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この世界に生きる Ⅰペテロ4章1節

2022年5月29日 礼拝

【新改訳改訂第3版】Ⅰペテロ
4:1 このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。

Χριστοῦ οὖν παθόντος σαρκὶ καὶ ὑμεῖς τὴν αὐτὴν ἔννοιαν ὁπλίσασθε, ὅτι ὁ παθὼν σαρκὶ πέπαυται ἁμαρτίας,

Tanya DahlinによるPixabayからの画像



| はじめに

Ⅰペテロ3章を見てきましたが、古代ローマの奴隷制度にあるクリスチャンたちの苦しみという前提をもとに解釈してきました。パクス・ロマーナという偽りの平和の時代に、キリストが遣わされたのには理由があるといままで語りました。

3章をまとめますと、奴隷制とその中に生かされているクリスチャンたちの意味というものでした。

誰しも神のかたちとして創造され、神を賛美する存在として造られたのに、皇帝を神とし、その人間に仕えるように奴隷とされていました。奴隷というのは、人間を家畜や機械とみなすあり方です。
奴隷を同じ人とみなすことはない構造的に欠陥があったローマ社会の最盛期にキリストが遣わされたことには倫理的な大転換があったことを教えてくれます。

ところで、古代ローマの最盛期ということは、ローマ社会のあり方が正しいとして評価されることを意味します。つまり、奴隷制度という不条理がきわめて強く浸透し、そのシステムが世界中に蔓延していた時代でありました。

強い国家を支える奴隷制度は揺らぐことのない善であり、人を機械や家畜と同等とすることは正しいとする社会であったわけです。こうした人を人としない時代に、キリストの十字架というくさびを神から打たれたということを前回お伝えしたとおりです。今回は、4章から、人を蹂躙している社会にあってクリスチャンが、どのように社会に関わり、旗幟を鮮明にしていくのかをペテロは伝えます。

| このように

【新改訳改訂第3版】Ⅰペテロ
4:1 このように、キリストは肉体において苦しみを受けられたのですから、あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい。肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。

3章を受けて、ペテロは『このように』と筆を進めます。『このように』とは、人が人を支配し、隷属化し、人の尊厳を奪ってやまない不条理にある世界に向けて、神がどのように人間世界に介入してきたかという救済史的な観点を示しています。

1.アダムとエバにおいては、エデンの園を追放したこと
2.ノアの時代には、洪水をもって人間を滅ぼした
3.古代ローマの時代には、イエス・キリストを遣わしたこと

そのいずれもが、人間性を喪失した要において神が人間に下した回答でした。こうした事例を見ていきますと、神は冷酷なお方だと思う人もいるかも知れません。しかし、神は人間に忠告を与え、破ることのないようにあらかじめメッセージを与えてくださいました。ところが、その都度、人間は神のメッセージを無視し、自分に都合の良い生き方を志向し、堕落が極まった時、神が直接介入してきた歴史でした。

イザヤ 65:2 わたしは、反逆の民、自分の思いに従って良くない道を歩む者たちに、一日中、わたしの手を差し伸べた。

神は、実に忍耐深いお方であり、人間が愚行を繰り返していても、慈しむ姿勢は変わりませんでした。これ以上愚行が続き、破局を迎えるというときに、繰り返し神はそのお姿を現し介入されるのです。

イエス・キリストの受肉もそうした神の御心────救済史の一環であることです。

1節にある『このように』という言葉は、まさしく神の救済史を想起させる言葉であることが理解できます。つまり、神はイエス・キリストの出現によって、この世は終わるという宣告をしているということです。このキリストにおいて、終末における審判と救いの完成という歴史を教え、その宣告を受け入れ、イエス・キリストを信じることで、神の滅びの宣告から救われているということをペテロは読者に強く印象づけているのです。

| 追放の時代を生きる

さきほど、大まかな救済の歴史の要点について取り上げました。それは以下のとおりですが、

1.アダムとエバにおいては、エデンの園を追放したこと
2.ノアの時代には、洪水をもって人間を滅ぼした
3.古代ローマの時代には、イエス・キリストを遣わしたこと

そのいずれもが、追放であることが共通点になります。追放というのは、人間が本来あるべき位置から外されるということになります。アダムとエバの記事はわかりやすいでしょう。ノアの時代は、大洪水によって、この世からいのちを強制的に絶たれるという形で神から追放されます。
では、古代ローマの時代はどのように追放されるのでしょうか。イエス・キリストを信じない者は、永遠の滅びにあるとテサロニケ第二の手紙にあります。

Ⅱテサ 1:9 そのような人々は、主の御顔の前とその御力の栄光から退けられて、永遠の滅びの刑罰を受けるのです。

新改訳聖書第3版 いのちのことば社

いわば、古代ローマ時代から、現代に至るまで、神からの追放されているということです。しかも、人類の破局が間近に迫っている時代が、いまを生きる私たちの時代です。

受難と復活の思想を持つこと

ところで、人間が神から追放されるにあたって、神は何もなさずに追放はしません。神はみことばを通し、イエス・キリストの福音を通し私たちに警告を与え続けています。
それだけではありません。追放の苦しみというものをイエス・キリストの十字架という痛みにおいても、名誉においても最悪の刑を、肉体を通して体験しました。(παθόντος σαρκὶ パソントス サルキ)

神からの追放という人間存在の根源にかかわる苦しみを、まず神であられるイエス・キリストが身をもって苦しまれました。その受難の苦しみをペテロは、

1節の中で『あなたがたも同じ心構えで自分自身を武装しなさい』と述べます。ここで、『心構え』と訳されたἔννοιαν(エンノニアン)ですが、

1)考える行為、考察、瞑想
2) 思考、観念、着想
3) 心、理解、意志、感じ方、考え方

という意味を持ちます。『心構え』というよりは、
TEVにある way of thinking (考え方)というように解釈したほうが適切ではないかと思います。
つまり、私たちは、イエス・キリストが受難にあった時と同じ考え方でもって、自分の人生と社会と世界と歴史を理解しなさいということです。

私たちの思考や思想が、常にイエス・キリストの十字架と復活に基づいたものであることが、神が追放した時代に生きる私たちの健全な姿であるとペテロは教えます。

信仰という武装

ペテロは、ここで『武装しなさい』と勧めますが、本文では、ὁπλίσασθε(ホプリサセッセ)とあります。この言葉は、軍事用語であるようで、「兵隊が武装する;準備する」という意味です。
この言葉は何を言わんとしてるのかといえば、クリスチャンである私たちは、神の追放の時代にあって、平和に何事もなく平穏無事に生きるということではなく、その前提として、戦いの場に置かれているという認識が必要でしょう。それは、誰との戦いと言えば、空中の権を握るサタンや悪霊との戦いの場に置かれているということです。

【新改訳改訂第3版】
Ⅰペテ
3:19 その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたのです。

と前回取り上げた節において、暗闇に囚われている悪霊たちに向かって、キリストが勝利することを宣言したとありました。
こうした、イエス・キリストが死に勝利した宣言は、サタンや悪霊たちも知っており、今や熾烈な霊の戦いがこの世界で繰り広げられているということです。そうした霊の戦いに破れ、信仰の破船にあう信徒も限りなく存在します。サタンや悪霊は私たちの心やたましいに訴えかけ、信仰が冷めるように働きかけます。

新型コロナの時代、感染対策上、教会に集うことが難しくなりました。賛美歌を歌うことすらできなくなり、オンラインで集会を持っている教会も少なくはありません。その結果何がもたらされるでしょう。兄弟姉妹たちとの交わりが減り、その結果、信仰が冷えてくるという結果を招いているのではないでしょうか。このコロナの時代、サタンにとっては大きな勝利の雄叫びを上げているのではないでしょうか。

有形無形問わず、あらゆる形でクリスチャンはサタンからの妨害を受け、その信仰が弱るように仕向けています。つまり、いま私たちは、サタンとの戦争状態にあるということです。
この戦争状態に勝利する秘訣は何でしょうか。それは、『主イエス・キリストの受難と復活』によって思考することです。これが、私たちの武装であることをおぼえていきましょう。
使徒パウロはこう言います。

【新改訳改訂第3版】
エペ
6:10 終わりに言います。主にあって、その大能の力によって強められなさい。
6:11 悪魔の策略に対して立ち向かうことができるために、神のすべての武具を身に着けなさい。
6:12 私たちの格闘は血肉に対するものではなく、主権、力、この暗やみの世界の支配者たち、また、天にいるもろもろの悪霊に対するものです。
6:13 ですから、邪悪な日に際して対抗できるように、また、いっさいを成し遂げて、堅く立つことができるように、神のすべての武具をとりなさい。
6:14 では、しっかりと立ちなさい。腰には真理の帯を締め、胸には正義の胸当てを着け、
6:15 足には平和の福音の備えをはきなさい。
6:16 これらすべてのものの上に、信仰の大盾を取りなさい。それによって、悪い者が放つ火矢を、みな消すことができます。
6:17 救いのかぶとをかぶり、また御霊の与える剣である、神のことばを受け取りなさい。
6:18 すべての祈りと願いを用いて、どんなときにも御霊によって祈りなさい。そのためには絶えず目をさましていて、すべての聖徒のために、忍耐の限りを尽くし、また祈りなさい。

べき思考からの脱却

信仰には、思想とそれに基づく武装が必要であることをペテロは教えてくれました。ついでペテロは次のように語ります。
『肉体において苦しみを受けた人は、罪とのかかわりを断ちました。』と1節の後半で述べますが、ここは、「クリスチャンは、苦しまなければならない」というような、禁欲主義や殉教を勧めているのではありません。

イエス・キリストの受難の苦しみを伝え聞いて、信じた人が、イエス・キリストの十字架の苦しみを覚えたときに、湧いてくる感情です。

自分の罪のために、イエス・キリストが十字架に刺し通され苦しめられたということを信仰によって理解したときに味わう苦しみです。
自分がイエス・キリストを十字架につけてしまったという悔恨の念が生まれてきます。この悔恨の念は御霊がわたしたちに働かれたときに生まれるものです。

こうした思いの先に何が起こるのかと言えば、いままでなんとも思わなかったことが罪深いものであることを認識することです。罪への理解がより鋭敏なものとして受け止められるようになってきます。

過去、私も飲酒、喫煙をしたことがありましたが、キリストの十字架の苦しみを知ってから、そうしたことが、あまりに罪深いものとしてやめた経験があります。

ここで、πέπαυται(ペポータイ)ということばが出てきますが、この中動態の動詞として書かれています。意味は、「自ら罪をやめる」という意味にになります。
罪をやめるということは、聖書では知恵として教えていますが、罪に敏感になるということは主イエス・キリストの受難を知ることから始まるのです。

詩 111:10 【主】を恐れることは、知恵の初め。これを行う人はみな、良い明察を得る。主の誉れは永遠に堅く立つ。

キリスト教信仰は、こう言われたから、このように生きなければならないといった『べき思考』ではありません。

主の行い、主の苦しみ、主のお赦し、主のご愛といったことに導かれて、自発的に行うものです。

あるべきところに自分から能動的に神に向かって選択する生き方です。
いかがでしょうか。キリスト教が、教会が息苦しい、つまらないそういう経験ありませんか。そうしたら、ぜひ、イエス・キリストの受難と復活を見つめてください。そこに生きるならば、あなたの人生は変わります。
自分の正しいあり方とは、一体どこにあるのか見つめ直していきましょう。