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納得できないことがあっても ペテロ第一の手紙 3章12節

主の目は義人の上に注がれ、主の耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし主の顔は、悪を行う者に立ち向かう。」
Ⅰペテロ3:12

ὅτι ὀφθαλμοὶ κυρίου ἐπὶ δικαίους καὶ ὦτα αὐτοῦ εἰς δέησιν αὐτῶν, πρόσωπον δὲ κυρίου ἐπὶ ποιοῦντας κακά.

2022年2月6日 礼拝

■ はじめに

前回、前々回とペテロ第一の手紙3章10-11節を見てきました。そこには、虐げられた人々へのパウロの忠告を格言にしたものであると語りました。
虐げられ続けた人々は、心に復讐をいだく、あるいは、弱い者にイジメとなって表面化するということがあることをペテロは暗示した上で、クリスチャンは、悪意に対しては、報復の一つの手段として悪口を抑えること、悪口からの解放を10節で語りました。

さらに、11節においては、平和を求めることを諭します。その手段として、悪から遠ざかること、避けられない悪に対しては身をかがめるということを示しました。そのいずれにあっても、平和を求めるために必要なことであり、無用な対立を避けるということを勧めるものでした。

10節と11節は、そのいずれもが、直接的には、経済的に自立できない、庇護されなければならない奴隷たちや妻といった弱者にあったクリスチャンたちへのアドバイスでありました。とはいいましても、奴隷でもない現代のクリスチャンにとっても傾聴すべき内容であります。

ペテロは、当時の古代ローマの社会制度において、悪に対して戦うことを強いるような言葉ではなく、サタンが支配するこの世の不条理に対して、賢明かつ具体的なアドバイスを与えてくれました。今回は、ペテロの格言のまとめです。
どのような言葉で締めくくるのかを見ていきましょう。

■ 正しい人に

まずはじめに、ギリシャ語本文を見ますと、ὅτι ὀφθαλμοὶ κυρίου ἐπὶ δικαίους(ホティ・オフサルモイ・キュリウー・エピ・ディカイウース)とあります。直訳しますと『なぜなら、主の目は正しい人の上にある』という意味になります。

ここで、ὅτι(ホティ)という言葉がありますが、10節11節の言葉を受けての結論を述べるということになります。

Ⅰペテロ3:10 「いのちを愛し、幸いな日々を過ごしたいと思う者は、舌を押さえて悪を言わず、くちびるを閉ざして偽りを語らず、
3:11 悪から遠ざかって善を行い、平和を求めてこれを追い求めよ。

【新改訳改訂第3版】いのちのことば社

これらの結論は、『主の目は正しい人の上にある』ということです。主の目は常に正しい人の上にあるゆえに、10節11節の言葉を行う者になりなさいというのがペテロの言うことです。
単にヒューマニズムや哲学の結論ではないのです。神の目が注がれているから、私たちは、善い行いに進むべきであるということなのです。

私たちの行動には、常に主の目が注がれているという裏付けを元に生きることなのです。その眼差しは、監視であるとか、見張っているというものではありません。神が私の行動を見張っているから、ビクビクしながら生きるというようなものではありません。なぜそう言えるのでしょうか。

ディカイオス

δικαίους(ディカイウース)という言葉を見てください。直訳では『義人たち』ということです。すなわち、正しい人たちという意味です。
このディカイウース、原型はδίκαιος(ディカイオス)ですが、単に正しい人というものではありません。聖書が伝えるディカイオスは、「神に認められた」(J. セイヤー)、「神の目には正しい」(ソウター)という意味です。

ディカイオスとは、神に対して従順を伴った信仰に生きる信者のことを言います。それは継続的に神が認め続けるのです。ここで、神は、私たちを通して生きておられるので、 私たちの行動を神が正しいと認める行動に一致させ てくださるのです。(1ヨハネ 4:17参照)。

The Dictionary Bible  http://thediscoverybible.com/

ディカイオスとは、義人としばしば訳されますが、それは、正しい行いをする人ではなく、信仰によって生きる人という意味です。内容を深めると、どういう人がディカイオスというのかといえば、御霊(Soul)によって生きる人ということになります。

善い行いをする人がディカイオスではありません。心に野心や不道徳な思いを持ったままで善い行いをする人はたくさんいます。
人に認められるために徳をおこなう人は、どの世界にもいます。他人に評価されるために、自分を高めるために正しく善い行いをする人をディカイオスというのではないのです。御霊の一新によって造り変えられた人をディカイオスというのです。つまり、クリスチャンです。

御言葉(Bible)と御霊(Soul)によって生きる

 クリスチャンは、新しく生まれた人と形容されますが、救われる以前は、自分の行動を律しているのは自分でした。しかし、キリストを信じることで、御霊を宿す者へと変えられ、御霊の声を聴き、神の御言葉によって自分を律する人へと変えられました。ところが、御霊の細き御声を聞かず、肉の思いでもって物事を判断し、主の御心よりも勝ち負けにこだわり、信仰は勝利とばかり、この世での勝負に全力を傾ける人がおりますが、そうではありません。クリスチャンはキリストの十字架と復活により、この世に勝利していますから、ただ、御言葉と御霊の御声に聞き従うのみなのです。

Ⅰヨハネ 5:4 なぜなら、神によって生まれた者はみな、世に勝つからです。私たちの信仰、これこそ、世に打ち勝った勝利です。

【新改訳改訂第3版】いのちのことば社

主の目が注がれている

ὅτι ὀφθαλμοὶ κυρίου ἐπὶ δικαίους(ホティ・オフサルモイ・キュリウー・エピ・ディカイウース)
ὀφθαλμοὶ(オフサルモイ)という言葉がありますが、原型はὀφθαλμός(オフサルモス)『目 』という意味です。複数形ですから、主は、両目で私たちを見ているということです。しかも、その目は、監視ではないこと、イエスの十字架によって救われた子どもたちとして、暖かく愛の眼差しで私たちを見ているということです。オフサルモスは、比喩的に心の目という意味や知る能力という意味を同時に持っていることから、私たちに対する視点は、理解しようとする眼差しであるということです。

社会的には、奴隷であったり、人間として認められない立場にある人々であったとしても、神の視線は、神の子どもとして見てくださっているということでした。同様に、読者のなかにも疎外感を味わっている人、対立の嵐のなかで孤立している人がいると思います。そうした不利な立場に置かれた人の心は冷たく、つらい気持ちにあると想像します。しかし、覚えていただきたいのです。主は、あなたを見つめ、あなたを理解してくださっているということです。

一生懸命になって傾聴される主

主は、私たちを見つめるだけでなく、『主の耳は彼らの祈りに傾けられる』と新改訳にはあります。
καὶ ὦτα αὐτοῦ εἰς δέησιν αὐτῶν,(カイ・ホータ・ハウトゥ・エイス・デエーシン・ハウトーン)直訳:さらに、主の両耳は彼らの請願を聞く

という意味です。ここでは、主の耳と訳されていますが、両耳です。片方の耳で聴いているのはありません。 ὦτα (ホータ)の原型は、οὖς(ウース)ですが、それは、耳や聴覚という意味になりますが、比喩的に心で知覚する能力、理解し知る能力という意味も持ちます。ですから、主は、私たちの祈りを心で受け止めているという意味なのです。
聴いても心あらずということはありません。主は、しっかりと両耳で受け止めておられるお方だということです。

では、何を聴いくださっているのかといえば、それは、彼らの祈りです。彼らの祈りは、悪意をもって虐げられている人々の祈りでした。単なる祈りではありません。祈りと訳されている、δέησιν(デエーシン)の原型δέησις(デオシス)は、厳密には、緊急性のある深い個人的な請願を意味します。ですから、彼らが虐待に遭う時、必死になって虐待から守られるように祈ることを示唆しています。
主は、そうした祈りを一生懸命に聴いている姿がこの言葉から想像できます。
危機的な状況にあっても、祈りは無効ではありません。危機的な状況にこそ、神は必死になって聴いてくださっているということです。ですから、祈りは諦めないでください。神は私たちの祈りの言葉を知っておられ、心に留められているということを覚えてください。

■ 悪に立ち向かう主

 弱い立場にあったクリスチャンたちは、主人からの悪意や虐待に悩まされ続けており、そうした虐待にたいして主に請願の祈りを捧げていたことでしょう。こうした彼らの声に対して、主は、黙ってはいないということです。
新改訳では『主の顔は、悪を行う者に立ち向かう。』とあります。
ここで重要な言葉は、
πρόσωπον δὲ κυρίου ἐπὶ ποιοῦντας κακά.(プロソーポン・デ・キュリウー・エピ・ポイウーンタス・カカ)の中のἐπὶ(エピ)にあります。英語ではagainstと訳しておりますが、前置詞エピの次に、ポイウーンタスという言葉が続きます。原型はポイエオー(make等の意)で、ポイエオーの対格が使われています。エピ+対格になると、
「結果として敵意の観念(すなわち、...に対して)」を表す意味になります。

つまり、聖徒たちに対する悪意は、神の怒りを買うということになります。ローマ書には、このようにあります。

ロマ 12:19 愛する人たち。自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。「復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる。」

【新改訳改訂第3版】いのちのことば社

以上のように、ペテロは、悪に対しては、神の怒りがあるということ、復讐は自分でするのではなく、神にお任せするということをこの格言のなかでも強調することです。

私たちは、自分で仕返しをしてやろうとか、仕返しして溜飲を下げたいという誘惑に駆られるものですが、それは神の働きを損なうばかりか、神に喜ばれないことということです。

悪の被害に対する私たちの対応は?

 現代の感覚からすれば、奴隷でもないし、ペテロの格言は時代に合わないと感じる人もいるかも知れません。現在の私たちは正式な手続きでもって、悪に対して告発し、しかるべき人に相談し解決を図るべきでしょう。
 
 しかし、そうせず、悪に対して正しい対応もせず、恨む、仕返しを自分でするというのは間違いです。相手も自分と同じ罪人であって、その人も罪から離れ、改心していただきたいという愛の気持ちをもって悪に対して臨んでいくことが神の御心であることを覚えてください。

 まずは、悩んでいる方がいるならば、相談してください。解決の道はまずは、神に相談すること、信頼できる牧師や教会の人に相談していくこと、これが私たちのなすべきことです。神は、必ず悪に対してコミット(ポイエオー)してくださいます。私もあなたの力になります。祈ります。

■ Translation 対訳

新改訳2017 Ⅰペテ 3:12 主の目は正しい人たちの上にあり、主の耳は彼らの叫びに傾けられる。しかし主の顔は、悪をなす者どもに敵対する。」

新共同訳 一ペト 3:12 主の目は正しい者に注がれ、/主の耳は彼らの祈りに傾けられる。主の顔は悪事を働く者に対して向けられる。」

口語訳 一ペテ 3:12 主の目は義人たちに注がれ、/主の耳は彼らの祈にかたむく。しかし主の御顔は、悪を行う者に対して向かう」。

NKJV 1Pe 3:12 For the eyes of the Lord are on the righteous,And His ears are open to their prayers;But the face of the Lord is against those who do evil."
主の目は正しい者の上にあり、主の耳は彼らの祈りに開かれているが、主の顔は悪を行う者に向かっている。

TEV 1Pe 3:12 For the Lord watches over the righteous /and listens to their prayers; /but he opposes those who do evil."
主は正しい者を見守り、その祈りに耳を傾け、悪を行う者に反対されるからです」。

NASB "FOR THE EYES OF THE LORD ARE TOWARD THE RIGHTEOUS, AND HIS EARS ATTEND TO THEIR PRAYER, BUT THE FACE OF THE LORD IS AGAINST THOSE WHO DO EVIL."
"主の目は正しい者に向けられ、その耳は彼らの祈りに傾けられる。しかし、主の顔は悪を行う者に向けられる。"

KJV  For the eyes of the Lord are over the righteous, and his ears are open unto their prayers: but the face of the Lord is against them that do evil.
主の目は正しい者の上にあり、その耳は彼らの祈りに向かって開かれている。しかし、主の顔は悪いことをする者に向かっているのだ。