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長老たちへの懇願───視点を神に   Ⅰペテロ5章2節

タイトル:Michelle ZallouaaによるPixabayからの画像

2023年4月16日 礼拝

Ⅰペテロの手紙
5:1 そこで、私は、あなたがたのうちの長老たちに、同じく長老のひとり、キリストの苦難の証人、また、やがて現われる栄光にあずかる者として、お勧めします。
Πρεσβυτέρους οὖν ἐν ὑμῖν παρακαλῶ ὁ συμπρεσβύτερος καὶ μάρτυς τῶν τοῦ Χριστοῦ παθημάτων, ὁ καὶ τῆς μελλούσης ἀποκαλύπτεσθαι δόξης κοινωνός:

はじめに


イエス・キリストの使徒ペテロから、ポント、ガラテヤ、カパドキヤ、アジヤ、ビテニヤに散って寄留していた、選ばれた人々、すなわちクリスチャンに宛てて書かれたこの手紙は、ローマ皇帝ネロによる迫害が激しさを増していた時代に書かれたものです。

この手紙が書かれた目的は、迫害によって多くのクリスチャンが小アジヤの各地に散らされていました。そうした試練の中、苦しむそうしたクリスチャンを励まし、そのような迫害の中にあっても堅く信仰に立つことができるようにするためでした。

ペテロは、4章の中で、苦難に対する心構えについて語ってきました。この5章では、教会全体への勧めについてペテロは筆を執ります。長老に対する勧め、若い人たちへの勧め、すべての信者への勧めという主題で伝えていきます。今回はまず長老、つまり指導者たちへの勧めに関して見ていきたいと思います。

長老たちに宛てた手紙の中身


迫害という試練の中、いったいどうしたら試練の中にあっても信徒が信仰によって堅く立ち続けることができるのでしょうか。その一つの答えとして、指導者の存在によるというのが、ペテロの言葉です。
5:1節を今回は取り上げていきますが、少々わかりにくい感じがあります。英語の聖書から読みますとわかりやすく感じます。

New Kng James Versionでは次のように訳せます。

ギリシャ語本文の直訳ではどうか。

さて、5:1を見ますと、ギリシャ語本文でまず最初に現れる単語は、Πρεσβυτέρους(プレスビテロース)という言葉です。長老派教会をPresbyterian(プレスビテーリアン)と呼びますが、その語源になります。プレスビテロースは「長老」「年長者」を意味する言葉です。新約聖書では、キリスト教会や集会の指導者を指す言葉として使われており、司教や監督とも呼ばれました。この言葉は、「年老いた人」を意味する言葉の比較形から派生したものです。

ペテロは、ギリシャ語において、この5章の冒頭で、各地の教会の指導者である長老たちに書き送ったことを示します。
Πρεσβυτέρους οὖν ἐν ὑμῖν (プレスビュテロース オウン エン ヒュミーン)を『あなたがたの間にいる長老たち』と新改訳で訳されてますが、"Πρεσβυτέρους "の後に "οὖν"という単語が記されています。

このοὖν(オウン)とは、”therefore, now then, accordingly so.”という意味をもち、このような希望と脅威、現在の迫害、そして来るべき裁きを示す意味を含んでいます。

すなわち、ペテロはΠρεσβυτέρους οὖν ἐν ὑμῖνという言葉を用いるにあたって、教会の職責を共にする指導者たちに厳粛な責任を与えていると言います。

Πρεσβυτέρους οὖν ἐν ὑμῖν παρακαλῶ (ブレスビュテロース オウン エン ヒュミーン パラカレオー)と続きますが、

παρακαλῶ(パラカレオー)は『熱心な勧め、奨励』を意味する動詞です。しかし、そうした意味だけでなく、励ましや懇願、さらには慰めも含む意味が新改訳を見ていきますと『あなたがたのうちの長老たちに、~お勧めします。』とありますが、

正確には、ペテロは、各地の教会の長老(指導者)たちに厳粛かつ必死にお願いをしているということがわかります。

Πρεσβυτέρους οὖν ἐν ὑμῖν παρακαλῶという言葉には、ペテロの各地の遣わされている教会の指導者たちに心からお願いしたいという意味が込められているということです。

同じ長老として


ペテロは、各地の教会の長老たちに懇願をするのですが、そこで      ὁ συμπρεσβύτερος(ホ シュムプレスビュテロス)と語ります。新改訳では『同じ長老のひとり』と訳されてますが、これは、シュム(ともに)という前置詞とプレスビュテロス(長老)の合成語です。
なぜ、ペテロがこう書いたのかといいますと、ペテロは、主イエスの目撃者であり、イエスの生涯と復活の証人であり、同時に主イエスから直接任命された12弟子の代表する人物でもありました。使徒職という特別な賜物をいただいていたわけですから、当然、教会のトップに位置する人としてクリスチャンたちからの熱い敬愛を受けていたものと思います。

おそらく、原始教会の頂点に立つ人物として目されていたと思われますが、彼自身は、自分を『使徒』とは呼ばずに、同じ同労者として長老たちとして扱うとともに、『重大な使命を帯びた人々として長老たちを同情し、奨励した』というのが、

Πρεσβυτέρους οὖν ἐν ὑμῖν παρακαλῶ ὁ συμπρεσβύτερος 
(プレスビュテロース オウン エン ヒュミン パラカレオー シュムプレスビュテロス)の意味するところです。

長老になぜ、このようなメッセージを書き送ったのかといいますと、それは、長老たちにも危機が迫っていたということが明らかであるからでした。
迫害は、殉教という形で容赦なくその指導者たちに降りかかっていたことでしょう。彼は、長老という職責につきまとう危険性を経験的に知っていました。世界のキリスト教のトップであり、すでにローマで始まっていた迫害の真っ只中から書いているのだから、アジヤ(トルコ)にいる長老たちは、彼の助言を、試練とは無縁の気楽な一般の助言と見ることはできません。真剣な言葉として受け取っていたことでしょう。

ペテロの耳にもあちこちの教会の指導者たちが殺害されたという報せはとどいていたに違いありません。いくら4章のなかで、迫害には忍耐が必要だと言っても、クリスチャンたちは度重なる迫害にあっては心中穏やかではなかったに違いありません。ペテロは、自分自身に迫る危機と、諸教会の事情と苦しみを知るがゆえに、ペテロ自身は立場が他の長老よりも上として、諸教会を指導するのではなく、あくまでも諸教会の長老たちと立場は同じであること、あたかもペテロが自分自身は、他の長老たちと同列であり、自分の高い地位を認めていないかのように考えられます。

十字架と復活の証人として


ペテロは次に、自分を『キリストの苦難の証人』として自分を紹介してます。

Πρεσβυτέρους οὖν ἐν ὑμῖν παρακαλῶ ὁ συμπρεσβύτερος καὶ μάρτυς τῶν τοῦ Χριστοῦ παθημάτων, (プレスビュテロース オウン エン ヒュミン パラカレオー ホ シュムプレスビュテロス カイ マルトュス トーン トゥ クリストゥー パセマトーン)

μάρτυς(マルトゥス)とありますが、『証人』という言葉です。この言葉の意味は、何かを見たり聞いたりして、それを証しする人を指す言葉として使われています。新約聖書では、忠実な証人であるイエス・キリストを指す言葉として使用されています。また、イエス・キリストへの信仰のために死んだ殉教者たちを指す言葉としても使われています。

ですから、ペテロは、単に自分をイエス・キリストの目撃者、証人であると告白しているわけではありません。

ペテロは、かつて、主イエスの受難の時に、律法学者や祭司長たちの秘密裁判の時に、弟子かと尋ねられて3度イエス・キリストの弟子ではないと否認しました。また、十字架の死にも立ち会ったに違いありません。その時の彼の信仰を見ますと、イエス・キリストの死と復活の目撃者ではあったかもしれませんが、殉教者という意味でのμάρτυςマルトゥスとは言い難い人物でした。復活したイエス・キリストとの出会いによって彼は、真の証人として目覚めます。その時の様子が以下の御言葉になります。

復活のイエスの目撃者であるとともに、ペテロは、イエスの苦しみの目撃者でありました。また、同時にペテロは、キリストの苦難の証人でもありました。ギリシャ語では、彼が見物人や目撃者であったという事実よりも、むしろ苦しみを証言したという事実を重視しています。

ここでも、ギリシャ語で 『キリストの苦難 』と書かれています。ペテロは、自らの長老という役職について、その役職の危険性を知っていただけでなく、すべてのクリスチャンの長老であり、大祭司であるメシアご自身がどのような苦しみを受けたかを証言する役割を担っていました。

長老は、このイエスの十字架の苦難を伝えることがその任された使命であり、同時にすべてのクリスチャンも十字架の苦しみを受ける運命にあると考えるのは当然でした。

つまり、ペテロは、すべてのクリスチャンの模範として長老という役割が与えられていましたが、その長老というのは、何を模範とすべきなのかといえば、それは、キリストの苦難を模範とする者であるということです。言い換えれば、長老というのは、その身に殉教を帯びた者であり、イエスに殉じる者としての模範を示す存在であるとペテロは教えるのです。

『殉教』というキーワードを見失うと、このペテロの手紙の解釈を読み違えてしまうことでしょう。ペテロは、μάρτυς(マルトゥス)という言葉を用いるにあたって、『証人』という言葉の中に『殉教』という意味を込めていたと考えられます。ですから、長老たちに対する呼びかけは、厳粛かつ必死な思いが込められていたということです。

栄光にあずかるものとして


ὁ καὶ τῆς μελλούσης ἀποκαλύπτεσθαι δόξης κοινωνός:(ホ カイ テース メッルーセース アポカルプテッサイ ドクセース コイノーノス)『やがて現われる栄光にあずかる者』


ペテロは、こうした殉教を余儀なくさせられてしまう現状の中で、その筆頭として長老が連行されるということを知っていたであろうし、すでに連行されて殺害された人物もいたと思われます。現在でも、伝道者や牧師にはなりたくないと思うクリスチャンは多いでしょう。任される責任が重く、収入は少ないとなれば、誰が好き好んで教会の指導者になる人がいるでしょうか。
現代であってはこういう現状ですが、かつての原始教会では、長老たちには常に生命の危機が伴っていたと考えますと、命がけで御言葉を語る、指導に当たらなければならないという非常に際どい状況にあったことでしょう。

長老たちは、まっさきに生命を失う存在でしたが、同時に、ペテロも長老も『栄光にあずかる者』として召されていることを教えます。この素晴らしい保証は、死を常に帯びた長老たちを励ます言葉でもありますが、 τῆς μελλούσης ἀποκαλύπτεσθαι δόξης κοινωνός(私訳:確実に啓示される恵みに預かる者)命と引き換えに、やがて示される恵みにあるかることができるとペテロは力強く語ります。

なぜ、ペテロはそう言い得るのか。それは、主イエス・キリストの十字架と復活のμάρτυς(マルトゥス)目撃者だったからです。たしかに生命の危機は長老たちを代表として襲いかかっていましたが、イエス・キリストの復活による恵みというものも、長老たちに真っ先に与えられる祝福でした。
この祝福は、復活の証人であるペテロが語る言葉ほど確実なものはないでしょう。

私も、御言葉を語る働きに遣わされていますが、その重みというものを今日の節から学ばされております。かつての教会の長老たちは、その生命を捨てる覚悟で教会を牧していました。自分の生命が失われてもクリスチャンの永遠のいのちのために捧げていました。果たして、自分にその姿が見られるだろうかと自分を吟味させられております。

原始教会のような迫害は今は見られません。しかし、共産国やイスラム教国での迫害は、原始教会に引けをとりません。そうした過酷な中で信仰を持たねばならないクリスチャンや指導する牧師や伝道者の命がけの信仰は日本でもかつて存在したことでした。そういう試練の中で果たして自分は務まるのだろうかという思いを抱く箇所でした。

ペテロの言葉は、今に生きる私たちへの励ましであり、たとえ、迫害の中に置かれたとしても、羊たちを支え導くという働きは変わらないということに気が付かされます。それは、主イエス・キリストが、そのいのちを教会のために捨て、ペテロや使徒たちもクリスチャンたちのために生命を捨てたのと同様でした。原始教会の長老たちも次々とその生命を落としましたが、彼らは非業の死を遂げようとも、希望は捨てませんでした。彼らは、十字架の死と復活をその目で目撃したペテロや弟子たちの証言を懐き、復活の恵みに預かれる保証をいただくだけでなく、純真な思いで率先して十字架に向かっていこうという勇気の中に信仰の証しを置いたからでした。
平和な時代に生きている私たちは、自分が取り組む十字架があるはずです。その十字架に向かって、勇気を出して歩みだそうではありませんか。