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不条理は打ち砕かれる  Ⅰペテロ3章19-22節

2022年5月22日 礼拝

【新改訳改訂第3版】Ⅰペテロ
3:19 その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたのです。
3:20 昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。
3:21 そのことは、今あなたがたを救うバプテスマをあらかじめ示した型なのです。バプテスマは肉体の汚れを取り除くものではなく、正しい良心の神への誓いであり、イエス・キリストの復活によるものです。
3:22 キリストは天に上り、御使いたち、および、もろもろの権威と権力を従えて、神の右の座におられます。

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| はじめに

前回は、人間の不条理を基礎にした古代ローマ社会というものを見てきました。奴隷制度が少数のローマ市民の生活を維持し、ローマ市民のローマ市民のための政治が行われていたことにより、奴隷やその中核をなす外国人捕虜、女性といった人々が屈従することで豊かな市民文化が醸成されていたということです。こうした、ある意味本来あるべき人間としての権利を奪われていた人々がキリストの福音に触れ、この世ではない、永遠の天の御国に希望を見出し、信じ、クリスチャンとなっていたということです。人として見做されない人々の小さな信仰ではありましたが、その信仰によって、ローマ帝国の奴隷制度が瓦解し、ローマ帝国の滅亡へとつながる端緒になったということでした。つまり、一人の信仰が、社会を変革させるきっかけとなったということで、一人ひとりのクリスチャンの信仰は小さなものではあるかもしれませんが、社会の不条理を変えるために遣わされているということを語ってきました。今回は、その原動力である復活の力について取り上げていきます。

| 難解な箇所

Ⅰペテロ3:19 その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたのです。
3:20 昔、ノアの時代に、箱舟が造られていた間、神が忍耐して待っておられたときに、従わなかった霊たちのことです。わずか八人の人々が、この箱舟の中で、水を通って救われたのです。

新改訳聖書 いのちのことば社

19節から22節は難解な箇所として様々な説が取りざたされる箇所として知られています。どう解釈するかによって、信仰の様相が全く異質なものに解釈されてしまうので、注意が必要です。

ところで、主イエス・キリストは、金曜日に十字架に架けられ、日曜の朝早くに復活しました。その金曜日から復活の前の日曜日の明け方まで、イエス・キリストはどうであったのかといいますと、肉体は墓にありましたが、彼は霊的には生きていました。19節に『その霊において』とありますが、それは活動期間を示し、十字架の死から復活までの期間の活動を指していると考えられます。

捕らわれの霊たちへの宣教

ところで、第一ペテロ3:19で述べられている『捕らわれの霊たち』ですが、その霊たちの三つの要素として、次のようなポイントがあります。

1.肉体を持たない霊たちである
2.捕われている霊たちである
3.ノアの洪水の前に罪を犯していた霊たちである

この箇所を読んでいきますと、イエスは、彼らの捕われている場所を訪れ、彼らに宣教を行ったことを示しているようにも見えます。
しばしば、この箇所を『捕らわれた霊たちへの宣教』と呼ばれますが、『宣教』と訳した本文はἐκήρυξεν(エケールクセン)と記されており、その原型はケルッソーです。ケルッソーとは、単に告げ知らせるという意味であって、福音を伝えるユーアンゲリゾー(喜びの訪れる知らせ)とは違う単語であることが明確です。
つまり、『捕らわれた霊たちへの宣教』と訳すと、誤解が生じます。

セカンド・チャンス

『捕らわれた霊たちへの宣教』と訳すと、人によっては、信じていない人が死んだ後にイエス・キリストが宣教して救ってくださると誤って解釈しかねません。
こうした考えをセカンド・チャンスと言います。

「捕われの霊たち」とは、生前に福音を聞くことなしに死んだ人々や生前に福音を信じないで死んだ人々を指す。「みことばを宣べられた」とは、イエスがよみにいるそれらの人々に福音を宣べ伝えたことを指している。つまり、死後にも救いのチャンスがあるという教えです。

本当にそうなのでしょうか。

「捕われの霊たち」という対象が誰であるかをはっきりすれば真相がわかるのですが、これらの捕らわれた霊が、いったい誰のことであるのかについては、代表的な説として3つあります。

1.神に背いた天使たち
2.罪に捕らわれている人々
3.死んだ悪しき人たち

この箇所を調べていくと、最も蓋然性の高い説は、捕われの霊たちというのは、堕落した天使、悪霊であると考えられます。死んだ人たちではありません。その捕われの霊たちは、聖なる天使ではありません。なぜなら、聖なる天使は罪を犯しておらず、捕われてもいないからです。ところが、すべての悪霊が捕らわれているわけではありません。今も、空中の権を持つ悪魔とそれに付き従う悪霊が存在すると新約聖書は語っていることから総合すると、ノアの時代以前に地上に暗躍した悪霊であると考えられます。総合的に調べていくと、この箇所は、死んだ人たちではなく、悪霊と解釈したほうが適切ですし、そう解釈していきますと、セカンド・チャンスはありえないという結論になります。

ノアの洪水以前に暗躍した悪霊たち

ユダ書によれば、現在、悪霊となった天使たちがさばきの日まで暗やみの下に閉じ込められていることが記されています。

ユダ6節 また、主は、自分の領域を守らず、自分のおるべき所を捨てた御使いたちを、大いなる日のさばきのために、永遠の束縛をもって、暗やみの下に閉じ込められました。

悪霊の一部は、現在も捕らえられていることが示されているわけですが、その捕らえられた霊たちを『神に背いた天使』たちがどういう罪によって捕らえられているのかということです。一つのヒントとして、創世記の6章1節から4節の記事にあることばですが、

創世記6:1 さて、人が地上にふえ始め、彼らに娘たちが生まれたとき、
6:2 神の子らは、人の娘たちが、いかにも美しいのを見て、その中から好きな者を選んで、自分たちの妻とした。
6:3 そこで、主は、「わたしの霊は、永久には人のうちにとどまらないであろう。それは人が肉にすぎないからだ。それで人の齢は、百二十年にしよう」と仰せられた。
6:4 神の子らが、人の娘たちのところに入り、彼らに子どもができたころ、またその後にも、ネフィリムが地上にいた。これらは、昔の勇士であり、名のある者たちであった。

新改訳聖書 いのちのことば社

ここで、神の子とは?という疑問が生じるわけですが、初期の頃のへブル人解釈者たちや外典、偽の原典などの著書は一致して、創世記6章1-4節に出てくる「神の子ら」は堕落した御使いたちのことだという考えでした。わかりやすく言いますと、堕落した御使いたちが、女性と寝て子供を生ませたということです。

アダムとエバの罪の再来

創世記6章にある記事の中での罪は、天使たちが洪水前に人間の女性と関係を持つことを罪としました。なぜ、それが罪に問われるのかといいますと、被造物である天使が本来の務めを放棄し、あるべきところからを離れ、天使として逸脱した行為を働いたことが罪とされているのです。そうした逸脱した行為が、人間と天使との間に生じていたようです。

天的存在者と、人間との姦淫は何をもたらしたのかと言えば、推測でしかないのですが、人間の天的存在への憧れが惹き起したものではないかと考えられます。人間の根源的な欲求は、自分が神となることです。自分の全存在を全知全能なる神に置き換えることです。
そこまでは考えていないとする人もあるかもしれません。しかし、大なり小なり私たち人間は、自分を中心に置きたい。そういう欲求があるものです。人を意のままに操りたい、自分が認められたい。自分の思うように生きたい等々、自分を神に近づけようとする欲求は、誰しも経験があることではないでしょうか。
神に最も近いとされる天使との姦淫は、自分が神となりうる最も手っ取り早い手段であったことであったと思われます。

それは、ちょうど、アダムとエバがエデンの園の中央にあった木の実を食べた記事と重なりますし、アダムとエバがエデンの園から追放されてからも、人間の根源的な動機は変わらなかったようです。

その結果、どのようになったのかといえば、地上に悪が増大したということです。多くの人が、自分が神だとしたら、それを人の支配への道具とし、戦うことを厭わなくなるでしょう。
おそらく、誰が一番であるのかを競い合い、勝った者が負けた相手を殺す、隷属化するということが日常的に生じていたのではないでしょうか。
しかも、御使いの子であるという権威を身につけてそうした蛮行を幾度となく繰り返していたのではないでしょうか。

その行き着く先は、前回も語りましたが、自滅の道です。
主導権、支配を極めるその先は、滅亡へとつながる道です。
主は、こうした行き過ぎた人間の神への志向の罪と、その神になりたいと願う罪を極大化させた御使いの姦淫ということを見過ごすわけにはいきませんでした。

アダムとエバがエデンの園を追い出された原因をそそのかしたのは、『蛇』でした。つまり、サタンです。サタンなる蛇は、人間に罪をそそのかしたわけですが、洪水以前の『神の子』と呼ばれた御使いたちは、サタンと同様に人間に神になりたがろうとする人間の罪を増大させたわけです。アダムとエバのときは、一家族で済んでいたところ、人口が拡大した時代にそうした事が起きてきたわけですから、一度滅ぼされなければ大変なことになったのではないかと想像できます。自分が創造した人類が罪によって滅びるよりも、一度リセットするというのは理に適っている気がいたします。

創世記6:5 主は、地上に人の悪が増大し、その心に計ることがみな、いつも悪いことだけに傾くのをご覧になった。
6:6 それで主は、地上に人を造ったことを悔やみ、心を痛められた。
6:7 そして主は仰せられた。「わたしが創造した人を地の面から消し去ろう。人をはじめ、家畜やはうもの、空の鳥に至るまで。わたしは、これらを造ったことを残念に思うからだ。」

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前回に引き続いて、なぜ、こうした難解な箇所が挿入されたのでしょうか。それは、不条理にある人間社会にあって、キリストの介入と十字架というものの役割を知ってもらうためのペテロの考えであったということができます。

| ノアの洪水以前との近似性

古代ローマ社会も、ノアの洪水以前の社会と違わず、皇帝を神と据える社会であり、多民族国家とはいえ、その多民族を支配させるために、暴力や殺戮といった手段で従属させているに過ぎませんでした。暴力や殺戮の背後には神のかたちとしての人間の価値への無視と人権無視の濫用という価値観がありました。その人間性への無視と虐待は、人が神となるという動機が強く横たわっていました。ローマ皇帝が神となる、大きな罪の前に、イエス・キリストが贖罪の子羊となって、主なる神への捧げ物となりました。人間性の回復と復権がイエス・キリストの十字架によってもたらされたわけです。

つまり、イエス・キリストの十字架と復活は、エデンの園からの追放、ノアの洪水に匹敵するさばきと考えてもいいでしょう。

Ⅰペテロ3:19 その霊において、キリストは捕らわれの霊たちのところに行って、みことばを語られたのです。

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19節の中で、『みことばを語られた』とありますが、これは、「福音を伝えた」のではなく、「宣告した」という意味だということでしたが、つまり、イエス・キリストは、墓の中の3日間の中で、捕らわれた悪霊たちに対して、復活を宣言し、キリストの救いのわざが勝利をしたことを悪霊たちに宣言したということを示す内容ですが、これは、悪霊たちにとって、死刑判決が下ったことと同義です。つまり、『神の厳粛なさばき』の言葉でもあるわけです。

神のさばきの宣告がここでなされたということは、悪霊たちにとどまらないということです。
古代ローマ時代は、人が神となり、偽の平和がローマ皇帝によって全世界にもたらされた時期でした。愛ではなく暴力によって人が抑圧され、偽の平和が作り出されていた時代です。
翻って、現代はどうでしょうか。民主主義は一部の国に限られ、多くの国々は、今も専制国家である事実があります。抑圧によって生きざるを得ない、本来人間が手にすべき自由と神の愛が蹂躙されている事実があります。こうした時代の不条理に神は人となられた。不条理に生きる人々に真理を与え、不条理の中にあっても、真の自由というものを与えてくれたのが、イエス・キリストです。

こうした不条理を止めさせるために、主は遣わされたのですが、主は、不条理に殺され、不条理の中に葬られてしまうのですが、しかし、彼はそんな不条理をいともたやすく覆しました。それが復活の御業です。

私たちは、この世界にあって様々な不利益、不条理に抑圧された現実の中に生きていますが、神は、不条理に満ちた世界をイエス・キリストの十字架と復活において止めさせると宣言しているのが、この19節のことばでもあります。それは、イエス・キリストを認めない人にとっては、さばきのことばでもあり、同時に死の宣告を意味するものですが、イエス・キリストを信じる人にとっては、ノアの方舟に救われた八人と同じであるということをペテロは強く主張しているのです。

| この世へのさばきがあること

何度も繰り返しますが、この世は長くはないでしょう。古代ローマ時代よりも遥かに混迷を深め、人々の愛は冷め、自分勝手な道をそれぞれが歩み、戦争の噂は絶えず耳に入る現実があります。こうした中にあって、自分を神とする人が増え広がっています。つまり、ノアの洪水の時と比較しても引けを取らない堕落がこの時代に拡大しています。いつ、神によって全人類へのさばきが下ってもおかしくない状況です。キリストはこの世の終わりに再臨すると聖書は伝えています。再臨は事実上、この世界が終焉を迎えるときであります。この世界の終焉の時、なにが起こるのでしょうか。人間を捕らえている不条理というものからの完全な救済が行われます。しかし、これは、主イエスを信じるものに限定されます。信じない者は罪に定められると聖書は伝えています。罪を持ったままでは、不条理と思えるさばきに服さねばならないのです。しかし、それは不条理ではありません。罪から来る報酬は死です。とローマ書にあるように、神の正しいさばきの中にあっては、ことごとく断罪させられてしまうのが、私たち本来のあり方です。そうした私たちに向けて、神は主イエスをこの地上に送ってくれたのです。行いによっては私たちを救いに至らせることはできません。読経によっても、救われません。私たちのやることなすことすべてが罪によって支配されているからです。
そこから救われるのは、罪を犯したことない人を信じる以外に道はありません。その罪を犯したことない人、それが、神が人となられたイエス・キリストです。

今回取り上げた箇所は、人間世界の不条理の中にイエス・キリストの出現したことは、グッドニュースであるばかりか、同時に、この世の滅びを宣言していることばです。
イエス・キリストをグッドニュースと思われますか?
そう思う人は幸いです。
そう思えない人は、イエス・キリストを救い主として信じていただきたいと切に願うものです。
あなたが救われるのは、今しかありません。
ぜひ、イエス・キリストを自分の救い主として信じてください。
確実に滅びは近づいています。
滅びより救われるのは、イエス・キリストの御名によってしかないからです。

使 4:12 この方以外には、だれによっても救いはありません。世界中でこの御名のほかには、私たちが救われるべき名としては、どのような名も、人間に与えられていないからです。」

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