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自己顕示とキリストの愛

2024年5月26日

Ⅱコリント5章11節―15節

5:11 こういうわけで、私たちは、主を恐れることを知っているので、人々を説得しようとするのです。私たちのことは、神の御前に明らかです。しかし、あなたがたの良心にも明らかになることが、私の望みです。
5:12 私たちはまたも自分自身をあなたがたに推薦しようとするのではありません。ただ、私たちのことを誇る機会をあなたがたに与えて、心においてではなく、うわべのことで誇る人たちに答えることができるようにさせたいのです。
5:13 もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。
5:14 というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。
5:15 また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

タイトル画像:Willgard KrauseによるPixabayからの画像


はじめに


クリスチャンは、見えるものではなく、見えない信仰によって生きるとパウロは伝えました。信仰は、聖霊の働きが信仰に大きな役割を果たします。聖霊は人々に新しい命を与え、力を与え、真理を明らかにし、人々を聖くし、結びつけます。聖霊の働きにより、人々は神の愛と恵みを理解し、信仰の道を歩む力を得ます。今回は、パウロがキリストの愛と神への畏敬の心について語っていきます。私たちは、自分自身を誇るのではなく、キリストの愛によって人々を説得し、神の栄光を讃えることを目指す者ですが、同時に騙されやすいものでもあります。自分を正視することについて考えていきます。

主を恐れることを知ったパウロ


11節を読みますと、すぐに目に映るのは、『主を恐れること』という言葉です。聖書をよく知っているなら、旧約聖書の箴言の言葉を思い出すことでしょう。

箴言 1:7
主を恐れることは知識の初めである。愚か者は知恵と訓戒をさげすむ。

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

箴言の著者ソロモンは、箴言の冒頭で、主を恐れることは知識の初めであると書き記しました。箴言(ヘブル語:מָ֭שָׁל マーシャール)とは、言い換えれば、知識(ヘブル語:מָ֭שָׁל マーシャール)ということです。
箴言1:7では、知識こそが主を恐れることの原点であると、ソロモンは箴言の冒頭で宣言しているように、ユダヤ人にとって、『主を恐れる』ことは、信仰の基本であることです。

私たちにとっては、『恐れる』と聞きますと、恐怖であるとか、怖れおののくという意味に感じてしまうものです。ところが、ユダヤ人にとっての『恐れる』(ヘブル語:ヤーレー)とは神への敬意と尊敬を示すものです。これは、神の存在を認識し、その指導と教えを尊重し、従うことを意味します。

ですから、信仰を持たないことはすべて罪であり(ローマ14:23)、神に対する背信は恐怖に変わるものであるという認識がありました。
主への恐れは、神の御心を損ねることを避けるために健全な心理といえます。 神が喜ばれないことから離れることは、聖化の基本であるのです。

聖化は、神の一方的恵みによる御業です。それによって私たちは、人間全体にわたり神のかたちにしたがって新しくされ、ますます罪に死に義に生きることができるものとされるのです。

ウェストミンスター小教理問答 問32

パウロはユダヤ教の厳格な律法を守る生活からキリスト教徒に転向した後も、「主を恐れる」心を持ち続けました。ここでいう「恐れ」とは、神の権威を認め、尊重する態度を指します。彼は、いつか神と対面することを信じており、死後にキリストの裁きの座に立つと確信していました。

ダマスコ途上で復活したイエス・キリストと出会った出来事は、彼の人生を劇的に変えました。この出会いにより、イエスがメシアであり、神を喜ばせる生き方とはイエスを信じることだと悟ったのです。ユダヤ教の律法を守ることではなく、イエス・キリストを信じることこそが救いの道であり、最善の生き方であると理解しました。

パウロは、律法を守るだけでは罪から救われないと確信し、イエス・キリストを信じることが真の知識の始まりであり、ユダヤ教の完成者であるメシアであると結論づけました。彼は、イエスが神であり、全宇宙の創造主であり、世の終わりに全人類を裁く権威を持つと認識しました。その結果、永遠の滅びから救われるためには、イエス・キリストを信じる以外に道はないと確信したのです。

使徒による働き 4:12
この方以外には、だれによっても救いはありません。天の下でこの御名のほかに、私たちが救われるべき名は人に与えられていないからです。」

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

説得する価値がある福音


パウロは、イエス・キリストとの出会いを通じて、世界が提供する全てのものが虚無であるという認識を得ました。

さらに、私達の人生はこの世で終わるものではありません。10節にあるように、いずれは、キリストの裁きの座につき、すべての人が自分の行いに対して報いを受けるのです。これは、「人は種を蒔けば、その刈り取りもすることになります。」(ガラテヤ人への手紙6:7)

パウロは、神の審判の日には、すべての秘密が明らかにされ、善悪が完全に公平に測られ、それぞれの人が自分の行った善悪に対して報いを受けるということを知りました。

彼が福音をヨーロッパ全体に広め、信じる必要がないとされる他の国の異教徒に対して説得を続けたのは、主であるイエス・キリストが復活したという事実と全人類に対する裁きを知っていたからです。

もし伝える価値がなかったのであれば、彼は自分が住み慣れた土地に留まり、そこで平穏な生活を送ることを選んだでしょう。自身の生活を犠牲にしてまで福音宣教に出かけることはなかったはずです。しかし、ダマスコ途上での出来事が真実であるという認識から、パウロはユダヤ人、そしてその後の異教徒に福音を伝える必要性を感じたのです。

私たちは、パウロほどの経験や知識を持っているわけではありません。しかし、自分がイエス・キリストを信じるということは、自分自身から出たものではなく、神からの恵みであるということを理解しています。この恵みはただで受け取ったものではありません。

イエス・キリストの十字架の死という尊い犠牲によって、私たちの命というものが与えられました。この事実は変えることのできない奇跡であります。

皆様は、私たちに与えられたこの奇跡をどのように捉えているでしょうか。自分の平安のためだけにイエス・キリストの救いを受け入れているならば、それはもったいないことです。ぜひ、自分に与えられた信仰の奇跡を認識していただきたいと思います。

うわべの信仰に対して


コリントの教会には、使徒パウロが本当に使徒であるか疑う人々が多くいました。そのため、教会の信者たちはパウロを心から使徒として認めることができませんでした。

12節を見ますと、『うわべのことで誇る人たち』という人物たちが記されれいます。この人たちはコリントの教会に入り込んだ偽教師たちのことでした。偽教師たちは、パウロの使徒性に対して疑念をもたせ、パウロから分離させようと扇動しました。そうした教えを吹き込まれたコリント教会の内部は深刻な分裂の危機にありました。

パウロ自身は、コリントの教会のすべての人が彼を使徒として認めてほしいと期待していました。しかし、彼が求めていたのは自己推薦や賞賛ではありませんでした。彼は、自分を偉大な人物として評価してほしいわけではなかったのです。

この手紙の大部分は、彼の動機を明確にするために書かれました。彼らがパウロの本当の動機を理解すれば、イエスから与えられた使徒としての権威を受け入れることができるでしょう。そして、「外見を誇る人々に対する答えを持つことができる」のです。

コリント教会の偽教師たちはパウロに反対し、旧約聖書の律法に従うべきだと教えていたユダヤ教徒であった可能性があります。彼らはパウロの肉体的な弱さを指摘して批判していたこともあったでしょう。

パウロはコリントの信者たちに自分の動機を思い出させることで、彼らが彼を批判する人々に対して弁護できるようにしました。その結果、信者たちの主への信仰が強化され、神に敵対する者たちを黙らせることができたのです。

偽教師の騙す手法について

ところで偽教師は、どういった人物像であったのかと言いますと、彼らは外見や印象を重視します。また雄弁かつ立派であったことでしょう。コリントの教会の設立したパウロを追い落とすために使ったテクニックとしては、そうした外見と印象でした。

この立派な外見の偽教師を現代に置き換えると、次のような状況が考えられます。

  • 会員数:教会の成功が会員数の多さで判断されがちです。多くの人が集まる教会が必ずしも正しい教えを広めているとは限りません。

  • 献金:献金の額が信仰の深さや神の祝福の証とされることがあります。これにより、経済的な負担を感じる信者が増える一方で、真の信仰が軽視される可能性があります。

  • 会堂の規模:大きく立派な教会が成功の象徴と見なされることがあります。しかし、外見的な豪華さが内面的な信仰の深さを表しているわけではありません。

  • 尊敬:社会的な地位や外見、SNSでの承認が重視されることがあります。現代では、オンラインでの影響力が信仰の深さと誤解されることがあります。

このように、偽教師や一部の教会が外見や形式を重視し、会員数、献金、会堂の規模、尊敬などを強調する傾向があります。私たちはこれらの要素を信仰の安心材料としがちですが、偽教師はその弱点につけ込み、私たちを誤った方向に導くことがあります。彼らは純粋な心よりも、外見や形式を強調するのです。このような状況に対して、私たちは以下の点に注意する必要があります。

  • 会員数に惑わされない:数ではなく、信仰の質を重視する。

  • 献金額に依存しない:経済的な豊かさではなく、心の豊かさを求める。

  • 会堂の規模を基準にしない:外見の豪華さではなく、内面的な信仰の深さを大切にする。

  • 尊敬の形式を追わない:外見的な評価よりも、真実の信仰を追求する。

これらの点を踏まえて、私たちは外見や形式に惑わされることなく、純粋な信仰を持ち続けることが重要です。

私たちを突き動かすものは


Ⅱコリント人への手紙5:13
もし私たちが気が狂っているとすれば、それはただ神のためであり、もし正気であるとすれば、それはただあなたがたのためです。

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

偽教師たちは、パウロが狂っていると中傷しました。彼の超人的な宣教活動や信仰生活における熱心さを貶めようとしました。具体的には、パウロが経験した幻や啓示を取り上げ、それを狂気の兆候として語りました。彼が神から直接受けた啓示やビジョンを、精神的に不安定な行動として描こうとしたのです。

パウロが恍惚状態で異言を語ることや、霊的な恍惚に陥ることを、狂気や異常な振る舞いと見なしました。これにより、彼の霊的な体験を信頼できないものとして扱いました。

また、現代においても顕著なことは、信仰に熱心な人々を「狂信的」として描き、彼らの信仰生活を冷笑します。

このように、偽教師たちは純粋な信仰を持つ人々を中傷し、その信仰の価値を貶めることを狙います。私たちはこれらの中傷に対して注意を払い、真の信仰の価値を見失わないようにすることが求められています。

現代科学の時代のクリスチャンからすると、パウロの様子を知ると驚くこともありますが、パウロがなぜそうであったのかは、下記の御言葉が参考になります。

Ⅰコリント人への手紙
14:18 私は、あなたがたのだれよりも多くの異言を話すことを神に感謝していますが、
14:19 教会では、異言で一万語話すよりは、ほかの人を教えるために、私の知性を用いて五つのことばを話したいのです。
14:20 兄弟たち。物の考え方において子どもであってはなりません。悪事においては幼子でありなさい。しかし考え方においてはおとなになりなさい。
14:21 律法にこう書いてあります。「『わたしは、異なった舌により、異国の人のくちびるによってこの民に語るが、彼らはなおわたしの言うことを聞き入れない』と主は言われる。」
14:22 それで、異言は信者のためのしるしではなく、不信者のためのしるしです。けれども、預言は不信者でなく、信者のためのしるしです。
14:23 ですから、もし教会全体が一か所に集まって、みなが異言を話すとしたら、初心の者とか信者でない者とかが入って来たとき、彼らはあなたがたを、気が狂っていると言わないでしょうか。

新改訳改訂第3版 © 一般社団法人 新日本聖書刊行会(SNSK)

現在の感覚からすれば、パウロの異言を想像しますと驚きもするものですし、偽教師たちがパウロを怪しいと訴えたことも理解できないわけではありません。もし、自分がパウロのそうした姿を見たら、つまずくかもしれないと思うのです。

なぜ、こうしたパウロに見られた異言等の奇跡は、行われたのでしょうか。それは、弟子たちをキリストに導き、困難を取り除き、信仰を強めるために神の力によって行われたものでした。

パウロの熱心の背景

パウロはこうした偽教師たちの中傷に対して、自分がそう見えるのは神に対しての熱心のゆえであり、信徒への配慮では正気であると主張したのです。なぜならパウロを突き動かしているのはキリストの愛だからでした。

十字架のイエスがメシヤだと知った時、パウロはキリストにある新しい自分を理解するに及びました。キリストの死はすべての人のための身代りの死であり、全人類は罪に死んでいるということが明らかにされたことによって、その意味ですべての人が死んだという結論に至りました。

5:14 というのは、キリストの愛が私たちを取り囲んでいるからです。私たちはこう考えました。ひとりの人がすべての人のために死んだ以上、すべての人が死んだのです。

そして、すべての人が生きるためには、十字架による救いが必要なのです。イエス・キリストを信じなければ、私たちは、霊的な死を迎えているのです。本当のいのちである霊的ないのちを生きるためには、イエス・キリストを自分の救い主として受け入れなければならないのです。

イエス・キリストを信じたクリスチャンは、もはや自分のいのちは自分のものではなく、自分のために死んで復活し、人を救う力ある方となって下さったキリストのためなのです。パウロの神への熱心と人への奉仕は、このキリストの愛に動かされてなのです。

5:15 また、キリストがすべての人のために死なれたのは、生きている人々が、もはや自分のためにではなく、自分のために死んでよみがえった方のために生きるためなのです。

偽教師たちは、人間の常識や規模、人格的な素晴らしさ、納得できる良識に基づく行為を通じて、立派な人格を装っていました。しかし、彼らは神を利用して自分を高めるという欺瞞を行っていました。パウロはその欺瞞を明らかにし、私たちがそれを見抜き、惑わされないように教えました。

一方で、パウロは、自分の生命が自分自身のものではないと認識し、自分を突き動かすのはキリストの愛であると主張しました。そして、キリストの愛に応える人生を全うしました。これこそが偽教師との大きな違いです。

私たちも、自分自身という束縛から解放され、神の愛の中に飛び込むことを選びました。こうして私たちは、神の愛に応える人生を全うし、真の自由と喜びを見出しました。神の愛の中に飛び込むことで、私たちは本当に自由になり、深い喜びを得ることができるように選ばれています。

神の愛の中に飛び込むことを選んだ私たちの歩みは、キリストの愛に応えることであり、これこそが真の自由と喜びをもたらします。神の愛のただ中に飛び込み、共に新たな希望と力を見つけましょう。ハレルヤ!

適 用


  1. 神を正しく恐れよう
    神への恐れは、怖がることではなく、自分自身と自分の行いを再評価する機会を提供します。自分がどの程度神を恐れ、キリストの愛に応える生き方をしているかを考えることができます。

  2. 信仰を深めよう
     パウロは信仰を深めるための道筋を示しています。イエス・キリストを信じ、彼を喜ばせる生き方を追求することで、真の信仰生活を送ることができます。

  3. 外見に惑わされない
    パウロは、外見や形式を重視する偽教師の欺瞞を見抜く力を与えています。これにより、真実の信仰と偽りの信仰を見分けることができます。これは、信仰生活において非常に重要なスキルです。

パウロの手紙の11節と12節には、「主を恐れる心」と「うわべのことに対する誇り」の二つの主題が述べられています。パウロは、神への恐れと信仰の真実に基づいて行動し、偽教師のうわべの教えに惑わされないようにコリントの信者たちを励ましました。彼のメッセージは、私たちにとっても重要な教訓です。私たちも、神への恐れと誠実な信仰を持ち続け、外見や物質的なものに惑わされず、真実の福音を広めていくことが求められています。