欲望を意味します。

プレオネクシアとは、聖書が偶像礼拝に等しいと言っている罪であることです。コロサイ人への手紙3:5には、『むさぼり』と書かれていますが、その言葉がプレオネクシア『貪欲』であり、その本質は偶像礼拝であることです。

コロサイ人への手紙
3:5 ですから、地上のからだの諸部分、すなわち、不品行、汚れ、情欲、悪い欲、そしてむさぼりを殺してしまいなさい。このむさぼりが、そのまま偶像礼拝なのです。

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つまり、貪欲 は偶像礼拝であり、それは物質や我々の思いを主イエスよりも大事にすることです。 この罪は他の多くの罪を生む結果に繋がること忘れてはなりません。

神の御心から外れること

さらに、プレオネクシアとは、神の御心から外れたものを意味します。
人は、要求するものが過剰になると、この渇きを癒やすために過剰に欲しくなるものです。しかし、渇きを癒やしたと思った瞬間、何が起こるのかといいますと、それは皮肉にも虚しさをもたらすのです。

神が与える平安を望まずに、自分の満足を追求することは結果的に虚しさを刈り取ることになります。豊かさや幸福とはより多くのものを持つことだと思う人がいるかも知れません。しかし、 皮肉なことに、自己を満足させようとする試みは、成功したかと思うと次の要求が生まれ、さらに次の段階への祝福を望み、さらに祝福というように切りがありません。結局は心を満たすことへの試みは失敗に終わり、それは自滅的なものに変わり果てます。

この世のどんな良いものへの欲望も、信仰が与えるものを超え、行き過ぎると、もはや良いものではなくなってしまうのです。それは、ちょうど、モーセの出エジプトの時に荒野を旅するヘブル人に与えられたマナのようなものです。

出エジプト記
16:19 モーセは彼らに言った。「だれも、それを、朝まで残しておいてはいけません。」
16:20 彼らはモーセの言うことを聞かず、ある者は朝まで、それを残しておいた。すると、それに虫がわき、悪臭を放った。そこでモーセは彼らに向かって怒った。
16:21 彼らは、朝ごとに、各自が食べる分だけ、それを集めた。日が熱くなると、それは溶けた。

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私たちの財産についても同様です。神が望まれる以上に過剰に集めすぎると、腐り始めるのです。私たちは、与えられたものに関して適切に用いないと財産が腐り始めることもありますが、それ以上に自分の精神性が崩れていく、神との関係が台無しになるという点を学ばなければなりません。

満ち足りる生活へと

こうした貪欲に対して私たちは何を目指したら良いのでしょうか。それは満ち足りた生活を志向することです。

その秘訣は、主イエスご自身がわれわれを満たしてくださること、すなわち、主が最善と思われるものを満たしてくれるという信仰に立つことです。

エペソ人への手紙
3:19 人知をはるかに越えたキリストの愛を知ることができますように。こうして、神ご自身の満ち満ちたさまにまで、あなたがたが満たされますように。
3:20 どうか、私たちのうちに働く力によって、私たちの願うところ、思うところのすべてを越えて豊かに施すことのできる方に、
3:21 教会により、またキリスト・イエスにより、栄光が、世々にわたって、とこしえまでありますように。アーメン。

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私たちには、つねにサタンから有形無形の貪欲という欲望が襲いかかってきます。そこにはあらゆる巧妙な誘惑があり、今回取り上げた申し立てた男のように、「人生」とは、有り余るほどの財を持たなければ生きる価値がない、あるいは心配で仕方がないと考えるようになったのではないかと推察されます。

その中心は何であったでしょうか。それは、神を覚えない、神を中心に据えていないという姿があったことです。私たちは、自分の心の中心に何を据えていますか。欲しい物で満たされているでしょうか。それとも不安でしょうか。そうしたものを私たちは清める必要があるのではないでしょうか。
私の心を主イエスに明け渡してくださるように祈り求めようではありませんか。アーメン。

適 用


物質的なものに過度に依存していませんか
今回、この個所を見るときに、私たちの生命や価値というものが物質的な富に依存していないことを教えています。私たちは、財産や物質的な所有物に固執することなく、よりイエス・キリストを求めるべきです。これは、私たちが経済的な豊かさに恵まれているかどうかに関わらず、内面の平和と満足を見つけることができる秘訣です。

貪欲からの自由になりましょう
イエスは貪欲に対する警告を発しています。私たちは、常に物質を求める心から自由になることを目指すべきです。これは、私たちが持っているものに感謝し、現状に満足し、必要以上に消費することなく生活することが、精神的なゆとりをもたらす大事なことです。

信仰に基づく価値観に生きましょう
私たちは、見ることによってではなく、信仰によって歩むよう呼びかけられています。これは、目に見えるものだけに価値を置くのではなく、信仰を通じて神の導きを信じ、日々の決断を下すことを意味します。私たちの行動や決断は、一時的な利益ではなく、永遠の価値に基づいて判断することを心がけるようにすると神の御心を深く理解し、恵みを実感するようになります。


皆様のサポートに心から感謝します。信仰と福祉の架け橋として、障がい者支援や高齢者介護の現場で得た経験を活かし、希望の光を灯す活動を続けています。あなたの支えが、この使命をさらに広げる力となります。共に、より良い社会を築いていきましょう。