痛みは悪いものではない───危機の時代にあって Ⅰペテロ4章17節
2023年2月19日 礼拝
Ⅰペテロの手紙
4:17 なぜなら、さばきが神の家から始まる時が来ているからです。さばきが、まず私たちから始まるのだとしたら、神の福音に従わない人たちの終わりは、どうなることでしょう。
ὅτι [ὁ] καιρὸς τοῦ ἄρξασθαι τὸ κρίμα ἀπὸ τοῦ οἴκου τοῦ θεοῦ: εἰ δὲ πρῶτον ἀφ' ἡμῶν, τί τὸ τέλος τῶν ἀπειθούντων τῷ τοῦ θεοῦ εὐαγγελίῳ;
はじめに
ペテロが活躍した紀元1世紀の古代ローマでは、クリスチャンという呼び名は蔑称であったということを前回語りました。
クリスチャンになるということは、ある意味嘲笑されるということもあります。ペテロは、こうしたことを踏まえながら、当時の教会に対する迫害をさばきであるととらえていました。なぜ、迫害をさばきとしたのでしょうか。そこに絞って今回のみことばを見ていきたいと思います。
さばきが始まっている
迫害というさばき
ペテロは、この節ですでに『さばきが神の家から始まる時が来ている』と言います。
事実、12節を見るとわかりますように、『火の試練』────迫害がクリスチャンたちに差し迫ったものとしてとらえられていました。
私が書いた『危機の時代にあって──窮地のなかでの喜び Ⅰペテロ4章12-13節』のなかでも触れましたが、ペテロが活躍した年代には、アジヤ州(トルコ)では散発的に教会に迫害がありました。
当時のキリスト教は、クリストゥス(キリスト)信奉者と呼ばれ、ユダヤ教の分派とみなされており、認識される以前は、ユダヤ教との判別がつかなかったようです。
ところが、前回の16節での講解の中で『クリスチャン(クリスティアノス)』について語りましたが、その呼び名が蔑称としてローマ社会に定着して、ユダヤ教とキリスト教が明確に認識されるようになります。クリスチャンという存在が、一般的になり始めた頃はいつ頃かというと、AD49年以前の時期だろうと考えられます。AD49年に皇帝クラウディウスが「キリストの扇動で年中騒動を起こすユダヤ人」を首都から追放したとあります。おそらくは、AD49年以前に非一神教徒との軋轢が社会問題化していたということです。ペテロの手紙が書かれた時代には、ローマにおいても相当深刻な迫害があったことがうかがわれます。キリスト教側の資料でもエウセビオスの『教会史』で、クラウディウス帝時代にローマ市内でペテロが信仰を広めたとあり、ローマ市内にも少なからず信者が存在したと考えられています。
迷信と言われたキリスト教
ローマの文化人の多くは、ローマの多神教を否定し、伝統的な祭りや儀礼、皇帝への信仰も、宗教を理由に拒否するユダヤ教や、キリスト教といった一神教に嫌悪感を抱いていました。1世紀後半 - 2世紀の史家タキトゥスは著書『年代記』のなかで、「キリスト教徒は日頃から忌まわしい行為でローマ人等に恨み憎まれていた」「この有害極まりない迷信が、最近再び都で猖獗(しょうけつ)を極めていた」と著しています。
キリスト教が、パレスチナ半島で発生した小さな宗教団体が、ペテロの時代には、相当な影響力をもっていたことはこうした文書からもうかがいしれますが、ローマ帝国にあっては、こうしたキリスト教の発展に対して底知れない恐怖というものもあったに違いありません。
キリスト教成立から始まって、それは、迫害の歴史そのものでした。まずはユダヤ教徒からの迫害。イスラエルから散らされたクリスチャンたちは、地中海世界各地に拡大していきました。拡大するにつれて、その地域のユダヤ教徒からの迫害や地元住民との軋轢を生じるなど、信じることで安心安全をもたらすものとして信仰を持ったのではありませんでした。
ペテロは、迫害や危害を単なる試練というようにはとらえてはいませんでした。彼の迫害や試練というものは、個人的なものというよりももっと大きな視点で見ていました。それは、迫害を神に家に対するさばきの一環であるととらえていたことです。
神の家のさばきの思想
なぜなら、神の審判は近いこと、それも『神の家』から始まっているとペテロは言います。
事実、原始キリスト教の迫害の歴史を見ますときに、迫害すなわち神の審判は、キリストの十字架から始まっていたと言わざるを得ません。
信仰を持つと神の裁きがあるというのは奇異な話にも聞こえますが、こうした思想は、旧約聖書のエゼキエル書9章やマラキ書が代表的な思想です。
さらにマラキ書3:1-6、17、18を見ますと、よりその意味がわかります。
こうした旧約聖書の記事を見ていきますと、神に家に対するさばきの構図が浮かび上がってきます。それをわかりやすく要約すると下記のようになります。
旧約の神の家のさばきの預言
預言者が神の家をきよめる
罪を犯す者を神が罰する
主イエスにおける神の家のさばき
イエス・キリストが宮を清める ヨハネ2:13-22
強盗の巣にしたエルサレム神殿が崩壊する AD66年
終末期における神の家のさばき
神の家(教会)において、迫害がおこる⇒きよめ (AD64年ネロの大火が代表)
神を信じない者⇒永遠の滅び
以上のように、ペテロは旧約聖書の預言をもとに、
神の救済史から自分たちが置かれた迫害を見ていたということです。
まず、旧約期においても神の家に対するさばきの預言がなされました。
伝統的なキリスト教の理解では、AD64年-65年にこの手紙が書かれ、AD67年ペテロが殉教したと考えられておりますが、
もしかすると、AD64年のローマの大火やAD66年のエルサレム神殿崩壊を踏まえて手紙が執筆されたのではないかと筆者は憶測します。
旧約聖書における神の家のさばきの預言の成就が、まずはイエス・キリストの宮清め、AD66年のエルサレム神殿崩壊で成就したということを知っていたかもしれません。さらに、こうした旧約聖書の預言が、終末期の教会に襲いかかる迫害が、神の家へのさばきであるとして理解しています。
神の家とは、当初は神の民ユダヤ人のエルサレム神殿であると解釈されたでしょう。ところが、ユダヤ人は神の民から退けられ、ついにはイエス・キリストを信じるクリスチャンにその座を明け渡したというようように、ペテロは再定義をしています。
つまり、『神の家』とは新約の教会であり、新約の教会は、いまこうして殉教や排斥、迫害を受けていることを見ると、紛れもない神の民としての権威を継承すると解釈もできるわけです。ペテロにとっては、迫害は単なる被害ではなく、神の民としての証印でもあるということを強調していると思われます。
ペテロの手紙の中で、彼は旧約聖書の預言を引用し、神の家へのさばきを警告しています。彼は、神の家とは新約の教会であり、神の民としての権威を継承するものであると定義しています。そして、教会が迫害や排斥を受けることは、神の民としての証印でもあると述べています。
ペテロが引用するエゼキエル書22章18節の預言は、イスラエルの家が罪を犯して神から離れたことを指しています。そして、彼らは青銅、すず、鉄、鉛でできたかなかすのように、価値のないものとなってしまったと述べています。これは、神の家であるエルサレム神殿が堕落し、神に背いたイスラエル人が罰を受けることを予言しているものです。
ペテロは、この預言がイエス・キリストの宮清めやエルサレム神殿の崩壊で成就したことを知っていた可能性があります。また、彼は、終末期において教会が迫害を受けることが神の家へのさばきであるとして、旧約聖書の預言を現代に適用しています。
こうしたペテロの教えは、現代のキリスト教においても重要な意味を持っています。教会が迫害や排斥を受けたり、罪を犯したりすることは避けられないものであり、それが神の家へのさばきであるという考え方は、信仰の強化や改善につながると考えられます。
今はさばきの時
聖書は、救われることを『今は恵みの時、今は救いの日です。』と言います。たしかに、主イエス・キリストに対する信仰はこの世が与えることのできない平安をもたらしますが、その道は狭いものでもあります。
それは、決して楽して天国に向かう道ではありません。天国に至る道は狭く、試練を通して天国に向かっていく道です。箴言はこう言います。
神のもとに向かうためには、私たちに巣くう罪を除いていく歩みでもあります。その罪をきよめるのが、試練や迫害の役割です。
我々が地の塩、世の光として、神の器として用いられていくために必要なことは、試練や迫害という製錬所がいるのです。
天国への道は信仰の純度を高めていく
かつての塩作りや金属の純度を高めていくために、何度も濾され鍛えられていくという過程が必要です。私たちは神に選ばれ、今や狭い道を歩むようにされていますが、その狭い道とは、私たちのかつての罪を許容するような安楽な道でありません。罪を取り去りながら神のかたちに整えられていく道であります。自分の罪を取られていくたびに涙をこぼすこともあるでしょう。時には、痛みを覚えながら捨てる覚悟が必要とされるときもあります。しかし、それは、神の愛であるということを学び受け止めていかなければなりません。
試練や迫害というものは、ときに人を病ませてしまうようなこともあるかもしれません。しかし、神は私たちを選んでおられます。さきほど見てきたマラキ書を見ますと、
とありますように、たしかに私たちは迫害や試練を受けてはいきますが、信じていない人に対する神のさばきと比較にならないくらい大したものではないとペテロは諭します。
神のための痛み
たしかに今苦しみを受けている人がいると思います。しかし、この苦しみは決して無益なものになるのではありません。
苦しみを受けている人は感じているかもしれませんが、これは、神のために必要な痛みであるということを悟っていることでしょう。もし、そのように感じているなら、あなたは間違いなく、天国への道を歩んでいる証拠です。その痛みに感謝を込めていけること、これもクリスチャンの特権です。
私たちに試練が及んでいるということは、最後の審判が近いということでもあります。私たちは、自分たちの苦しみの解放だけを願うだけでなく、同時に、いずれは最後の審判のときに、この世での苦しみ以上の苦しみを味わわなければならない同胞のため、家族のため、友人の救いのために祈らなければならないでしょう。また、人々が最後の審判のときに裁かれないように、救い主イエス・キリストを告げ知らせていかなければならないはずです。
私たちが迫害や試練において苦しみを知るということは、のちの最後の審判の時の苦しみを予表したものでもあります。私たちが苦しんでいる痛みを知るならば、世の人に対する伝道の意味がわかるのです。