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上京と、一人暮らしと、現実と-第2話「吉祥寺はあなたの住みたい街ですか」

第2話 田村翔平の場合

 田村翔平は、昨年の8月に国家公務員の合格通知を受け、春から本庁舎での勤務を想定している。学生時代は福島の大学に実家から通っていた。大学時代はバンド活動とカフェのアルバイトに勤しみ、後半からは公務員試験の勉強で日を明かした。念願叶い、第一志望の省庁職員、生まれて初めての一人暮らしとなった。曇り空の下、そんな彼が出した条件は以下の通り。

・吉祥寺
・家賃7万円以下
・駅から近い方がいい
・南向き
・バス、トイレ別
・屋内洗濯機置き場
・オートロック
・部屋は広い方がいい
・職場から遠くても静かなところ

 と、彼の隣の女性が話してくれた。

 ・・・お前は誰だ。

 そういえば母親だと名乗っていた。22年間住んでいた実家を初めて出て、独り立ちをする我が子を心配し、福島から遥々キャリーバッグを引いて、同行してきたのだ。
 気持ちは理解できなくもないが、お母さん。住むのは翔平で、あなたじゃないのよ。翔平は不満げなようではあったが、それでも初めての都会での一人暮らしの不安からか、スマートフォンの画面と私が示した都内の路線図に目を落としていた。


 吉祥寺、それは風が通り抜ける街。

 吉祥寺は東京都武蔵野市に位置し、その中心である吉祥寺駅はJR(中央線快速)と京王井の頭線が入線しており、東京・新宿・渋谷までそれぞれ一本、東京までをおよそ30分で繋ぐこの駅は、立川・町田と並び、東京の西の玄関口として名高い。

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 駅からすぐの「井の頭恩賜公園」は、土日になると多くの家族連れやカップル、学生で賑わう他、春には桜の名所として、全国から観光客が訪れる。

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 また「ハモニカ横丁」は、夜には仕事帰りのサラリーマンや学生で、昼間とはまた違った熱気を見せる。昼飲みも出来るため、駅前の雰囲気からは想像できないディープな側面も見ることが可能で、そうした「安らぎ」と「陽気」を兼ね備えたこの街は、今なお根強い人気が残る。

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 過去には住みたい街ランキングで何度も1位を取った街である。東京に住むなら吉祥寺、と考えている地方の人間は未だに多い。


 ーー吉祥寺に住むのが憧れなんですー
翔平の母親はそう言ってバッグから、観光本を取り出して見せた。翔平は熱心に路線図を眺めている。

 吉祥寺駅付近の価格帯は、ワンルームで7〜8万円と、23区内の物件と較べると、幾分か安い部類に入る。恐らく家賃7万円以下の物件も簡単に見つかるだろう。実際探してみると、家賃7万以下で、南向きの、バス・トイレ別、駅近の物件がいくつかヒットした。画面上の物件を見せながら、2人の様子を伺っていると、母親は食い入るように見つめている一方で、翔平はいまだ路線図を眺めている。

 「吉祥寺だけが住みたい街ですか?(マキヒロチ/講談社)」というコミックがある。その一場面を思い出しながら、母親が何か尋ねてきているのを右から左に流しつつ、翔平の4月からの生活に思いを馳せていた。

 ーー翔平くんは、東京で何をしたい?ーー

 思わず口をついて出た言葉に、翔平が驚いた様子でこちらを見ていた。
新社会人、初めての一人暮らし、初めての東京と、初めてづくしで、インスタグラムに出てくるようなカフェ巡りがしたいという。福島でもカフェでアルバイトをしていて、貯めたお金を使って、たまに東京へも来ていたようだった。
 そんな翔平と、東京の満員電車、特にJR線は想像を絶すること、仕事のこと、東京の過ごし方の話などをしていると、ふと口を開いた。

 ーー四ツ谷が気になっているんですーー


 四ツ谷は東京都新宿区/千代田区に位置し、その中心である四ツ谷駅はJR(中央線快速、総武線各駅停車)、東京メトロ丸ノ内線、南北線が入線しており、東京も新宿も渋谷も全て最短10分以内で結んでいる。

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 四ツ谷は、赤坂御用地に程近いオフィス街で、「君の名は」で一躍有名となった須賀神社の最寄駅である。

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 また頻繁にメディアで見かけるシェフ三國がオーナーシェフを務める「HOTEL DE MIKUNI-オテル・ドゥ・ミクニ」も迎賓館そばの住宅街にひっそりと佇んでいる。

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 ーーなぜ四ツ谷なんだろう?ーー

 聞けば、翔平が重要と思っていたのは実は以下の2点だったらしい

 ・残業が多いと聞くので、職場から近い方がいい
 ・新宿とか渋谷で終電なくしても帰れるようなところが良い

 それを聞いた母親は、四谷は治安が良くなさそう、自然が少なそう、家賃が高くて払えないんじゃないの、商店街は買い物に便利だよ、周りの人も冷たくなくて暖かいと思うよ、と翔平に説得を試みていたが、当の本人は四ツ谷が無理なら広尾が、などと言っている。吉祥寺から翔平の勤務先である霞ヶ関は、四ツ谷乗り換えで約30分。初めての満員電車に耐えられるかの方が不安な様子だった。

 基本的に「築年数」と「バス・トイレ別」の条件さえ取り下げてもらえれば、都内で7万はどこでも見つけられる。

 そんな翔平には以下の物件を提示した。

 ・家賃7万3千円ー共益費2000円
 ・南西向き
 ・ユニットバス
 ・駅徒歩7分
 ・築40年(新耐震、昨年リノベーション)
 ・1K  17.5平米

 母親は、オートロックじゃないことに不安を感じていたが、大家さんが最上階に住んでいることを伝え、何かあれば頼ることも出来る旨伝えると、しぶしぶ納得した様子だった。

 家賃についても、通勤交通費を考えたらほぼ相殺されるので、少し予算オーバーしていることに納得していただいた。

 何かビジョンがあって、住みたい場所を決めるのと、なんとなくのイメージで決めるのとでは、その後の生活は全く異なる。
 賃貸においては、エリアを選択してから、物件を探すことが通例であるが、どういう暮らしをしたいか、もしくはしたくないか、を念頭に置いたとき、エリア選びは最も重要な要素であるにも関わらず、最も軽視されやすい要素である。

 どこに住みたいか、を人は考える。
 どこに住むべきか、を人は考える。

 最も重要なのは、どう住みたいか、なのだ。


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