使徒の免許 Ⅱコリント3:1-6
2023年11月26日 礼拝
Ⅱコリント人への手紙3:1-6
3:1 私たちはまたもや自分を推薦しようとしているのでしょうか。それとも、ある人々のように、あなたがたにあてた推薦状とか、あなたがたの推薦状とかが、私たちに必要なのでしょうか。
3:2 私たちの推薦状はあなたがたです。それは私たちの心にしるされていて、すべての人に知られ、また読まれているのです。
3:3 あなたがたが私たちの奉仕によるキリストの手紙であり、墨によってではなく、生ける神の御霊によって書かれ、石の板にではなく、人の心の板に書かれたものであることが明らかだからです。
3:4 私たちはキリストによって、神の御前でこういう確信を持っています。
3:5 何事かを自分のしたことと考える資格が私たち自身にあるというのではありません。私たちの資格は神からのものです。
3:6 神は私たちに、新しい契約に仕える者となる資格を下さいました。文字に仕える者ではなく、御霊に仕える者です。文字は殺し、御霊は生かすからです。
1 Ἀρχόμεθα πάλιν ἑαυτοὺς συνιστάνειν; ἢ μὴ χρῄζομεν ὥς τινες συστατικῶν ἐπιστολῶν πρὸς ὑμᾶς ἢ ἐξ ὑμῶν;
2 ἡ ἐπιστολὴ ἡμῶν ὑμεῖς ἐστε, ἐγγεγραμμένη ἐν ταῖς καρδίαις ἡμῶν, γινωσκομένη καὶ ἀναγινωσκομένη ὑπὸ πάντων ἀνθρώπων·
3 φανερούμενοι ὅτι ἐστὲ ἐπιστολὴ Χριστοῦ διακονηθεῖσα ὑφ' ἡμῶν, ἐγγεγραμμένη οὐ μέλανι ἀλλὰ πνεύματι θεοῦ ζῶντος, οὐκ ἐν πλαξὶν λιθίναις ἀλλ' ἐν πλαξὶν καρδίαις σαρκίναις.
4 Πεποίθησιν δὲ τοιαύτην ἔχομεν διὰ τοῦ Χριστοῦ πρὸς τὸν θεόν.
5 οὐχ ὅτι ἀφ' ἑαυτῶν ἱκανοί ἐσμεν λογίσασθαί τι ὡς ἐξ ἑαυτῶν, ἀλλ' ἡ ἱκανότης ἡμῶν ἐκ τοῦ θεοῦ,
6 ὃς καὶ ἱκάνωσεν ἡμᾶς διακόνους καινῆς διαθήκης, οὐ γράμματος ἀλλὰ πνεύματος· τὸ γὰρ γράμμα ἀποκτέννει, τὸ δὲ πνεῦμα ζῳοποιεῖ.
タイトル画像:kartik patelによるPixabayからの画像
はじめに
パウロは自分が開拓し、建てた教会の人々から使徒でないと疑われていました。現代に直せば不信任決議案が出たようなものです。そうした場に出ていき説得しようとしても難しいことであっただろうと思うものです。パウロが使徒として認められなかった一因として、推薦状を持たなかったということがありました。日本でいえば師範が免許皆伝の巻物を持っていなかったということに匹敵するでしょう。推薦状を持たずに開拓したパウロを使徒として認めなかったコリント教会への弁明から、私たちが何を学んでいけば良いのかを考えていきます。
使徒として認められなかったパウロ
推薦状とは
3章に入りますと、まず1節に推薦状の記事が出てきます。なぜ推薦状の件なのかとも思いますが、推薦状とは、人が認められるためにかなりのウェイトを持つ代物でした。現在の就職においても推薦状があるかないかで合否が決まるということもありますし、ましてや教会において牧師を招聘するということになったときにも、推薦状が必要とされる要件でもあります。現在よりも、権威ある人の声の影響力が強い古代においてはもっとそうであったわけです。
1節を見ますとそこには『推薦状』と訳されたσυστατικῶν ἐπιστολῶν(スースタティコーン エピストーローン)があります。その『推薦状』ですが、古代の手紙は、誰かを称賛(推薦)することから始まるのが一般的でした。考古学者は、紀元前3世紀にさかのぼる個人的な手紙を研究した結果、こうした例を数多く発見しています。たとえば自由民が高い地位や職務に就いたとき、皇帝や執政官ですら、彼らの資質や能力を 証言し、推薦することが行われていました。 こうした慣習は、キリスト教徒も引き継ぎ、この習慣を初代教父の時代から続けてきました。司祭の間で、あるいは司祭から、信仰上の 『兄弟 』を教会間に推薦する手紙が数多く存在しています。(P.Alex. 29; PSI 208, 1041)」(C. Spicq, 3, 342-343)
素性の知らない人物を受け入れるにあたり、権威ある人のお墨付きを頂くというのは洋の東西、時代を超えて人間社会において必要なことでしょう。それは、現代の伝道者や牧師にも行われていることです。人を教えるために必要なライセンスとは、神学校卒業証書であるとか所定の学業を修めたという修了証書だけでなく、推薦する資格があると認められるということは常識的なことです。
現代でもそうですから、ましてやそうした推薦状が社会に強く働く古代において、随分とラジカルなことをパウロは言うなと思いますが、なぜパウロは社会の慣習を超えてまで、推薦状は不必要であると言わなければならなかったのでしょうか。
使徒であることを主張したパウロの根拠
そうした理由として、パウロを使徒として認めないという人々の中に、こうした使徒職としての推薦状を持っていないということにこだわる人たちがコリント教会に存在していたことがあります。
ところで、パウロは、以下の点において自分は『使徒』であると主張していました。以下に列記しますと次のようになります。
1. パウロは"霊的な知恵"を宣教した(1コリント2:6)
2. パウロは"教会の基礎を築いた"(1コリント3:10)、
3. パウロは使徒であるゆえに苦しみにあずかった(1コリント4:11)
4. パウロは無報酬で宣教した(1コリント9:15)
使徒であることを疑われるパウロ
こうした主張をパウロは、コリント教会に第一の手紙で繰り広げましましたが、教会はこの主張を素直に受け止めず、パウロは自画自賛し、自己推薦をしていると嘲笑したと言われております。パウロは、他の教師たちが持ってきたような、他の教会の牧師たちからの権威のある推薦状もないのに、パウロが宣教し指導するのはありえないことだと中傷したようです。
偽使徒の存在
Ⅱコリント人への手紙11:13を見ますと、ユダヤ教に基づく律法主義的な教師たちは、エルサレム教会から推薦状を持ってきて、自分たちは正式なキリスト教の教師であるとコリント教会に主張したと言われております。
初代教会において、『推薦状』は、牧師、伝道者として認められるためには重要な書状であったことが伺えます。エルサレム教会や、権威ある教会から推薦状を携えてくる伝道者は、通信手段がないこの時代、あらゆる教会で歓迎されました。
推薦状を必要としないパウロ
信徒こそが推薦状
パウロを使徒として認めない反対者らの中傷に対して、パウロは自己推薦も偽指導者たちが頼りにした教会の推薦状も必要としないと述べます。
なぜなら、パウロの宣教によって成立したコリント教会の存在自体がパウロが使徒としての権威を代弁する推薦状であるとパウロは言います。コリント教会においてパウロの宣教によって信じた信仰者の存在こそが、パウロが使徒であることの証明であるとパウロは言います。
こうしたパウロの考えは、万人祭司制を裏付ける大事な聖句といえます。
コリント教会のクリスチャンの存在ははパウロが使徒であることの最高の推薦状であり、すべての人に周知の推薦状であるということです。ですから、わざわざ推薦状なんかいらないよというのがパウロの主張です。パウロは、書状ではなく、実力で示せと言わんばかりです。
新しい契約に仕えるパウロ
このように信徒が推薦状であるからこそ、キリスト・イエスが全人類の救いのためにもたらした「新しい契約」の実現に仕える使徒にふさわしいのです。旧約聖書に約束されていた「新しい契約」は、モーセがシナイ山に登って与えられた十戒(シナイ契約)のように石の板(出エジプト記24:12)に書かれるものではありません。
新しい契約は、石の板ではなく人の心に直接書かれるからです。(エレミヤ書31:33)
そうしたことは、いつ起こるのでしょうか。それは神の子イエス・キリストが罪からの救い主であり、イエスを主と信じたときに起こることです。
その時、人の心は聖霊によって、主イエス・キリストを信じようとしない固い石の心から、柔らかい肉のような心に変えられます。(エゼキエル書11:19)
キリストは使徒パウロの宣教の働きを通して、聖霊により、コリントの人々の心を柔らかい肉の心にして下さり、コリントの人々の心に「新しい契約」つまり、福音を彼らの心に書き記しました。そうした、神の一連の働きを媒介したパウロの救霊の働きによって救われた人々がいるということが、使徒であることの推薦状に他なりません。
使徒職は神からのもの
パウロは、こうした神の働きをパウロ自身の功績によるものではないと言いきります。彼は確信して言いますが、伝道の祝福は自分の実力や能力、功績ではないとします。あくまでも、使徒としての資格は、自分で決めたことでもない、また、人が認めたことでもない、それは神から来るものであるということです。
神は「新しい契約」に仕える使徒としてパウロを選ばれました。古い契約である十戒(シナイ契約)は文字で記された外側からの規制でした。
しかし、心が変えられることのなかった人は、神が守りなさいと言ったところで、このルールを守ることすらできなかったのです。むしろ、ルールを守れない人をなぜ守れないと責め立て、よりその罪を増すに至りました。
こうして十戒を守ることができないすべての人は、律法によって死罪を宣言されるよりほかなかったのです。(ローマ7:5-25)
こうした、人間の実状をあわれんだ神は、人間に対して神の子イエス・キリストをこの地上に送り、彼を信じることにより、「新しい契約」を結ばせてくださいました。その契約により、人に直接聖霊が働きかけ、信じる人々の心に書き付けて下さるという奇跡が起こりました。
この新しい契約のもとで、人は罪が赦され、罪の力から解放され、神の戒めに従って生きる力を内側に与えられるようになりました。
古い契約では、こうはいきませんでした。ルールに縛られる生き方は苦痛を伴います。しかし、霊的な新しい契約は、内面から作り替え、律法というルールが無くとも、神の律法に生きる者として人を生かすように変えられました。
神による信任か人の信任か
今回のパウロの証言を見ていきますと、神の信任によって生きるパウロと人の信任を求める偽使徒との違いが浮き彫りになります。
パウロは神の信任があるゆえに、彼の生き様、彼が生み出した信徒こそが、推薦状でした。一方偽使徒たちは、推薦状があるから、自分たちは正統性をもった真の使徒であるとしました。
人の内面がカギ
パウロと偽使徒たちとの違いは、推薦状があるかないかではありません。その内面が問われていることであろうかと思います。
これは、クリスチャン自身における誘惑でもあります。良い大学出身だからだとか、良家であるからだとかという理由で人を高く見てしまう傾向は私たちのうちによくあることです。
そうしたことをハロー効果と呼びますが、このハロー効果とは、ある対象を評価するときに、目立ちやすい特徴に引きずられて他の特徴についての評価が歪められる現象のことをいいます。 光背効果、後光効果とも呼びますが、 とりわけ心理学の世界では、認知バイアスと呼ばれるものの一つとされています。
推薦状を受けた人の内面がどうであるかわからないのに、その人が持っている、推薦状、職業、立場、権威、学歴、資産等々によって、人への評価が変わってしまう。あるいは、人の噂話等によって人格が歪められて伝えられ、それを信じてしまう傾向はよくあるものです。
そうした人間の心理を巧妙に利用しようとしたのが、偽使徒たちであったのでしょう。自分のために推薦状を取り出して、自分の権威づけのために用いたばかりか、自分の権威を盤石にするために、パウロを放逐しようとすらしたわけです。
推薦状をもらわなかったパウロ
そうした動きを察したパウロは、自分のために十二使徒たちからの推薦状をもらうことはしなかったのです。また、アンテオケ教会からも推薦状を急遽取り寄せるということもしなかったのです。
私たちがパウロであったなら、きっと十二使徒たちに掛け合って推薦状を書いてもらう、アンテオケ教会に出向いてということになりますが、パウロはそうしなかったのです。ここで、パウロは、私たちに最高権威者は誰なのかということを教えてくれるのです。パウロの権威者は、十二使徒でもありませんし、もちろん、アンテオケ教会でもありません。
彼の権威者は、イエス・キリストであります。イエスの御名こそが、彼にとっての推薦状でありましたし、その御名を聞き信じた信徒こそがパウロの推薦状そのものでありました。それは、神の栄光を期すためにそうしたのであって、自分の栄光を求めるものでもありません。
推薦状の背後にあったもの
多くの場合、権威を何に用いるのかといえば、自分の栄光のためです。偽使徒たちは、自分の権威付けのために教会の推薦状を用いました。もしかすると、その推薦状自体偽造であったかもしれません。いずれにしましても、自分を高める欲望というのはキリがありません。それは、人間の深い罪でもあります。特に心しなければならないのは、教会の指導者や立場ある人にとって大きな誘惑になるものです。自分を高めるために、学歴を詐称する、経歴を偽る、やってもいないことを吹聴する。自分の立場が危うくなると、自分の立場を覆すであろう人物を蹴落とす、有形無形の危害を与えるということにつながりえないものであります。そうしたことの直接的な背景に、十戒の第九戒を破るという罪があります。
自分を高めるために権威を用いるのか、神の栄光のために権威があるのかを強く問われている時代かと思います。アーメン。
皆様のサポートに心から感謝します。信仰と福祉の架け橋として、障がい者支援や高齢者介護の現場で得た経験を活かし、希望の光を灯す活動を続けています。あなたの支えが、この使命をさらに広げる力となります。共に、より良い社会を築いていきましょう。