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ハロウィンをどう思うか

タイトル画像:Susanne Jutzeler, Schweiz, via Pixabay

2022年10月30日 礼拝

聖書箇所 
第二 コリント人への手紙
6:15 キリストとベリアルとに、何の調和があるでしょう。信者と不信者とに、何のかかわりがあるでしょう。

はじめに


明日10月31日はハロウィンです。翌日の11月Ⅰ日は、万聖節ともいわれ、その万聖節の前夜祭がハロウィンの日になります。
このハロウィンですが、日本で騒がれ始めたのは、ここ30年くらいかと記憶しています。現在では、日本各地のみならず世界で楽しまれているお祭りになります。ところで、みなさまはハロウィンについてどれだけご存知でしょうか。単に西洋のお祭りだから、クリスマスのように楽しもうという向きもきっと多いのではないでしょうか。昔から祝われている、親しまれているというだけで受け入れるというので良いことなのでしょうか。今回はハロウィンとクリスチャンの関わり方について吟味していきたいと思います。


ハロウィーン

ハロウィーンHalloweenは万聖節All Saints' Eveとして知られています。多くの国でキリスト教における万聖節の前日の10月31日に祝われている行事です。聖人(Hallow's) 、殉教者たち、すべての死者を思い出すために捧げられる祭りです。

ハロウィンの語源は、「聖人の夕べ」という意味がありますが、それは、カトリックに由来するといいます。Halloweenは、All Hallows' Eve(すべての聖人の前夜)という意味です。

ハロウィンは、ケルト民族の収穫祭、特にゲール族の祭り「サムハイン」の影響を受けたという説があります。 このサムハインを受け継いで、初期のキリスト教によって万聖節として、キリスト教化した可能性があると指摘されています。

ハロウィーンはキリスト教の祝日として始まり、万聖節の前夜祭であったと考えています。

アイルランドとスコットランドで数世紀にわたって祝われ、アイルランドとスコットランドの移民は19世紀に北米に多くのハロウィーンの習慣を持ち込み、アメリカの影響を受けてハロウィーンは20世紀後半から他の国に広まっていた 。こうした流行を経て、日本に伝わってきました。

ハロウィンで何が行われているのかと言えば、一つは、トリック・オア・トリートです。 10 月 31 日のハロウィーンの夜に、仮装した子供たちが家から家へと移動し、「トリック オア トリート」というフレーズでお菓子を求める風習です。

次に、仮装パーティーがよく知られたところでしょう。日本でも渋谷の仮装行列が話題になるぐらい盛んです。
それから、カボチャに穴を開けて、ジャック・オー・ランタンにするといったところがよく知られたところです。

海外では、かがり火をつけたりします。これは、家の中にキャンドルを灯すなど日本でも広く行われていますね。それから、アップルボビングというゲームを行うそうですが、これは、大きなタライに水を張り、そこに浮かんでいるりんごを手を使わずに口で取る遊びだそうです。
また、占い、悪戯、心霊スポット訪問、怖い話、ホラーやハロウィンをテーマにした映画鑑賞を行うようです。

 一部の人々は、教会の礼拝に出席したり、死者の墓にろうそくを灯すなど、万聖節にキリスト教の宗教的な行事を行うそうですが、普通の人にとっては世俗的なお祝いだそうです。 

歴史的に万聖節に肉を断つキリスト教徒もおり、その伝統はこの聖夜の日にリンゴ、ジャガイモのパンケーキ、ソウルケーキなど特定のベジタリアン食品を食べる習慣があるそうです。

ソウルケーキ wikimedia commons

カトリック由来の歴史

ハロウィンはカトリックの信仰と習慣にルーツがあると考えられています。カトリックにおいてすべての聖人を崇敬する祝日です。東方教会では4世紀以来聖霊降臨祭後の最初の日曜日に、すべての殉教者を祭る習慣がありましたが、カトリックのボニファチウス4世が 609年5月 13日にローマのパンテオンをキリスト教の聖堂にかえて以来、この日を全殉教者の祝日としました。当時は、殉教者が対象でしたが、すべての死者を祝う習慣はアイルランドから入ってきました。
837年グレゴリウス4世はこの習慣を取り入れ、11月1日を万聖節と定めました。現在この日に万聖節を祝うのは、カトリック教会とイギリス国教会に限られます。

異教の習慣が持ち込まれたか

800年までに、アイルランドとノーザンブリアの教会が11月1日にすべての聖人を記念する祝祭を行っていた記録があります。

By Hel-hama - Own work, CC BY-SA 3.0, via commons.wikimedia

これはケルト人の影響によるものだとする説と、ゲルマン人の考えだとする説があります。そのどちらの民族も、冬の始まりに死者を追悼する習慣がありました。 カトリックで、この習慣が取り入れられた理由として、夏のローマの蒸し暑い時期に、押し寄せる多くの巡礼者を収容できないという収容数の問題と、夏に多くの命を奪ったローマ熱という感染症への懸念から、この変更が行われたとされています。

中世に確立した祝日

12世紀末には西方キリスト教の義務の聖日となり、煉獄の魂のために教会の鐘を鳴らすなどの伝統がありました。
また、黒装束に身を包んだ人たちが通りを練り歩き、悲痛な音の鐘を鳴らし、すべての善良なキリスト教徒に貧しい魂を思い出すよう呼びかける習慣や、 すべての洗礼を受けた魂のためにソウルケーキを焼いて分け合う習慣があったそうです。貧しい群衆は、(多くは子供)は、戸別訪問を行い、死者、特に贈り主の友人や親戚の魂のために祈ることと引き換えにソウルケーキを求めるということが行われ、現在のトリックオアトリートにつながる行事の起源ともなっています。

キリスト教徒は「カブをくり抜いて作った提灯」を持っていたが、これはもともと死者の魂を表現したものと考えられており、 ジャック・オ・ランタンは悪霊退治に使用されていました。

19世紀の万聖節と万霊節には、アイルランド、フランドル、バイエルン、チロルの家では、ろうそくが灯され、それらは「魂の灯」と呼ばれ、「魂を地上の家を訪れるように導く」役割を果たしました。 ブルターニュ地方では、親族の墓にミルクを注いだり、帰ってきた魂のために食卓に一晩食べ物を置いたりした。ちょうど、日本のお盆の風習を彷彿とさせるものです。

死者の魂は万聖節まで地上をさまよい、万聖節は死者が来世に移る前に敵に復讐する最後の機会であると伝統的に信じられていました。レスリー・バナティーンという学者は、ハロウィンをキリスト教化される以前の異教徒の活動をキリスト教化したものかもしれないと考えてます。

「死の舞踏」というものが行われていたようですが、キリスト教徒に「この世のすべてのものの終わりを忘れないように」促す目的があって行われていたようですが、 ヨーロッパの村興しや宮廷仮面劇で「社会の様々な階層の死体に仮装」して演じられ、これは現在の仮装パーティの起源といわれています。

カルバン派の異議

イギリスでは、宗教改革の際に、プロテスタントが煉獄をカルヴァン派の宿命の教義と相容れない「教皇的」教義として非難しました。こうして、煉獄があるいう前提のハロウィンの習慣は攻撃を受けるようになりました。

聖人への執り成しや煉獄の魂のための祈りが、国家公認の儀式として行われていましたが、こうしたプロテスタントの異議によって、エリザベス朝改革で廃止されましたが、万聖節は「神々しい人間としての聖人を記念する」ためにイギリスの典礼カレンダーには残されました。

イギリスの非国教派のプロテスタントにとって、「カトリックが信じ、主張するように魂は天国に行く途中で煉獄から移動することはできない。その代わり、いわゆる幽霊は実際には悪霊であると考えられている」と主張しました。

ゲール族の影響

今日のハロウィンの風習は、ケルト語圏の民俗習慣や信仰に影響されたと考えられており、 ハロウィン習慣の起源は一般にゲール語の祭り「サムハイン」に関係しているとされています。

サムハインは中世ゲール暦の四半世紀の日の一つで、アイルランド、スコットランド、マン島で10月31日から11月1日に祝われてきたものです。古代ケルト人は死の神サムハインをたたえ、新しい年と冬を迎える祭りを行い、この日の夜には死者の魂が家に帰ると信じられていました。キリスト教の伝播にともなって、この祭りはキリスト教にとりこまれ、諸聖人の祝日である万聖節(11月1日)の前夜として位置づけられました。

サムハインは収穫期の終わりと冬の始まり、または1年の「暗い半分」を意味しました。ヨーロッパは高緯度にあるために、昼がきわめて短くなり、夜が一日のほとんどを占めるようになってきます。光が後退し、闇が深まる時期、この世とあの世の境界が薄くなる時期として捉えられていました。これは「精霊」や「妖精」であるアオス・シーが現世に入りやすく、活発に活動する時期と考えていたようです。

こうした土着の信仰は、キリスト今日の福音宣教によって置き換えられた後も、人々の心の中に捨てがたいものとして残されていました。 精霊や妖精は、 尊敬されると同時に恐れられており、人々はしばしば住居に近づく際に神の保護を呼びかけたそうです。

サムハインでは、人々や家畜が冬を越せるようにアオス・シーを鎮めます。この時期、死者の魂が一年のうち一晩だけ家に戻るのですが、こうした信仰は、キリスト教化される古代に起源を持ち、多くの文化に見られるものですが、アイルランドでは、「ろうそくを灯し、正式に死者の魂のために祈りを捧げていました。また、アイルランドとイギリスの全域、特にケルト語圏では、家庭の祭りに、特に死や結婚に関する将来を予言するための占いの儀式やゲームが行われていました。

18世紀から、アイルランドとスコットランドのハイランド地方では「悪霊の真似をする」ことでイタズラをするようになりました。ハロウィンで仮装して悪戯をすることは、20世紀になってからイギリスに広まります。 悪戯者たちは、くり抜いたカブやかぼちゃをランタンとして使い、しばしばグロテスクな顔が刻まれました。 作った人々によって、ランタンは精霊を表すと言われたり、悪霊を追い払うために使われたりと様々な用途に用いられました。19世紀にはアイルランドやスコットランドのハイランド地方の一部で一般的になり、20世紀にはイギリスの他の地域にも広まり、一般にジャック・オ・ランタンとして知られるようになりました。

アメリカで拡がったハロウィン

開拓時代のアメリカでは、ニューイングランドの清教徒はクリスマスを含む他の伝統的な教会の祝い事と共にハロウィンに強く反対したそうです。 18世紀後半と19世紀前半を調べるとハロウィンが北米で広く祝われてはいなかったようです。

ハロウィンがアメリカで祝日となったのは、19世紀にアイルランド人とスコットランド人が大量に移民した後のことであり、 アメリカのハロウィンの伝統のほとんどは、アイルランド人とスコットランド人から受け継がれたものでした。 その後、アメリカ文化の世界的な影響により、20世紀後半から21世紀初頭までヨーロッパ本土など他の多くの国々に広まったようです。いわば、アメリカの影響によって、ハロウィンがヨーロッパに再認識されたようです。

異教への気付き

こうして、ハロウィンを見ていきますと、キリスト教とは異なる、異教から受け継いできたことが濃厚であることがわかります。なぜ、異教の習慣が取り入れられたのかといいますと、そこには、ローマからキリスト教が伝わっていないヨーロッパへの福音宣教の困難さが伝わってくるのがわかります。ローマ・カトリックから遣わされた宣教師たちが、宣教された国で福音を伝える際に、土着の信仰から棄教させるため、その地において福音が根付くように折衷案として、その地域で行われた祭りをキリスト教化するという試みが行われました。その代表例に挙げられるのは、クリスマスです。クリスマスは、イエス・キリストの御降誕を祝う行事として世界に定着していますが、イエス・キリストが冬に生まれたという事実はなく、むしろ春から夏であると言われております。ヨーロッパにおいてキリスト教を伝えるにあたり、その土地で行われていた祝日をキリスト教に当てはめるということの一環としてクリスマスが設けられた経緯と同様に、ハロウィンも土着の祭であったサムハイン祭と、聖人を追悼する万聖節とミックスさせて信仰の定着を進めていたということがありました。
ところが、こうした妥協をもとに定着を図ったことで、教義が人々に伝播することよりも、かつての異教の精神性は残されたままになったことが、今に至るハロウィンの問題ともなりました。

ハロウィンは悪霊につながるとして危険視するクリスチャンもいることでしょう。たしかに、霊的な影響は少なくありません。日本において、ハロウィンはイベントと化し、大人から子どもまで楽しく遊ぶ機会として好意的に捉えている人が多いかと思います。しかし、そこに潜む異教の影響を知ると、本当に参加して良いものか?と思わずにはいられません。

サムハイン祭は夏の収穫をお祝いするお祭りであったようですが、人間や動物の生贄を神に捧げるという習慣があったケルト社会では、このサムハイン祭の日に火を焚いて生贄をそこに捧げるということが行われていたという話も残っています。日本では、形式だけを真似て、その本質を知ろうとしない傾向がありますが、ハロウィン自体は、霊的にかなりおどろおどろしい部分をもった祭りであったことがうかがえます。

ゲール族をはじめ古代ケルト人同様、古代イスラエルの周辺諸国は、万象に神とし、特にカナン人の間では、バアル神を代表とする神々は道徳的な性格を持たずに野蛮な形をとり、幼児犠牲や神殿売春、蛇礼拝などを行うに至りました。そうした影響は、ユダヤ人にも強く受け、最終的には、イスラエル王国の分裂、イスラエル王国の滅亡、南ユダ王国滅亡へと招きました。そこにあったのは、慣れでした。カナン人たちの慣習に慣れ、そちらのほうが良いのではないかという油断でした。表面的な楽しみや、愉快さに慣れ親しむこと、それが、悪魔の奸計であることを忘れてしまうことは危険です。ことさら、子供への信仰の継承についてもこうした影響を考え、伝えていかなければならない義務が親にはあります。

ハロウィンのように、ある意味異教との関わりがわかりやすい事例ならまだしも、もっと難しいのは、自分たちが異教の環境下に生かされていることへの意識です。イザヤ・ベンダサンは言いましたが、日本人クリスチャンを日本教キリスト派と呼びました。私たちは、クリスチャンであったといっても、私たち自身が、社会や家庭生活のあらゆる領域で異教的要素を多分に秘めていることを認めざるをえないのです。普段何気なく語っている、していることであっても、異教の影響が色濃いものがあります。だからといって、すべてを禁じるということは無理ですが、何においてもそうですが、調べるということは重要です。クリスチャンでしたら、聖書のことばに照らし合わせて考えるという習慣はとても大事です。ところが、聖書にしても、日本語に合わせるということで、本来の意味からずれている場合も多々見受けられます。本文を読むのは難しいとしても、英語の聖書ではどういう意味かを調べるのも大事なことでしょう。惰性に流され、流行に乗り、意味を考えることなく生きるのは、私たちにはふさわしくありません。そうした生き方が身についていると危険です。私たちが立ち返る場所は、つねに聖書のことばにあります。気づかない部分においても私たちは、より聖霊の導きにゆだねて、敏感にならなくてはならないと思わされるものです。

参考文献


  • 新聖書辞典 いのちのことば社

  • 新キリスト教 いのちのことば社

  • フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)

  • コトバンク