ペテロ第一の手紙 2章15節 神のみこころとはなにか
Daniel RecheによるPixabayからの画像
頽廃が普遍の価値
古代ローマ世界における頽廃的な生活様式と、それに対するキリスト教の革新的な倫理観の対比は、単に個人の生き方の問題だけでなく、社会全体の構造と密接に関わっていました。
まず、当時のローマ帝国の社会構造について補足しますと、厳格な階級制度が存在していました。上流階級の市民は、奴隷制度によって支えられた豊かな生活を享受していました。この構造が、彼らの快楽追求型の生活様式を可能にしていたのです。一方で、下層階級や奴隷たちの生活は過酷なものでした。このような極端な格差社会において、上流階級の人々が自己の欲望を満たすことに躊躇はありませんでした。
また、ローマの宗教についても触れておく必要があります。多神教を基盤とするローマの宗教は、国家の繁栄と個人の成功を結びつけるものでした。神々を敬い、適切な儀式を行うことで、個人の幸福と帝国の安泰が約束されると信じられていました。この文脈において、個人の快楽追求は神々の恩恵の表れとも解釈されていたのです。
こうした社会背景の中で、キリスト教の教えは実に革命的でした。キリスト教は、階級や身分に関係なく、すべての人間が神の前に平等であるという思想を提示しました。これは、当時の社会構造を根本から覆す可能性を秘めていました。
さらに、キリスト教の唯一神信仰は、ローマの多神教と真っ向から対立するものでした。キリスト教徒たちが皇帝礼拝を拒否したことは、彼らが国家に対する不忠誠者とみなされる一因となりました。
キリスト教の倫理観は、単に個人の道徳的な生き方を示すだけでなく、社会全体の価値観の転換を促すものでした。「隣人を自分のように愛しなさい」という教えは、奴隷制度や階級制度に基づく社会では実現困難な理想でした。しかし、初期のキリスト教共同体では、この理想を実践しようとする試みがなされました。
また、キリスト教は当時のジェンダー観にも大きな影響を与えました。女性たちが教会の中で重要な役割を果たし、男性と同様に霊的な価値を認められたことは、当時の社会規範からすれば画期的なことでした。
このように、キリスト教の教えは、単に個人の生活態度の変革を促すだけでなく、社会全体の構造や価値観を根本から問い直すものでした。それゆえに、ローマ帝国の支配者たちにとって、キリスト教の急速な広がりは脅威と映ったのです。
しかし、迫害にもかかわらず、キリスト教徒たちの生き方や教会の在り方が、多くの人々の心を捉えていきました。彼らの示す愛と寛容、互いの尊重は、格差と抑圧の社会に生きる人々にとって、新しい希望となったのです。
最終的に、コンスタンティヌス帝によるキリスト教公認(313年)を経て、テオドシウス1世によるキリスト教国教化(380年)に至るまでの過程は、ローマ社会全体の価値観の大転換を意味していました。この変化は、西洋文明の基礎を形作ることとなり、その影響は現代にまで及んでいるのです。
このように、古代ローマにおけるキリスト教の台頭は、単なる新しい宗教の出現ではなく、社会全体を変革する大きな思想的・文化的革命だったと言えましょう。
古代ローマ世界の価値観と、それに対するキリスト教の教えの対比は、人類の倫理観の大きな転換点を示しています。使徒パウロがガラテヤ書で述べた「肉の行い」は、当時のローマ社会では日常的な生活様式でした。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興といった行為は、ローマ世界ではごく普通に行われていた社会生活の基準だったのです。
特に注目すべきは、性的な放縦さが日常的に見られたことです。現代の私たちの基準からすれば、下品で情欲に満ちた世界だと思われるような行動が、当時の地中海世界では普遍的な生き方でした。このことは、文献研究やポンペイ遺跡の発掘調査からも裏付けられています。壁画や遺物から、私たちが生きている時代の倫理観とは大きく異なる文化のもとで人々が生活していたことが明らかになっています。
では、なぜ古代ローマの人々はこのような生き方を選んだのでしょうか。その背景には、当時の過酷な生活環境があります。人々の平均寿命が30歳前後という短い時代において、「今を生きる」という意識が強く、人生を謳歌し、快楽を追求することが善とされていました。彼らにとって、飲んで楽しんで人生を満喫することが人生の目的でした。
このような価値観のもと、人々は快楽追求・自己中心の人生に疑問を持つことはありませんでした。彼らは、これこそが人生で受けるべき分であると考えていたのです。そのため、「淫行の何がおかしいのか」「遊興の何が問題なのか」と、これらの行為を当然の権利だと捉えていたようです。
こうした社会背景において、パウロを始めとするキリスト教の教えは、まさに革命的でした。パウロが快楽中心・自己中心的な人生を善とする考えを批判し始めるまで、人々はそこに何の問題も感じていなかったのです。キリスト教は、このローマ世界に一石を投じ、全く新しい価値観をもたらしました。
ガラテヤ書の続く節で、パウロは「御霊の実」について語っています。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制といった徳は、当時のローマ社会の価値観とは真逆のものでした。自己の欲望追求を善とするローマ世界の基準に対し、クリスチャンたちは全く異なる価値観を示したのです。
この価値観の転換の中心にあったのが、イエス・キリストの十字架でした。イエスは、自分の快楽や栄誉を追求するのではなく、それらすべてを十字架上に捨て去り、自らを人々の救いのために捧げました。これは、当時の社会規範からすれば、驚くべき生き方でした。
イエスの教えは、「受けるよりも与えるほうが幸いである」という言葉に集約されます。これは、自己中心的な快楽主義とは正反対の価値観を示しています。弱い者を助け、自己犠牲を厭わない生き方は、当時の社会では革新的なものでした。
このようなキリスト教の教えは、ローマ社会に大きな衝撃を与えました。それは単なる新しい宗教の出現ではなく、社会の根本的な価値観を覆す思想革命でした。自己中心的な快楽主義から、他者を思いやり、愛と寛容を重んじる新しい生き方への転換を促すものだったのです。
この価値観の転換は、当時の人々にとっては困難を伴うものでした。「自分の肉を、さまざまの情欲や欲望とともに、十字架につけてしまう」という表現は、それまでの生き方を根本から変える必要があることを示しています。しかし、この新しい生き方は、多くの人々の心に響き、やがて社会全体を変革していく原動力となったのです。
古代ローマにおけるキリスト教の台頭は、人類の倫理観や価値観の大きな転換点となりました。それは現代にも通じる普遍的な教えを含んでおり、自己中心的な生き方から、愛と寛容に基づく生き方への移行を促す重要な思想的革命だったと言えるでしょう。
私たちのためにすべてをなげうったイエス
イエス・キリストは、この世で受けるべき幸福や快楽、権利といったものすべてを捨て去り、他者のために生きるという生き方を選択しました。『受けるよりも与えるほうが幸いである』というイエスの言葉は、単なる教えではなく、彼自身の人生そのものを表現したものでした。この自己犠牲的な生き方こそが、私たち人類の救いをもたらし、永遠のいのち、神の子とされる権利、罪の赦しという神の約束を実現させたのです。
一方、当時のローマ世界は、まさにこの価値観とは正反対の生き方を是としていました。『与えるよりも受けるほうが幸いである』という考え方が社会の規範となっており、それはパウロがガラテヤ書で指摘した『肉の行い』そのものでした。不品行、汚れ、好色、偶像礼拝、魔術、敵意、争い、そねみ、憤り、党派心、分裂、分派、ねたみ、酩酊、遊興といった行為が日常的に行われ、むしろそれらが「善き生活」とされていたのです。
このような背景において、イエス・キリストの教えは、ローマ世界の常識を完全に覆すものでした。快楽や自己追求を生きがいとするローマ人にとって、自制や遊興を否定するキリスト教の教えは、理解しがたく、時に脅威とさえ感じられたでしょう。そのため、キリスト教に対する反発が起こるのは必然的な流れだったと言えます。
初期のクリスチャンたちは、このような敵対的な環境の中で、キリストに倣う生き方を選択しました。彼らの生き方は、ローマの慣習とは相容れないものであり、社会からの分離を意味しました。この世との分離、すなわちローマの価値観や生活様式を拒絶する姿勢は、彼らの信仰の証しであり、同時に彼らのアイデンティティを形成する重要な要素でもありました。
しかし、この「分離」は単なる社会からの逃避ではありませんでした。第一ペテロ2:15にあるように、「善を行って、愚かな人々の無知の口を封じること」が神のみこころだったのです。つまり、クリスチャンたちは社会と完全に断絶するのではなく、むしろ善行を通じて社会に影響を与えることを求められていました。
この姿勢は、現代のクリスチャンにも重要な示唆を与えています。社会の価値観と対立する場面があっても、単に批判や拒絶をするのではなく、善行を通じて社会に貢献し、キリストの愛を実践的に示すことが求められているのです。
同時に、この初期クリスチャンたちの姿勢は、現代社会にも重要な問いを投げかけています。私たちは何を「幸い」とし、何を人生の目的とするのか。自己中心的な快楽追求と、他者のための自己犠牲的な生き方、どちらがより豊かで意味のある人生をもたらすのか。これらの問いは、2000年以上の時を経た今も、私たちに深い洞察を促しているのです。
イエス・キリストとその教えに従った初期クリスチャンたちの生き方は、単に宗教的な教義にとどまらず、人間の生き方や社会のあり方に根本的な変革をもたらす力を持っていました。そして、その影響は現代にまで及んでいるのです。私たちは今一度、この革命的な教えの本質を見つめ直し、現代社会においてどのように実践していくべきかを真剣に考える必要があるでしょう。
神のみこころ
「神のみこころ」(ト・セレマ・トゥー・セオー)というギリシャ語の表現には、日本語や英語では十分に伝えきれない豊かな意味が込められています。この言葉の響きには、神の意志の深遠さと、それを理解し従うことの畏敬さが感じられます。
多くのクリスチャン、特に信仰を持ち始めたばかりの人々にとって、「みこころ」という概念は捉えどころのないものに感じられることがあります。それは、この言葉が単なる具体的な指示や命令以上の、神の全体的な計画や意図を含んでいるからです。先輩クリスチャンでさえ、この言葉の意味を明確に説明することに苦心することがあるのは、その奥深さゆえでしょう。
しかし、ここで使徒ペテロは、「みこころ」の一つの具体的な現れを示しています。それは、クリスチャンが「善を行うこと」です。この 単純にして深深い真理は、神のみこころを理解する上で重要な鍵となります。
ここで重要なのは、ペテロが語る「善を行うこと」が、当時のローマ世界で一般的に理解されていた「善」とは本質的に異なるという点です。これは単なる文化の違いではなく、生き方の根本的な違いを示しています。
異邦人の善:肉にある生き方 ⇒ 自己追求
ローマ世界における「善」は、主に自己の快楽や利益の追求に基づいていました。これは「肉にある生き方」と呼ばれ、個人の欲望や社会的地位の向上を最優先するものでした。この価値観のもとでは、他者への配慮よりも自己の満足が重視されました。
クリスチャンの善:御霊にある生き方 ⇒ 神のみこころの追求
対照的に、クリスチャンの「善」は、神のみこころを追求し、それに従うことを意味します。これは「御霊にある生き方」と呼ばれ、自己中心的な欲求を超えて、神の愛と他者への奉仕を中心に据えるものです。この生き方は、イエス・キリストの模範に倣い、自己犠牲的な愛を実践することを要求します。
この違いは、単なる行動の違いではなく、人生の目的と価値観の根本的な相違を示しています。クリスチャンにとって、「善を行うこと」は、神の性質を反映し、神の愛を世界に示す方法となります。それは、自己満足のためではなく、神の栄光と他者の益のためになされるのです。
さらに、ペテロが「善を行って、愚かな人々の無知の口を封じること」と述べているのは注目に値します。これは、クリスチャンの生き方が単に個人的な信仰の表現にとどまらず、社会に対する強力な証しとなることを示しています。善行を通じて、クリスチャンはキリストの教えの真実性と力を実証的に示すことができるのです。
この「みこころ」の理解は、現代のクリスチャンにも重要な指針を与えています。私たちは日々の生活の中で、「神のみこころは何か」と問い続け、それに従って生きることを求められています。それは時に、社会の主流な価値観や自己の欲求と対立することもあるでしょう。しかし、そのような時こそ、クリスチャンの信仰と「善を行う」決意が試されるのです。
結論として、「神のみこころ」を理解し、それに従って生きることは、クリスチャンの生涯にわたる挑戦であり、同時に特権でもあります。それは単なる規則の遵守ではなく、神との深い関係の中で、神の性質を反映する生き方を選択することを意味します。この生き方こそが、初期のクリスチャンたちがローマ世界に革命的な変化をもたらしたように、現代社会においても真の変革をもたらす力となるのです。
みこころとは何か?
「みこころ」の具体的な現れとして、ガラテヤ書5:22に記された「御霊の実」が挙げられています。愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制という特質は、神の性質を反映するものであり、クリスチャンの生き方の指標となります。しかし、これらの特質の根源にあるのが「キリストの十字架」であることは極めて重要です。十字架は、自己犠牲的な愛と贖いの象徴であり、クリスチャンの生き方の中心に位置づけられるべきものです。
キリストの十字架を受け入れ、それに倣って生きるクリスチャンたちは、根本的な変革を経験します。この変革は、単なる外面的な行動の変化ではなく、内面から湧き出る新しい生き方への転換を意味します。それは「肉にある生き方」から「御霊にある生き方」への移行であり、この変化が彼らの品行や倫理観を高め、周囲の社会に対して際立った存在となることを可能にしたのです。
ここで強調されている「分離」の概念は、クリスチャンの生き方において極めて重要です。これは世俗的な価値観や基準から距離を置き、神の基準に従って生きることを意味します。しかし、この「分離」は世を捨てることではなく、むしろ世の中にあって神の基準を体現し、それによって世に影響を与えることを意味します。マタイの福音書5:13-14にある「地の塩、世の光」というイエスの言葉は、まさにこの生き方を表現しています。
「善を行う」(ἀγαθοποιοῦντας、アガソポイウーンタス)という言葉の深い意味も注目に値します。これは単に「良いことをする」という表面的な意味を超えて、「誰かに恩恵を与える」「助けになる」という積極的な行動を含んでいます。さらに、この「善」は人間の努力だけによるものではなく、聖霊の働きによって可能になるものであることが強調されています。
クリスチャンの生き方において、世との「戦い」は避けられないものかもしれません。世の価値観と神の基準との間には常に緊張関係があり、時にはつらい選択を迫られることもあるでしょう。しかし、この「戦い」は単なる対立や否定ではなく、むしろ世に対する愛と関心から生じるものであるべきです。
最後に、「善を行う」ことが単に個人の意志の強さによるものではないという点は非常に重要です。クリスチャンの生き方は、自己努力の結果ではなく、聖霊の導きと力によって可能になります。ここでの課題は、自分の意志の弱さではなく、むしろ強すぎる自我かもしれません。聖霊に自分の主導権を委ねること、つまり神の導きに従順であることが、真の「善」を行う鍵となります。
この理解は、クリスチャンの生き方に大きな慰めと励ましをもたらします。私たちは完璧な存在ではありませんが、聖霊の力によって、神のみこころに沿った生き方を実践することができるのです。日々の選択において、自分の欲求や世の基準ではなく、神の基準を求め、聖霊の導きに従うことで、私たちは真の意味で「善を行う」者となることができるのです。
このように、「神のみこころ」を追求し、「善を行う」生き方は、クリスチャンにとって単なる道徳的な指針以上のものです。それは、神との深い関係の中で、聖霊の力によって可能となる、変革的で意味深い人生の在り方なのです。この生き方を通じて、私たちは世に対して真の「塩」であり「光」となり、神の愛と真理を体現する存在となることができるのです。
適 用
自己追求から神の追求へ:
当時のローマ帝国の倫理観は自己の欲望の追求を善としましたが、クリスチャンは神のみこころの追求を善としました。これは、自分自身の欲望や快楽を追求するのではなく、神の意志や目的を追求する生き方を意味します。日常生活においても、自分の欲望や快楽を追求するのではなく、神の意志を追求する行動をとることを心がけましょう。世の基準から神の基準へ
世の基準と神の基準はしばしば異なります。世が許容していることであっても、それが神の望むことであるとは限りません。日常生活においても、行動をとる前には、その行動が神の望むことであるかどうかを考え、神の基準に従うことを選びましょう。自我の抑制と御霊の導きを求めましょう
自我が強いと、神の御霊に従って歩むことは難しくなります。自我を抑制し、神の御霊に自分の主導権を委ねることが重要です。日常生活においても、自分の欲望や意志を抑制し、神の御霊の導きに従うことを心がけましょう。
今回は、ローマ帝国の倫理観とキリスト教の倫理観の違いを理解し、それを日常生活に適用するためのものです。神のみこころを追求し、神の基準に従い、神の御霊の導きに従うことで、真の「善」を行うことができるでしょう。これが、私たちが歩むべき道です。神のみこころを追求し続けることを心がけてください。神の恵みがあなたと共にありますように。
ギリシャ語本文
ὅτι οὕτως ἐστὶν τὸ θέλημα τοῦ θεοῦ, ἀγαθοποιοῦντας φιμοῦν τὴν τῶν ἀφρόνων ἀνθρώπων ἀγνωσίαν: ホティ フートス エスティン ト セレマ トゥー セオー、アガソポイウーンタス フィムーン テーン トーン アフロノーン アンスローポーン アグノーシアン
聖書対訳
というのは、善を行って、愚かな人々の無知の口を封じることは、神のみこころだからです。 新改訳改訂第3版 第一ペテロ 2:15
それは、正しいことをすることによって、愚かな人の無知を沈黙させることができるという神の意志です。(NASB)
ギリシャ語単語
皆様のサポートに心から感謝します。信仰と福祉の架け橋として、障がい者支援や高齢者介護の現場で得た経験を活かし、希望の光を灯す活動を続けています。あなたの支えが、この使命をさらに広げる力となります。共に、より良い社会を築いていきましょう。