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既晴『月と人狼』

題字:既晴

1

 やっとの思いで突き刺さるような草叢を這い上がり、県道一八五号線沿いに出た。よろよろと歩く。暗いアスファルトに倒れ込みそうだ。
 へとへとな左半身を起こし、曇った眼鏡のレンズから、月光を頼りに腕時計を見る。ウインドブレーカーの袖が長過ぎて手が半分隠れていることに、この時になって気が付いた。汗だくになった指を震わせながら袖を捲し上げる。
 しかし、腕には時計が見当たらない——腕時計は?
 慌てて思い出してみる。金属製のバンドが長過ぎて、駈けずり回っているうちに腕から滑り落ちたのも気が付かなかったなんてことあるだろうか。どこへ行ってしまったんだ。
 緊張が走る—— 腕時計がなきゃ絶対に駄目だ!
 這い上がってきた草叢を慌てて振り返った。もちろん、そんなことをしても見付からないことぐらい分かっている。と、その時、肘に何か引っ掛かっている感じがした。
 すぐさま湿った袖口に右手を潜り込ませると、やはり腕時計だった。ごそごそと弄り、遂に肘の深みにはまっていた腕時計を取り出した。
 皎潔な月明かりの下、透き通る文字盤と、汗まみれの金属製バンドが光る。
 予定していたより八分も早い!
 ——ようやくひと息つける!
 ゆっくりと息を整えながら、汗の滴る頭を上げ、夜空に浮かぶ宝玉のようなキラキラと輝く満月を眺めた。屏東の田舎の月がこんなにも明るかったとは。満月は、人工光に邪魔されることなく漆黒の天の果てにぶら下がり、都市のそれよりも大きく、同時にまた恐ろしくもあった。次第に星は淡くなり、満月の寒光がより一層私を怯えさせた。
 満月は人の心を映し出す鏡のようだ。久しくこんなにじっくりと月を眺めていなかったと、この時思う。レモンイエローの月面の煌めきが重なり合う微妙な陰影を見ていると、自然と声を出して笑ってしまった!
 なぜなら、あの痛ましい教訓を忘れるわけにはいかないから。私の人生の中で、得意になった時にすぐさま現れる、まだ喜ぶべき時じゃないのに私を喜ばせ、突然めちゃくちゃな状況にして、最後には一番悲惨な結果に陥れる、一種の呪いのようなものを。本当にこれ以上同じことを繰り返すわけにはいかない。
 今、私の人生にとって最も重要な時、失敗するわけにいかない。
 ——2時間前、人を殺した。
 殺した。夢か幻の中でしか果たせなかった願望が、本当に実現した!
 ——完全犯罪!
 こんな渇望は、ミステリー作家が書く「感情の押し売り」、ドラマティックなフィクションだと思っていたが、本当に刻一刻と、私の胸の中にこんな狂喜が沸き起こるとは!
 ましてや、私はミステリー作家だ。
 人の心の中には、必ずや「どうしても許せない」対象がいて、潜在意識の中で何度も殺しては現実の生活と折り合いをつけているものだ。私の心の中のその「どうしても許せない」という対象が、費恆之。
 費恆之、この名前を思い浮かべるだけで心筋梗塞が起きそうだ。私の三十年の人生で、いつも楽しい最中にこの名前が現れては、永遠に消えない傷跡を残忍に残していった。
 月面の陰影は、私に一つ目の傷を思い起こさせた。
 今から十年前、費恆之と私は大学の文学部のクラスメイトで、寝食を共にする仲の良いルームメイトだった。
 あの頃、私たちは一日中ベッドルームにこもって小説を読み、意見を交わし、ノートを交換して、お互いの創作アイディアを披露して高め合う仲だった。図書館に行っては一気に何十冊も本を借りて、1週間で読み終わり、週末にはお互いの感想を伝え合って、観点の違いを討論した。
 そんな刺激の下で、私のミステリーに対する興味は深まり、一冊目の長編小説の構想もますます熟してきた。私は、自分が台湾ミステリー史上における偉大な作家になる日が来ると、深く信じていた。
 費恆之と知り合い、私は、創作の旅における気付きと励ましをくれる人生の良き友に出会ったと思っていた——しかし、予想に反し、最後には裏切られた。
 私がストーリーの背景に思い悩んでいた時、費恆之は原稿を抱えて来て、これは文壇の道に進む準備の「叙情イメージ」小説だ、お前の意見を聞かせてくれと言った。そして、プロローグを読んで何かがおかしいと感じた——
彼と討論してきた、正に今私が構想中の、処女作となる長編小説のアイディアが、彼の「叙情イメージ」小説の中に書いてあった!
 なんてやつだ、私のアイディアを盗みやがった!
 更に憎らしいことに、私が心血注いで脳みそから絞り出した、あっと驚くトリックを、彼は濃縮させて、プロローグの幼稚園の先生と子供のなぞなぞをするシーンの中に落とし込んだのだ。更に、もっともっと憎らしいことに、ストーリーの中の子供たちが皆トリックを言い当てた……くそっ……くそっ……くそったれ……
 台湾ミステリーの歴史を全て私が塗り替えるはずが、こうして、費恆之に弄ばれた!
 私は、二ページも読み終わらないうちに、茫然自失した。費恆之は私の反応を見て、彼の素晴らしい才能に驚いて声も出なくなったのだと思っていた。
「藝仁、ありがとう、お前のアドヴァイスのおかげで、こんなにいいストーリーが書けたよ!」
 何がアドヴァイスだと! それは私のアイディアだ!
 私の心の叫びは全く届かず、彼はすぐさま文学賞に応募することに決めた。
 結果、費恆之の作品は見事大賞を受賞した! なんてこった! 授賞式には、彼の悪行を晒す準備をして私も行った。しかし、私が会場入りするや費恆之に先手を打たれるとは。
「こちらが大学の親友の簡藝仁君、僕の創作活動の中で、彼は欠かすことのできない存在です! 彼も来てくれるなんてとても嬉しいです!」マイクを奪われた私は、気まずそうに挨拶するしかなかった。しかし、私の心の中には、ぽたぽたと血が滴り続けていた。
 あの時のショックのせいだろう、私は新しいトリックを考え出すことができなかった。心は冷え切り、もはや以前のストーリーを改編して、ネットに小説を連載することしかできなかった。しかし、ネット上は「叙情イメージ」小説ブームの便乗作で溢れ、何千万人もの費恆之たちが私の生存空間にひしめいている感覚に襲われた。あああ。
 しかし、その時、私の初恋の人が現れた! 快活で純潔で上品な可柔からの一通のEメールには、溢れんばかりの彼女のミステリーに対する情熱と、そして、私に対する期待がしたためられていた。彼女の励ましの下、私の才能は再び開花した。懸命にキーボードを叩き新作を書く、今度の新作長編は、鬼に金棒超絶レベルの作品になるだろう!
 ネットを通して、可柔と私は何か月かやり取りをした。私は彼女に電話番号や写真をお願いしたが、断られた。彼女は、恥ずかしいし、ただの一読者に過ぎない自分が大好きな作家と近付き過ぎるのが怖いと言った。いやあ、なんて可愛い! 最終的には、私の作品が完成したら会う約束をした。
 私は新作を猛スピードで完成させて、はやる気持ちで、可柔にEメールを書いていた。彼女をデートに……そう、当たり。ちくしょう、費恆之がまた現れた。
 月面の陰影は、私に二つ目の傷を刻み込んだ。
 あの時、私たちは既に卒業して、彼は文壇の新しいスターになって小説に専念し、高級な賃貸マンションに住んでいた。私は、ライターの仕事を見付けて安定した収入を確保し、ローンで団地のワンルームを買った。
 彼から一緒に住まないか、家賃を多めに払ってあげるからと言われたこともあった。おい、私がお前にアイディアを奪わせ続けると思うか? しかしながら、私は友達が少なくて、家に訪ねて来るのは彼だけだった。
 それがあの期待と興奮で冷静になれなかった夜の出来事。費恆之が私の家のドアチャイムを鳴らした。酒の匂いをプンプンさせて、入った途端に倒れ込み、うめき、ひとりごとみたいな挨拶をしているのが聞こえた。「文学界のエリート」たちにおごってもらったんだろう。
 過去の悲惨な経験から学び、ミステリーの新作の内容は一切費恆之に話していない。彼は可柔の存在すら知らない。
 費恆之を追い払わなければEメールに集中できない。しかし、彼は酔い潰れていて起こせないので、コンビニで酔い醒ましドリンクを1瓶買ってくるしかなかった。もう少しで可柔からいい知らせが来るかと思ったら、自然と笑みがこぼれて、口笛を吹いてしまった。
 軽やかな気分で、酔い醒ましドリンクを買って、時間を見ると三十分以上も経っていた。その時になって、費恆之はもう起きたかもしれない、書斎に置いてある小説原稿を読まれたかもしれない、可柔のために準備したプレゼントを見られたかもしれないと思い至った……不安でいっぱいになり、すぐに家に帰る。結果、ドアを開けると悶々と煙が立ち込め、キッチンから火の手が上がっていた。費恆之がリビングの床に倒れ、その手には水がなみなみと入ったグラスを持ったまま、寝ていた。
 どうしたんだ? 費恆之が水を飲もうとしただけで火災が起きた? 細かいことは考えていられない。まずは小説原稿だ! むせび、目を刺すような黒煙の中、書斎へと駆け込んで、小説原稿を取ってくる。可柔へのプレゼントなんて構っていられない!
 マンションの外へ飛び出し、振り返ると、部屋の窓から濃煙が吹き出し始めていた。心の底から費恆之を置き去りにしたい衝動に駆られたが、考え直す。もし、彼が私の家で焼死したとして、警察が私が小説原稿を取りに行ったことを知ったら、きっと私は放火罪か遺棄罪で起訴される。彼は今や有名人だし……どうしようもない、戻って、でかい太った体を運び出すしかない。
 費恆之の身長は私くらいだが、体重は2倍は下らない。引きずるのにも手こずる。路上に引きずり出した時には、既に消防隊員がたくさんいて、あと20年もローンが残っている私の部屋に向かって強烈な水を浴びせ続けていた……。
 私はこの火災のショックで、短期記憶障害を患った。パスワードから可柔のメールアドレスまで、全て忘れてしまった。どうやって彼女と連絡を取ればいいのだろう。私と将来の伴侶である可柔は、こうして費恆之によって引き裂かれた。
 更に驚いたことに……火災現場から救い出した紙の束は、私の小説原稿ではなかった! 寂しく長い夜を1人で過ごすためにプリントアウトしたエロ小説だった! 間違えた!
 費恆之は、またもや死刑執行人の破壊力で、私が再起して書いたミステリーの傑作を情け容赦なく葬り去った!
 翌朝になって、遂に費恆之は目覚めた。おかしなことに路上に寝ていた。ちくしょう、ホームレスみたいじゃねえか!
 しかしながら、彼はこんな大事を起こしておいて全く詫びる気もなく、笑いながら、わざとじゃないんだけどと言った。そして、マナー良く私と個人的に和解し、お大事にと、そそくさとまとまったお金を寄こし、さっさと行ってしまった。
 そう、金額は少なくなかったので、マンション火災の損失は賠償できた。しかし、私の人生も同時に燃え尽き、賠償金は医療費に代わった。愛を失い、自己実現の機会を失い、鬱病がひどくなり、家族は私を花蓮にある民間の療養施設に入院させて、私はそこで6年間過ごした。
 私は、台北の都会の喧騒から離れた自然の中の静かな環境に馴染んでいった。テレビもパソコンもない。ましてや費恆之もいない環境は、心の快復に大いに役立った。いつも1人で部屋にいて、好きなように文字を書く。だんだんとミステリーの創作力を取り戻し、ばらばらだった文字が、ゆっくりと短編作品になっていった。
 私は、快復したんじゃないか……
 いや! するわけがない! こんなに深い傷を負って、こんなに痛い思いをして、永遠に快復できるわけがない。
 よく見て見ると、驚いたことに、小説の中の全ての被害者が、刺殺だろうが、撲殺だろうが、絞殺、毒殺、銃殺、溺殺だろうが……全部同じ名前だった——費恆之!
 そして、犯人は全て……自分!

2

 医者が退院の同意手続きをしている時、私の人生に一筋の光が現れた。本来なら喜びを感じ、帰省して家族と集い、過去を忘れて再出発するべきだろうが、私は違った。
 私は、目には目をという残酷な道を選んだ。
 家族には、花蓮で仕事が見付かったので、ここで暮らすつもりだと嘘をついた。台北行きの片道切符を買って、六年の月日を費やして書き上げたミステリー短編集『費恆之暗殺小説傑作集』を唯一のお供に列車に乗った。これは私の生涯で最高傑作、人類が考え得るトリックを超越した犯罪トリックが書かれているのだが、出版の機会は永遠にない。
 ——実行して発表に代えてやる。
 台北に到着すると、費恆之の消息を探し始めた。しかし、探す必要などなかった。
 六年経って、費恆之は文学界の重鎮になっていた。身の丈知らずの彼は、放送界にも活動の幅を広げ、タレントとしてよくテレビに出ていた。人気があったので、どこへ行くにも注目の的。私の短編ミステリーにあるような殺人トリックは全部使えなくなっていた。
 ——殺人って本当にそんなに難しいこと?
 費恆之の前に直接現れて、久しぶりの再開を喜んでいるように装ったらどうか? と言われるかもしれない。そうしたら殺害のチャンスを伺うのが簡単になるのでは? と思う人は、人というものをまだよく分かっていない。まず、言ったと思うが、費恆之は私の人生の中で「どうしても許せない」対象で、実際どうやっても彼の前で微笑むことなどできない。ほかにも、私と彼が久しぶりに再開してしまったら、今後、彼が殺害された時、私は容疑者として警察に目をつけられてしまうんじゃないか?
 ミステリーの中で、小説家、発明家、クリエイターが殺害されたとすると、まず第一に疑うべきは、被害者はアイディアを盗作していなかったか。もしそうなら、犯人はそのアイディアを盗まれた人だということは知っておいた方がいい。私はミステリーを長らく研究してきたのだから、このことは間違いない。
 私と費恆之は、ルームメイトだった頃、常に創作について意見を交わしていた。彼が有名になったきっかけの作品のプロローグには驚くべきトリックがあった——警察がこのことを知ったら、私は費恆之にアイディアを盗まれたので殺害したと、きっと思うだろう。
 私は台北を離れて久しいし、彼の現在の生活圏にも全く関わりがない。警察が調査するのは、まず親しい関係者。花連に長く住み、彼と連絡も取らなくなった私のことまで手は及ぶまい。私はこの有利な立場を手放したくない。
 しかし、彼に近付けなければ、有利な立場であっても殺害することはできない。
 何か月待っても、実行の機会が見付からなかった。もうやめようと思って、遺書を書いてガス栓を開けた時、ある重大な出来事が起きた。
「叙情イメージ」と呼ばれる文学の先駆けとなった代表作を、ある有名監督がハリウッドで映画制作することになり、台湾、中国、香港のスター俳優が出演する予定だと、突然告知された。
 なんてこった。私の天地も引っくり返るほどの空前絶後の壮大なトリックが、映像化されて妖魔の哄笑みたいに扱われ、幼稚園の園児たちに次々と当てられるのか……
 しかし、こんなことが起きても、私は泣いている場合ではなく、笑うべきなのだ!
 費恆之は、制作を開始するその映画の脚本を担当するため、秋にはロサンゼルスに行かなければいけない。行ったら半年は戻れない。プレッシャーが大きかったのか、彼は記者会見を開いて、一切の仕事をストップすることを宣言し、映画の脚本作りのために1人で1か月間屏東の新埤にこもった。
 新埤は、屏東中部の檳榔が生い茂る小さな場所だ。過疎化が激しい典型的な農村社会。費恆之は、獅頭村の近くに平家を建てて、年に一、二回だけ、二日間ここに来て静養する。費恆之は忙しいやつで、一か月も滞在するなんてことはあり得ない。
 これは天のお恵み。今の私には、まるまる一か月間、費恆之を殺害する時間がある!
 落ち着かなくなって、すぐに荷物をまとめた。屏東から乗り換えて新埤に行くチケットを買う。そして、屏東県新埤鄉に着いた途端、想像していた完全無欠とはかけ離れた現実を目の当たりにした。
 旅館に入ると、ハリウッド映画の話題で持ちきりで、費恆之がまだ新埤に現れていないにも関わらず、メディアの記者が押し寄せ、旅館の部屋は全て満室。路上はSNG車で溢れ、まるで媽祖のお祭りのようだった。
 費恆之が新埤に入ると、記者だけでなく、観光客、物売りまで現れた。郷長までもが費恆之の来郷に、観光業へ大きく貢献してくださったと感謝の意を述べた。もしや、ここにもチャンスがないってことか?
 一方、費恆之の態度は堅く、インタビューを冷たく断り、静かな環境を非常に必要としている、脚本が書けなければ映画は作れない、そうなれば皆さんのせいですと脅した。すると、記者や観光客たちは一斉に退散した。彼はメディアや群衆を操るのもお手の物だ。
 思いがけず、費恆之が私の代わりに実行の機会を作ってくれた。
 メディアが去ると、彼らがチェックアウトしたおかげで、私は部屋が取れた。しかし、数人の記者はまだそこに留まっていた。
 涼しげな短パンに洒落たサングラスの女性アナウンサーが、白髪の旅館の社長にマイクを向けている。カメラマン、照明、更に数名のスタッフが全員同じデザインのTシャツを着て、胸には「心霊探検隊」という文字が書かれていた。
 見るからに、費恆之のインタビューのために来たのではない。
「……あの時、まだ万巒にいたよ。万巒と言えば豚足さ、一度は食べなきゃ」社長は銀歯をむき出しにしてガハガハと大笑いした。「はいよ、お待たせしたね。すぐ台北に戻るんだろう? それなら、わしの話を聞き終わってからにしてくれよ。万巒には豚足以外にも、もっと有名な所があるのを知ってるかい? そう、建功親水公園だ。ははは、騙された。まあその公園も悪くはない、行ってみたらいいさ。さあ、話を戻してと、お待たせしたね、一番有名なのは、万金聖母聖殿さ。連続殺人事件の犯人が教会の神父だったのさ。でも、真相はどうなのか、永遠に分からないだろうね……」

3

 社長が言ってるのは、「人狼殺人事件」と呼ばれている伝説のことだ。
 万巒鄉には、教皇ヨハネ・パウロ二世に「聖殿」の称号を与えた万金聖母聖殿がある。台湾におけるカトリック布教の先駆けとなった。清朝時代、日本統治時代を経て、現在まで一五〇年以上の悠久な歴史があり、非常に崇高な地位にある台湾最古の聖堂で、屏東県の三級古跡に指定されている。
 一八六一年、スペインドミニコ会の神父郭德剛は、いつも高雄の前金にあるローズカトリック教会から屏東の万金まで、徒歩で往来していた。万金の平埔族に布教し、2年後、初代聖堂を建てた。それが万金聖母聖殿の始まりだ。しかしながら、この長い布教史の中で、信仰を根付かせる困難さは、実際に体験した者にしか分からない、想像を絶するものがあった。
 当時、布教の環境は困難を極めた。台湾に移民してきた漢族は、屏東地区で土地争い、生存利益衝突をし、閩南人、客家人の集団との間で常々争いを起こした。台湾の既存の民間信仰ではないカトリックは、伝統的な漢人文化との間に摩擦が起き、どんどん波及していった。反教者、暴徒の放火や破壊、物盗り、集団攻撃によって、度々聖堂は毀損され、教会関係者の殺傷事件までもが発生した。
 しかしながら、カトリックは度重なる試練の中でも逞しく成長を続け、一八七〇年に新たな聖堂を落成後、教会は信徒に安い土地を貸し与えて耕作させ、「教会村」の形を作った。そうして教会と住民の穏やかな共生を計り、相互に支援し、カトリックの教えを家庭に浸透させて、世代継承していった。
 布教地域の治安が良くなると、布教活動も安定していった。万金聖母聖殿の神父の駐在を受け入れる先も増え、悲惨な流血事件も時の経過と共に忘れ去られていった。
 万金村の人々の信仰は敬虔で、多くの人が出生時に洗礼を受けると、主に委ね、教会のためによく働いたので、台湾カトリックの職員を育くむ最も盛んな温床となった。そして、万金村カトリック霊園は、全国の農村で一番美しい霊園だった。聖殿の信徒になり、少しのお金を支払って手続きさえすれば後の事はお任せできた。このような信徒へのサービスは、他の聖堂も揃って真似た。生まれてから死ぬまで、万金村民は一生涯、万金聖母聖殿と共にあると言っても過言ではなかった。
 二十年前、喬開夏と言う名の神父が、万金聖母聖殿を卒業後、三地門に住んで布教した。喬神父はまだ若かったが、親切で、細かいことに拘らず、教義について厳粛なことは言わずに、ユーモアを交えて聖書について語り、村民から愛されていた。
 喬神父は三地門で半年も経たないうちに、村民の信頼を得た。彼の導きの下、村民は誠心誠意神のご加護を受け、神父と村民の関係はどんどん親密になっていった。にも関わらず、神父の悪い噂が広がり始めた。
 発端は、村の一人の少女が突然行方不明になったことからだった。皆、少女は両親との折り合いが悪くて、カッとなって家を飛び出しただけだと思い、気にしていなかった。しかし、数日後、少女が失踪する前に、林の付近で神父と少女が話していたのを見た人がいるという噂が出始めた。疑い始めた村民もいたが、喬神父を信じる村民の方が多かった。喬神父はもともと皆の良き相談相手、少女は両親と喧嘩した後、もしかしたら神父に相談するために会っていたのかもしれない。村民の誰1人として喬神父を問い質しには行かなかった。なぜなら、村民は神職にいかなる汚点も認めたくなかったからだ。
 その結果、数か月後にまた少女の失踪事件が起きた。しかも、また喬神父が一人で林に入っていってこそこそと何かしていたのを見たという噂が出た。その少女は教会の仕事をよく手伝っていたし、神父との仲もよかった。今度こそ、村民は何も言わないまでも、全ての疑惑の目が喬神父に向かっていた。
 警察は調査を開始し、まず、関係者として喬神父から、何か失踪事件の手掛かりになるようなことがないか話を聞いた。しかし、失踪した二人の少女との関連を裏付ける証拠は掴めなかった。
 二人の少女の失踪事件が発生し、村にはあらゆる噂が立った。喬神父は三股、四股は当たり前だったとか、喬神父は身分を偽った指名手配犯だとか。それでも、喬神父は終始平静で、何の影響も無いかのように、日常の布教活動をしていた。
 だが、思いもよらないことに、ある夜、喬神父が夕食後、いつものように林の付近に散歩に出掛けたまま帰宅せず、行方不明になった。
 唯一の容疑者が突然失踪したことで、事件は急展開し、警察はすぐさま喬神父の自宅を捜索した。すると、すぐに書斎に重要な証拠が見付かった——喬神父の日記だった。
 日記の中には、想像できないほどの戦慄の真相が記載されていた。
 日記の文字は乱れ、線が震えている。布教活動の日常については触れず、自分が月の影響を受けていることに気付き、人狼になっていく恐怖の過程が詳細に書かれていた。最初、自分の行為を抑制することができず、女性の後をつけ回し、ストーカーした女性たちを凌辱する妄想をした。次に、意識を失い始めた。
 体の中の野獣が爆発した心神喪失の状態で、二名の村の少女を殺害し、見付からないように林の中に遺体を埋めた、とあった。
 この日記の発見が、村全体を恐怖に陥れ、村民は妻子をひどく心配した。喬神父の行動と二名の失踪した少女の遺体を埋めた場所を、警察は重点的に捜索した。日記の記載と、村人の証言によって、警察は大規模な山中の捜索をしたが、手掛かりは何も見付からなかった。
 喬神父が失踪するまでの一週間、ベルフルーツを採りに果樹園へ向かう中年の婦人が、偶然腐乱した死体の足を道端に見付けた。法医の鑑定を経て、おそらく二人目の少女の遺体の一部だろうと判定された。ぞっとすることに、引き裂かれてぐちゃぐちゃになった断面から判断できたのは、ただ——獰猛な野生動物によるものだろうということだけだった。
 警察は、切断された足が発見された地点を起点に、付近の捜索を新たに開始したが、何も得られなかった。喬神父が人狼になり、山奥に潜んで、婦女を襲う機会を伺っているという恐怖の伝説は、ますます現実味を帯びて、人々を脅かした。
 しかし、喬神父は二度と現れることがなかった。この事件は今日まで迷宮入りしたままだ。「人狼殺人事件」の伝説は、人々の永遠の悪夢になってしまった。

4

 この「人狼殺人事件」の伝説は、私を仰天させた。そして、撮影が終了し、女性記者が万巒の豚足を食べに行こうと駄々をこね始めたところで、私ははっと我に帰った。
 宿にチェックインした後、部屋の窓からSNG車と観光客がそれに続いて去って行くのを眺め、この辺鄙な村が再び静寂を取り戻すのを見届けた——
あれ、元の静けさが、本当に静か過ぎて、度を超えた静寂さだ。新埤は、若者が寄り付かず、観光資源に乏しい地方、こんな所に長くいたら何もする事がないし、すぐに噂話が立つのも仕方がないことだと思った。
 それにもし、費恆之を殺害してすぐにその場を離れたら、もっと嫌疑がかけられる。警察は費恆之が生前この付近で何かなかったか、誰か現れなかったか調査する。旅館の社長は必ず、「作家さんと同じくらいの時に来て、作家さんが亡くなったらすぐにいなくなったお客さんがいたな。ちょっと、顧客名簿を見てきますんで……これが彼の名前で……」と言う。そして、私は逮捕される。
 でも、費恆之を新埤で殺害する事が念頭にあって、諦められない。そこで、私は一か月チャンスを伺うことに決めた。
 この日から、バードウォッチャーに扮装した——ここが渡り鳥の生息地なのかどうか全く知らなかったし、バードウォッチングに適した季節なのかも知らなかったが、それでも頑なに扮装し続ける。私にはここにいなければいけないある理由があって、他の方法がないのだ。
 費恆之は、日中室内で仕事し、夕方に出掛け、来義郷の境近くまで林道を散歩し、すっかり空が暗くなってから帰宅する。つまり、私は林の茂みに隠れて、費恆之が散歩して通り過ぎるのを待つ、そうやってやっと手を下せる。こんな辺鄙な場所に目撃者などいるはずがない。唯一注意するのは、殺害後、警察の手が自分に及ばないようにするくらいだ。
 言うのは簡単だ。でも、実際すごく煩わしい。
 屏東市内に行ってスクーターを買った。スクーターに乗って何日か地理を確認して、費恆之の散歩経路、襲う地点、死体を埋める地点、逃走経路を地図に書き込んだ。
 遺体を埋める穴を掘るのは最もしんどい仕事だ。殺害してから穴を掘ったのでは間に合わないので、先に掘っておかなければならない。費恆之は太っているから、スクーターで死体を運ぶことにする。
「ロカールの交換原理」によれば,スクーターで死体を運べば、必ず費恆之に関係する微細な証拠を残すことになる。バイクを乗り捨て、万が一警察に発見されたら、犯罪の決定的な証拠になる——スクーターの持ち主は、登記上の私の名前。こんな危険は冒せない。
 だから、死体や殺害道具なんかを全部埋めるほか、スクーターも埋めてしまおうか。でも、スクーターを埋めてしまったら、どうやって新埤から離れるか、これが一番厄介だ。
 殺人の後、何もなかったかのように新埤にとどまり続けることはできない。警察が費恆之の失踪に気付き捜査を始めたら、絶対に偽バードウォッチャーの私のところに来るはずだ。私はうつ病の治療のために喧騒を離れて久しいし、知らない人と平気で会話するなんてできない。警察から揚げ足を取られたり、疑われて少しでも脅すようなことを言われたら、すぐに罪を認めてしまうだろう。つまり、私は警察と対峙する自信がない。
 しかし、もし私が歩いて犯行現場から去れば、二十キロ離れたところにやっとバス停があるから、五時間歩き続けることになるし、バス停に着いたとしても、既に深夜だったとしたら、こんな辺鄙な所で、真夜中にバスに乗る客など少ないに決まっているから、運転手は私のことをよく覚えているはずだし、警察が調査した時、運転手の証言から気付いて……
 ——一体どうすれば?
 空の色が薄暗くなってきた。費恆之を見張る時間だ。淡い紫色の空に浮かぶ月、輪郭がどんどん完全な丸に近付いてくる。
 満月が近い。私に「人狼殺人事件」の伝説を思い出せって言ってるんだろう。
 瞬く間に震えが止まらなくなった。
 遂に満月のように完全無欠の恐怖の殺人計画を編み出した!

5

 殺人計画の前半は問題がなかった——頭の中でも実地でも、何度もイメージトレーニングした。尖った石でスーパーで買ったスイカを割り、スクーターに重い砂袋を乗せて、掘った穴まで行き来したり、穴を掘ったり埋めたりして、その時になってあたふたしないように練習を重ねた。
 練習に練習を重ね、あらゆるディテールまで反射的にできるように、考えなくてもできるように—— 実際、息を切らせて我に返った時、手に握りしめた石が鮮血で染まっていることに気が付いた。
 目の前の費恆之は地に伏せ、後頭部に窪み一つが増えた。
 ——殺しちゃった。
 息をひきとる前、私のことなど見ていないさ。
 死体を眺めていると、ふと、「くそったれ」、「遂に復讐してやった」、「誰が私のアイディアを盗めってんだ」という類の、彼に殺される理由を分からせるための言葉を何か叫びたいような気になったが、声も出ない。
 実際、知る必要などない。死人は何も知らなくていいんだ。
 殺して、死体をこっそり埋める、これが殺人計画の前半。この殺人計画のキーポイントは、殺人の後、私が消え去る方法。
 ——まず、費恆之になる!
 費恆之の死体を穴の傍に置いて、彼がいつも身に付けているゴールドの時計と太縁の眼鏡を取って自分に付ける。変装の道具だ。この二つは目を引くし、俗っぽくて、彼だと見誤らせるのにぴったりだ。
 しかし、私と費恆之の体型は違う、もっとたくさん変装しなければ。
 費恆之は百キロを超える巨漢だ。私はもともと痩せている上、ここ数年の療養生活で、食べても太れず、フルオキセチンの副作用で劇痩せして、体重は五十キロにも満たない。そこで、大きいサイズのジャケットを準備して、膨らませた浮き輪を何個か中につけ、更に大量の綿を詰めて体を大きく見せた。
 私と費恆之の体格差は大きかったが、顔の形はとてもよく似ていた。私の顔は貧弱な体に反して、学生時代からひどいあだ名をつけられていたほどの「むくんだでかい顔」、略して「顔でか」だ。ずっと嫌でたまらなかったが、生まれて初めてこのむくんだ顔に感謝した。
 眼鏡の度数もさほど問題はなかった——費恆之は五百度、私は七百度。私はコンタクトレンズを外して、彼の眼鏡を掛けたら視界がぼやけたが、これからの計画を妨害するほどのことではなかった。
 犯罪計画の後半は、こうだ——
 無線タクシーを呼んで、時間になったら県道の入り口で拾ってくれるように約束する。
 私の考えでは、このタクシー運転手が「費恆之がその夜まだ生きていた」証人になる。
「費恆之」は乗車すると、運転手と話し始める。話の中で、運転手は有名な作家を乗せていることを知り、深く印象に残る。「費恆之」によれば、今休暇中で、三地門郷には「人狼殺人事件」という伝説があると聞いて、その辺をタクシーに乗ってぶらぶらしてみようと思っている、創作のインスピレーションがわくとか何とか言う。
「費恆之」は三地門に着いた後、山を散歩しに行き……帰らぬ人となる。
 数日後、台北の出版社も、映画関係者も、遅かれ早かれ費恆之と連絡がつかなくなって、警察に通報することになる。警察は費恆之の捜索願を受けて、捜査を開始、費恆之を乗せたことのあるタクシー運転手が見付かる。運転手は、あの晩乗せたお客さんは、太っていて、太い縁の眼鏡を掛けて、ゴールドの腕時計をしていた、有名な作家だと。県道の入り口から乗って、目的地は三地門、「人狼殺人事件」に関係する作品を書く資料を探しに行くと言っていたと言う。
 警察は運転手の証言から、三地門郷へ捜索に向かい、結果、道端の草叢の中から肉付きの良い腕を一本発見する。その手首にはゴールドの腕時計! 運転手の言うとおり、これがあの晩お客さんが腕にはめていたゴールドの時計。警察は腕の鑑識を進め、獅頭村の部屋にあった費恆之の頭髪のDNAと
比較し、最後にはその腕は費恆之のものだと——その切断面の具合から見て、野生動物に噛まれて亡くなったと判断するしかなくなる。
 その時、人々は二十年前の「人狼殺人事件」を思い出す。喬神父は人狼の化身だと言うことを長年隠してきた後、費恆之を殺害し、バラバラにした死体を遺棄した。警察は山の捜索を開始するが、費恆之の遺体は発見されず、人狼も見付からない。
 実際には、その切断された腕は、私が殺害した後にノコギリで切ったものだ。ビニール袋に切断した腕を包み、ジャケットの下の浮き輪の間に挟んで隠し持っていれば、タクシーの運転手には知られずに、私を目的地まで送り届けてくれる。三地門に着いたら、ゴールドの時計を切断した腕にはめて、荒れ地に遺棄し、徒歩で新埤に戻る。
 警察は、費恆之の遺体が新埤に埋まっているとは思わず、バードウォッチャーに扮した私を疑いはしないだろう。私はいつでも悠々と列車に乗って屏東を去れる。
 そう、次は、タクシーの運転手に「費恆之はあの晩まだ生きていた」、「人狼殺人事件」のことを調べに行くところだった」と言う事実を植え付けてさえおけばいい。
 ——これが私の完全犯罪!
 この程度の変装なら普通見破ることなんて難しくないだろう。しかし、私が座るのは後部座席、体の大半が座席に隠れている、運転手は私の上半身だけをバックミラー越しに見るしかない。視野は狭く、ほとんど何も見えない。しかも、夜遅く、わずかな月光がさす程度、私の変装を見破るなんてことは絶対にないさ!
 その時、遠方からほのかに薄黄色いライトが照らした、タクシーが来た!
 ドアを開けて、計画通りに右の後部座席に座る。
 淡い街灯の光の下で、私は運転手のタクシー営業登録証をちらっと見た。
彼の名前は「陳小江」、アニメか子供番組の中に出てくるような名前……吹き出しそうだ、今夜はうまくいきそうだな!

6

 後ろのドアを開け、疲れ切った体をようやく座らせることができた。
 前から吹いてくるクーラーが、私の体の熱を素早く奪い去り、緊張を解きほぐす。
 運転手を注視しながら、ドアを閉める。
「お客さん、どちらへ?」
 なぜか、運転手の語気から、彼の得体の知れない隠しきれない興奮を感じ取ったような気がする。錯覚だろうか?
 涼しく快適なクーラーを浴び、しばし葛藤した後、無理して運転手に「クーラーを止めてください」と言った。
 クーラーを止めろと言うのも、計画の第一歩だ。
 私の生理的にとても抗うが。
 今晩の気温から言っても、南台湾の地理的な熱帯気候から言っても、クーラーを止めろというのは、絶対に不合理な要求だ。しかし、私にはそうしなければならない原因があった。
 費恆之に変装するために、大小幾つかの浮き輪が私の体にくっ付いていて、浮き輪がずれないように紐で固定してある。その上に大きいサイズのジャケットを着て、浮き輪の紐を隠している。今晩の天気は灼熱、普通の人ならジャケットなんて着ないだろう。だから、この行為には必ず合理性があって、運転手に疑われない。
「は?」運転手がいぶかしがる。
「だから、クーラーを止めてくれと……」
「あなた、何言ってるか分かってます?」運転手の反応はヒステリックだ。「本当に?今の気温何度だか知ってます?三十八.五度ですよ! この数字ね、人間の体温と大して変わらないなんて言っちゃいけませんよ。実際にたった一度くらいの差ですが、クーラー止めちゃったら、僕ら小籠包みたいに熱々に蒸し上がって熱中症、熱疲労、脱水症状でショック死しちゃいますって!」
「はい、熱があるんで」落ち着いて言う。
「あ!」
 運転手はすぐに冷静になった。
 蒸し暑い気温でもジャケットを着る、一番いい理由といえば、病気だ。病気で寒気がするから。それでわざとクーラーを止めるように言った。
「だからこんな暑くても厚いジャケット着てたんですか!」
「そうです、悪くならないように」
「分かりました。分かりました」
 遂にクーラーが止まり、爽やかな風は急に消える、もうがっかりだ。
「お客さん、じゃあ窓も閉めますよ! 風通すとこ全部閉めてあげますよ!」運転手は弾丸のように話し続ける。「僕はもう暑くて死にそうですよ、だけどタクシーの運転手ってのは、お客さん第一で考えなきゃいけない、サービス業ですからね! お客さんの熱がもっと上がってしまったら、そしたら……」
「もういい!分かったよ!全部閉めてくれ!」
 私はやせ我慢して答えた。
 運転手がスイッチを何個か押すと、前後両側の窓がゆっくりと上がっていく。完全に閉まった後、ロックする音が聞こえた。これで車内は本当に密閉された。私は急に窒息しそうな気がしてきた。
「じゃあ、こうしましょう、病院に連れていってあげましょう!」
 運転手は「フェルマーの最終定理」の解法を発見したかのように、嬉しそうに言った。
「え?結構です……」
 驚いて、慌てて止めた。
「病院近いし、すぐですから!」
「ご親切にありがとうございます。でも本当に結構なんです」
「やっぱり医者に全部診てもらった方がいいと思うんですよ……」
「本当にいいんです。まだ医者にかからなきゃいけないほどの重病じゃないですから」
「でも、さっきひどく悪いって言ったでしょ……」
「私はクーラーを止めてくださいって言っただけで、ほかは全部あなたが自分で言ったんですよ!」
「ああ、そうでしたっけ。すみません」
「いいえ」
「病院に行く必要ないって自分で言ったんですからね。高熱が下がらなくて倒れても、僕には……」
「もういい、分かってます!」
この運転手うるさ過ぎ。
「お客さん、じゃあ出発しますね」
一悶着あってから、タクシーは遂にエンジンをかけて、走り出した、
「お客さん、どこまで?」
「三地門まで、霧台公道の入り口の所でいいです」
 屏東市立図書館で古い新聞記事を見付けた。霧台公道と交差する細い路上で、行方不明の二人の少女の遺体が発見されたらしく、公道の入り口からそう遠くはない。ここ数日付近の状況を調べてきたが、疑わしい場所があった。
「お客さん、こんな遅くに三地門へ?」
 運転手がこう言ってくれて涙が出そうだった。もし話が弾まなかったら、どうやってこの重要な話題を持ち出せばいいのか、悩んでいたからだ。
「実は、私は作家なんです」なんと悲しいセリフ。本当に自分が有名作家だったら、身代わりの偽物じゃなかったら良かったのに。「執筆のインスピレーションを求めていまして」
「作家さんを乗せるとは!」運転手は興奮気味に言った。「すいません、何をお書きで……」
「私……私は『叙情イメージ』小説です」これまた悲しいセリフ、「『世界末日の恋』って言うベストセラー知ってますか? あれ私が書いたんです。ハリウッド映画になる予定なんですよ」そのとおりさ、プロローグのトリックは私が考え出したんだから!
「『叙情イメージ』小説?聞いたことないな」
「いいんですよ」望むところだ。費恆之を理解する証人なんて要らない。
「僕ミステリーしか読まないんで」
「ミステリー?」意外だ! こんなど田舎で、ミステリーの愛読者がいるなんて! 「でも、ミステリーにも色々ありますよね……どんなのが好きですか?」
「一番好きなのは、もちろん本格ミステリー!」
「どうしてです?」
「本格ミステリーは、ミステリーの核となる精神を代表してますからね——
思いも寄らない謎、謎解きのスーパーテクニック。謎以外のものには、僕は何も魅力を感じませんね」
 彼の答えはユニークだ。
「一番好きなのは安楽椅子探偵。頭脳戦の最高の象徴ですよ」運転手はノリノリで続ける、「椅子に座ったまま考えて、犯人を言い当てる。なんてかっこいいんだろう!」
「でも、本格推理はもう時代遅れだって、知っといた方がいいですよ。自分が名探偵だからって、犯罪現場に入ったら、警察から公務執行妨害で訴えられます。それに、指紋、血痕、足跡なんて、DNA、毒素、気体まで鑑識が調べたら、すぐ犯人が見付かって、名探偵が存在する隙間なんてこれっぽっちもないですよ——最先端の鑑識器材は、ホームズの実験室でも買えない、ソーンダイク博士の小箱にだって入りませんって!」
「……そう、ひどいもんさ」運転手は物憂げにつぶやいた。
「今、名探偵ものの本格ミステリーを書くなら、三つしかないです」
「どの三つです?」
「第一に、自己催眠。警察が捜査に困難をきたしたら必ず名探偵に頼むと、繰り返し自分に言い聞かせる。現実の世界に構わず、気まずいと思わない。多くのミステリー作家がそうやっていますよ」
「第二は?」
「第二は、『嵐の山荘もの』。探偵、犯人、医者、警察、恋愛、貸借、怨恨、トラウマ、精神病の問題がある関係人全部を、外部と連絡が取れない場所に閉じ込める。簡単に言うと——『空間』が鑑識科学を排除するってことです」
「じゃあ、第三は…………?」
「歴史ミステリー。ストーリーの舞台を古代にすれば、鑑識科学がまだなかったり、十分でなかった時に殺人事件が発生する。携帯がない、インターネットもない、通信手段は煙をたいて伝え合うような方法しかない。言い換えれば——『時間』が鑑識科学を排除する」
「言われれてみれば、確かにそうですね」運転手は悟ったように言ってから、急に疑惑の目を向けた。「そうだ、あなたって『叙情イメージ』小説の作家さんでしたよね? ミステリーについてそんな深く研究してるなんて、思ってもみなかった!」
 くそっ! ミステリーについて話し出すと止まらなくなる。さっさと何か理由をつけないと。
「当然です。作家ってのは、世界中のあらゆる分野についてたくさん研究しているものです」
「プロ精神には参りました! さすがベストセラー作家さん!」
 危なかった。この運転手、適当に言ってる事にいちいち満足してる。
 チャンスを見て、話を本題に戻さなければ。
「本格ミステリーと言えば、三地門に行くのは、実は作品の題材を探すためなんです。20年前、三地門郷で『人狼殺人事件』と呼ばれる伝説になっている事件が発生したけど、まだ解決していないらしいんです」
「面白そうですね!」
 その言葉を待っていた!
 そこで、私はその不可解な事件について話し始めた。
 あの日「心霊探検隊」が旅館の社長にインタビューしていたのを聞き終わってから、私は至る所で関係資料を探した。すると、屏東市立図書館で新聞記事が幾つか見付かって、それを犯罪計画のヒントにしたのだった。
「当時、喬神父の日記について触れているものはなかった。警察は、人狼とか何とかは荒唐無稽な話で、喬神父が人狼に変身するなんてあり得ないと思っていた」
「でも……」
運転手が尋ねる。「日記の中には、実際に人狼に変身する様子が書かれていたんですよね……」
「警察から見ても、そのモンスター誕生の日記には手こずった。書いてあることが実際に発生した事件と完全に一致して、避けては通れないものだったから。カトリック教会は屏東で非常に重要な宗教だったし、警察が少しでもケチをつけるようなことをすれば、教会の存在を傷付けることになってしまう」
「じゃあ、どうしたんです?」
「警察は、事件捜査の最後の記者会見で、ある推測を発表したんだ——警察によって発見されたのは日記ではなく、日記のようなものだったと。実際には、小説だったんだと」
「え……」
「警察は突飛な事を言ったわけじゃない。教会の信徒たちは、喬神父は聖書を面白いストーリーにして語る事で教義を広めることに長けていたのを知っていた。そんな人だったから、小説を書いていたとしても、何も意外じゃなかった」
「じゃあ、日記に書かれていたことと、実際の事件がどうして一致していたんです?」
「一人目の少女が家出したのが先で、喬神父が創作のインスピレーションを得たのが後——それが正しい順序。しかし、村民が喬神父を事件と関係があるのではないかと疑い出したのも事実だ。実際に、喬神父と二人の失踪した少女は親密過ぎた。喬神父の、林を散歩する習慣が村民の疑いを引き起こし、マイナスイメージがついてしまって、喬神父は堪えなれないプレッシャーから、さよならも言わずに村を去って行った。二人目の少女の引きちぎられた遺体は、原因は簡単だ——二人目の少女の失踪は、家出ではなく本当に野生動物に襲われたから——熊や山猫の類だろう、遺体を持ち去ってしまったので、探しても見付からなかった」
「こうやって説明されると、すごく理にかなっている気がしてきます」
「警察は、二人目の少女が野生動物による襲撃だったと証明できていないので、この事件は迷宮入りして今に至っている」
 ここまで、私が詳細に事件のことを話すのは、運転手に深く印象付けるためだ。
 運転手は、費恆之の死因を「証言」する重要な証人で、費恆之の遺体と「人狼殺人事件」の関連性を心に刻み込んで、警察の捜査の方向を私の代わりに誤導してくれる。
「作家さん、あなたは警察が間違っているとでも言うんですか?」
 ——やった! 運転手は前のめりで話に乗ってきた。気を引いたぞ。
 車内での会話は、完全に私の思いのままだった。
「次の新作は、この事件の謎を解くために書くんです」
「作家さん、あなたはどう思っているんです?」
 ——そう、そうだ。運転手が私の意見を聞いてくれるものだと思っていた。
 まさに口を開こうとした時、バックミラー越しに運転手の視線を感じた。なぜか、違和感を覚えた。
 ——運転手は本当にただの好奇心から質問したんだろうか?
 ——それとも、私のことを疑い始めたとか?
 いや、そんなはずがない。
 ——くそっ、騙さなきゃいけないのに!
「警察の考えには一つ矛盾があると思うんです。それは喬神父の残した日記のことです」
「どういうことです?」
「警察の資料によると、日記の文字は乱れてめちゃくちゃ、狂ったような勢いで、喬神父の温厚で礼儀正しい人柄とは非常にギャップがあった」
「だから?」
「もし日記が単なる小説だとしたら、喬神父は、自然に丁寧な筆致で書いたでしょう。わざとめちゃくちゃに書いて読めないような筆跡にするなんて必要がない」
「そうだ。細かいディテールまで考えていなかった。そんなキーポイントになる手掛かりが隠されていたなんてな」
「そういう角度から見ると、ある一つの重要な事実が見えてくるんです——
喬神父が日記を書いている時、精神状態は安定していないため、筆跡が乱れた。まだパソコンが普及していなかった時代、小説を書くのには原稿用紙を使い、日記帳は使わない。この二つのものをごちゃ混ぜに使うなんてことはあり得ない」
「そのとおり」
「喬神父は、精神的な疾患を持っていたんだと思う。現実と虚構の世界が混乱していたから、日記に常識を超えた荒唐無稽な内容を記し、本人は実際に起きたことの記録だと思っていたんじゃないだろうか」
「精神疾患を?」
「実際に、人類の精神病史の本を見て分かったんだ。喬神父は『狼化妄想症』に罹っていたんだろう」
「狼化妄想症……とは?」
「自分は動物の化身であるという妄想からくる精神病は、獣化妄想症と呼ばれて、狼化妄想症はその中で最も有名だ。古代人は、動物に憑依されたと考えていた。文化や地域によって、その動物が違っているが、例えば、中国では虎、日本では狐があります。聖書にもバベルの塔、空中庭園のバビロニア国王ネブカドネザル二世が、7年もの間、牛に取り憑かれていたと記載されています。
 狼化妄想症は、患者は、自分は狼に化身すると幻想を抱き、野性的な行動を起こし、暴力を振るい、果ては生肉を食するための狩りをし、殺戮の残忍さを楽しむ。欧米では古くから狼男伝説があります。もとは小説家の想像だったものですが、今ではたくさんの学者から、狼化妄想症は、実は多毛症が起因となって伝説に変わったという指摘がなされています。この種の精神疾患は、発作がずっと続くわけではなく、ある種の条件を満たした時にだけ、患者の中の野性が爆発して起こるんです」
「……どんな条件ですか?」
「医学文献によると、狼化妄想症は満月と関係があると。伝説の中で、狼男は満月の夜に変身します、実はこれこそが狼化妄想症が頻繁に発症する時期で、疾患者の情緒、生理的な状況が月の引力の影響を受けて、劇的な変化をもたらされているんです。
 アメリカの医学博士アーノルド・L・リーバーは、殺人、強盗、暴行などの暴力的な事件を調べて、満月になると劇的に件数が増加する現象を見付けました。有名な連続殺人犯チャールズ・ハイド、切り裂きジャック、ボストン絞殺魔、サムの息子,彼らの犯罪の大半が満月の夜に起きています。
 リーバー博士の『バイオタイド理論』によれば、自転する地球の周りを月が回り、月の引力は地球の潮の満ち引きに影響します。人体の八十パーセント以上は水分なので、体内にも『潮汐作用』があって、同じように月の満ち欠けに影響を受けます。月の引力は人体の細胞の水分バランスに影響を及ぼし、緊張とプレッシャーを引き起こして、暴力行為に及ぶ確率を上げるということなんです」
「素晴らしい理論!」
「喬神父の事件を再検討すると、二人の少女が失踪した日から、喬神父が失踪する日まで、この三日間はちょうど暦上満月に近かった。満月がこの事件に影響しているということが言えるでしょう。
 理性的で、自制心のある喬神父に、満月によって不可思議な変化が起こる。敬虔なカトリックの彼が、突然好色になり、血を求める罪悪感と恐怖が、更に幻覚のような妄想を引き起こさせた。誰にも話を聞いてもらえない状況の下で、日記に感情をしたためて平静を保つしかなかったのでしょう。これが日記の筆跡が乱雑だった原因です」
 タクシーは満月の下、林道を高速で走り、このストーリーを語る私をまるで冥界の妖怪になった気分にさせた。
「一人目の少女は、両親との関係が良くありませんでした。彼女が喬神父と私的に相談するうち、狼化妄想症の症状はひどくなり、遂に衝動を抑えきれなくなって少女を殺してしまった。しかし、少女は家出しようとしていたので、彼女が失踪しても誰も疑われる事はなかった。
 ですが、喬神父が二人目の少女を殺害した後、警察は正式に林の捜索を開始した。良心の呵責に苛まれた彼は、狼化妄想症が再度発症しそうになった時、村を離れる決意をして深い山奥へと消え、村民をこれ以上傷付けないようにした」
 運転手は何も言わず、静かに両手でハンドルを握っていた。
「当時、喬神父は修道院から卒業して間もなく、二十数歳だった。年齢から考えて、喬神父が今もし人間として生きていれば、体力もある壮年の成人男性になっているはずでしょうね」
 遂に、私は決定的な最後の一言を発した!
 私の最後の一言は、喬神父がまだ生きていて、山奥で二十年間過ごし、湧き水を飲んで、生肉を食べるということを暗示した。この先、費恆之の遺体が警察に発見されて、喬神父が唯一の犯人だったとして——警察は費恆之を乗せたことがあるタクシーの運転手を捜し出し、運転手はきっと一言目に「あの『人狼殺人事件』の伝説と関係があるんじゃないか……」と証言するだろう。
 それが私の目的。
 次は、タクシーが私を目的地まで連れて行ってくれさえすれば、成功だ! ——完全犯罪!
「作家さん、三地門にそんな恐ろしい伝説があるっていうのに、怖くないんですか?」運転手が突然言った。
「それは……」聞かれると思っていなかった。「ただの大昔の伝説、何も怖くないですよ」
「こんなに遅くに、一人で行くなんて、ぞくぞくしないんですか?」
「小説のネタを集めるためさ、そんなことまで考えない」
「でも、さっき言ってましたよね、喬神父がまだ生きていたら、今きっと壮齢だって」
 ——うるせえ、今そこを突っ込むな。
「あ……そう、そんな話もしたっけな……」
「喬神父に出くわしたらどうするんです?」
「そんなわけないだろう」運転手をなだめるように言った。「もう何年も現れていないんだから」
「でも……その話聞いたら……」運転手は声を震わせた。「怖い…おっと……足が震えてきちゃった……」
「嫌だな、落ち着いてください」
 タクシーはゆらゆら揺れ始めて、思わず手すりにつかまった。
「三地門に行くのはやめましょう、いいですね?」
「もう向かってしまっているのに、引き返したくないな」
「ならこうしましょう、あなたの家まで送ります、明日の朝また迎えに来ますから」
「ダメだ、ダメなんだよ!」焦って言った。「今行かなくちゃ!」
「——どうして今じゃなきゃ?」
 運転手が不意に訝しがった。
「だって……だって……」理由をこじつけた。「物書きにはインスピレーションが大切なんだ。今まさにビビビッと来てるところなんだ、絶対に今行かなきゃ! 明日行ったら、それがなくなっちゃうんだよ。私の作家生活のため、重要な作品のために、運転手さんお願いだ、連れていってくれ!」
「それなら、自分で運転したらどうですか?」運転手は受け入れがたい提案をしてきた。「座席を代わりましょう」
「え……ちょっとちょっと……その……」頭が痺れてきた。座席の交換は絶対にできない。何とか断らなくては。「そうそう、さっき病気だって言っただろ、な? 病人に車を運転させるなんて、危険なことですよ」
「でも……本当怖いんで……」
「運転手さん、本当にそんな怖がる事じゃない、ただの人狼伝説でしょ!」
「そうですね!」
 運転手は突然静かになって、何事もなかったかのようにしている。彼の目まぐるしく変化する情緒の波は、実は演技なんじゃないかと疑ってしまう。
「作家さん、面白いストーリーですね。特に狼化妄想症の推理は、すごい説得力があります」運転手は一息置いてから言った。「でも、僕も推論があるんですよ、聞いてくれます?」
「……どうぞ」もう断る気力もなくなっていた。
「村民の憶測や、警察、作家先生であるあなたの推理も、どれも同じ証拠に基づいています」運転手は私の悲壮感に気付いていないようだ。自分に言い聞かせるように言う。「本件の鍵となる証拠は全部で四つです。一つ目は、神父は若い女性から人気があったこと、二つ目、深夜の森林で何かしていたのを目撃されていること、三つ目は、人狼に変身する様子が記された日記、最後に、野生動物に噛みちぎられた跡だらけの少女の遺体です」
「そうか」
「この四つの証拠の中に、決定的な証拠が一つあります」
「……どれが?」
「日記です。日記の内容をどう解釈するかで全て推論できます。もし日記が事実だったとしたら、喬神父が犯人。もし日記が小説だったとしたら、喬神父は犯人ではない。しかし、この日記は喬神父本人が書いたものなのかどうか誰も疑いませんでした。実際、日記の乱れた筆跡から、果たして本当に喬神父が自分で書いたものなのか知るよしもないんです。書いたのが人狼なので、筆跡を確認できないというのが正常な判断です。
 でも、喬神父が書いた日記じゃなかったとすれば、喬神父は犯人ではないことになる。警察の推論——日記の内容はフィクションだったとしても、結論に違いはありません。
 ここが事件の一番面白いところで」
「どういう意味?」
「実際、日記は心理的な落とし穴になりました。日記を偽造した者は、村民や警察に、喬神父が犯人かどうかということに注目させておいて、ある隠し事から目を背けるのが目的だったんです」
「どんな目的?」
「遺体の隠し場所です」
 運転手の話は私を押し黙らせた。頭の中がぐちゃぐちゃだった。
「日記が偽造だったと判断すれば、他の三つの証拠は、反対の意味合いを持ってきます——これは、怨恨に満ちた犯罪計画だと思います。喬神父と二名の少女は親しかった。そこに目をつけた犯人が彼女たちを殺害して、死体を隠す。相次ぐ失踪に、喬神父はひどく心配します。恐らく何か手がかりを発見して、深夜にこっそり調査することにしたんでしょう。しかし、真犯人は、村民を誤解させて喬神父を陥れ、彼に疑いの目を向けさせました。喬神父は少女たちを探し出すために、それにも動じることなく最後まで態度を貫き通したんです。
 最後に、真犯人は喬神父が林に入って一人でいるところを殺害し、日記に人狼に変身する様子を書き足してから、道端に少女の遺体を遺棄し、喬神父を少女殺害事件犯の身代わりにしました。
 明らかに喬神父は被害者です。しかし、真犯人の計画の下では、彼は恐怖の人狼で、邪悪な連続殺人犯。よほどの根深い怨恨でもない限り、誰もこんな恐ろしい方法で罪を犯すなんてことしないでしょう」
 全く口もきけなくなってしまった。
「真犯人は……どうしてそんな恐ろしいことを?」
「犯人の動機は、恐らく、カトリック信徒に対する差別でしょう。犯人はカトリックが三地門で布教し成功していくのが許せなかった。しかし、喬神父はとても優秀な宣教者だった、村民から厚い信頼を得ていました。ゆえに犠牲になったんです。百年以上もの時を経て、カトリックと民間信仰は互いに受け入れ合い、一体となりました。しかし、犯人の極端な手段から見て、犯人の目的は一つ、カトリックを汚し、踏みにじることだったんでしょう。
 作家さん、あなたが最初に言っていたように、屏東って場所は、過去に色んな争いがありました。カトリックと民間信仰のひどい衝突です。この真犯人の祖父も、もしかしたらその流血の争いに参加していたかもしれないし、もしかしたら、両親がその被害に遭っていたのかもしれない……要するに、こんな事が真犯人を復讐者にしてしまったんです。恨みの種は犯人の心の中に芽生え、二人のカトリック信徒の少女を殺害させ、熱心に布教していた神父を陥れ、彼に人狼という悪名を与えたんです。
 真犯人は誰か? 村の有力者かもしれないし、少女の遺体を発見した中年の婦人、あるいは名もない村民かもしれない。警察の捜索隊の中に、真犯人の重要な手掛かりを隠した協力者がいたのかもしれない。つまり、今となっては、全てが闇の中」
 やっとの思いで声を絞り出して聞く。「……じゃあ、喬神父と、少女たちの遺体はどこに行ったんだ?」
「真犯人の反教心理からして、二人の少女と喬神父の遺体は、聖堂横の霊園に埋められているでしょう。三地門の聖堂は万金聖堂と同じで、信徒が事後のサービスを協力して行わなければいけません——霊園は亡くなった人たちの安息の地、神聖を侵してはならないし、多くの信徒たちが眠る、警察はそんな場所を捜すはずがないから」
 運転手は一呼吸置いてから、突然語気が変わった。
「そうだ、作家先生。当時、真犯人が死体を埋める穴を掘っていた時、あなたと同じように太縁の眼鏡を掛けていたとしたら、彼の眼鏡のフレームには、きっと、あなたの眼鏡のフレームと同じように死者の血痕が付いていたでしょうね?」
 思いがけない話に、歯がガクガクした!
「君…… 何言ってるんだい?」心臓が止まりそうだった。
 タクシーが急ブレーキをかけ、ブレーキ音が耳に突き刺さると、私の体は前の座席にぶつかった。私は咄嗟に腹部をガードして、衝突の衝撃でポリ袋が破裂するのを防ぎ、目を見開いて、狼狽しながら運転手の後頭部を見つめた。
「何するんだ?」
運転手は振り返って、私の顔をまじまじと凝視し、一言も話さない。私の背中から滝のような汗が流れ、ついに我慢できず太縁の眼鏡を外して、薄暗い光の下で緊張しながら見落としていた血痕を探した。
 ——ないさ!血痕なんてないさ!
「……すみません、作家さん」運転手と私は十数秒互いに見つめ合ってからゆっくりと口を開いた。「見間違えました。それ血痕じゃなかったです、バックミラーの汚れでした」
 そして、運転手は前に向き直り、人差し指でバックミラーの汚れを拭いて、アクセルを踏み込んだ。私は一瞬、してやったりという得意げな様子を見たような気がした。はめられた!
 ——くそっ!
「作家さん、実は……四つ目もあると思っているんです!」
運転手は眼鏡の事には執拗に触れず、突然話題を変えて、冷や水を浴びせるような事を言った。
「……四つ目って?」
「さっき僕らが話してたことです。今のミステリー作家っていうのは、どうやって名探偵ものの本格ミステリーを書くのかって話」
「あれ言ったでしょ、ね……ね、本当にあるんですかね?」私は訝しがりながら聞いた。「四つ目って何です?」
「それは『空間』と『時間』の交錯する所、鑑識科学が排除されるんですよ!」
「どういう意味です?」
「例えば、警察が犯罪現場にまだ到着していないうちに解決する」
「あ……」
「もしくは、」運転手が明朗に言う。「死体がまだ発見されないうちに事件を解明する」

7

 もう話す事はない。
 タクシーは万巒鄉から內埔鄉へ向かい、遂に三地門の境界に入った。ぽつぽつと建つ暗い平屋を幾つか曲がった所で、タクシーがゆっくりと道に止まった。
「作家さん、着きましたよ」陳小江が言った。「交番はすぐあそこです」
 私は重苦しく喘いだ。
「何を言っているんだ」
「作家さん、あなたは人を殺したでしょ、死体は新埤に遺棄した」
 答えが言えない。
「そして、死者を装って僕のタクシーに乗った。タクシーを利用して、犯罪現場から素早く逃げ、被害者が亡くなった場所を偽造しようとしたんだ」
 陳小江は平然と私の犯罪計画を暴露する。
「三地門に到着したら、隠し持っている遺体の腕を取り出して、『人狼殺人事件』の少女の遺体が発見された現場に置く。間違いないでしょ?」
「そのとおり」自分でも驚いた事に、きっぱりと認めた。
「よく分からないことが一つ。なんでその人を殺したんです?」
「動機か?」
「はい。それが推理できなくて」
「彼とはクラスメイトだった」なぜだろう、静かな田舎で、潔白な月光の下何十年もの苦痛とわだかまりを、すらすらと話せた。「彼は素晴らしい文学の天才だった。私は知り合ってからずっと彼には頭が下がりっぱなしだった。もし知り合っていなかったら、彼の励ましがなかったら、私は生涯作品を書くことはなかっただろうと思う。
 彼はでき過ぎた。でき過ぎて、一緒にいる人はみんな影が薄くなってしまった。もちろん、欠点がなかったわけではない。自分だけ得しようとしたり、無理やり自分のペースに合わさせたり、面の皮が厚いったらありゃしない。でも、何か心に刺さる真心みたいなものを持っていて、友達になったらみんなその誠意に心が動かされて、うるさいのも、余計なお世話も受け入れてしまうんだ。
 私は嫉妬した。私には彼のような実力も、魅力もない。一気に登り詰めるチャンスにも恵まれていない。全て彼に負けた。懸命にミステリーを研究したのは、どんな事でもいいから彼に勝ってみたかったからだ。私は本当に運が余りよくなくて、やってもやっても実らなかった。でも、それを自分の不幸のせいにして、私が勝ち取るべき幸運を彼に持っていかれるのを認めたわけじゃない。それで殺す事にした」
「殺害後、後悔しましたか?」
「すごくね。嫌われるようなやつだったけど、私の大切な友達だった」
「作家さん、自首しましょう」
「するさ。でも、どうして変装してるって分かったんだ?」
「さっき急ブレーキを掛けた時、咄嗟に手でお腹をガードしましたよね、もっと簡単に椅子とぶつかりそうな胸の辺りじゃなくて。それで、お腹に何か衝撃を受けたらまずい物を隠してるんじゃないかなと思って。あなたの本当の体型は、見かけとは全く違うはずです。誰かに変装しているんです」
「急ブレーキを掛けて、私の反応を試したってことか?」
「変装してるのか確認するのに、急ブレーキを掛けるってのは一つ目のテストです」陳小江は笑った。「二つ目のテストは—— 眼鏡に血痕が付いてますって言ったでしょ」
「そうして私に眼鏡を外させた」
「太縁の眼鏡はやけに重そうだと思いました。それで、その眼鏡を常に掛けているのなら、鼻筋に跡が残っているだろうと思ったんです。だから眼鏡を外すように仕向けて、それを確認しました」
「眼鏡を外させて、私の眼鏡じゃないって事を確認したってわけか」
「そのとおりです」
「でも、変装して別人のふりしているから、だからって何だよ? 他人に成りすましている人なんてたくさんいるし、服の中に何か隠し持っている人だってたくさんいる。私が殺人犯だってどうして分かった、しかも死者に成りすましているだなんて?」
「それは『人狼殺人事件』の話に戻さなくちゃいけません。それがあったから、トリックを見破れたんです」
「……どういうことだ?」
「言ったとおり、『人狼殺人事件』の中には、四つの決定的な証拠があります。喬神父が女性にモテたってこと以外に、深夜の林の中でこそこそやってたこと、人狼に変身する様子を書いた日記、野生動物に噛みちぎられた痕だらけの少女の遺体」
「それで?」
「警察は、日記はただの喬神父が書いた小説だとしました。しかし、あなたは知恵を振り絞って、喬神父は狼化妄想症の連続殺人鬼だと証明してみせました。まだこの世の中に生きているとも——わざわざ彼の現在の年齢にふれてまでして。言い換えれば、あの日記の内容が真実だと思い込ませたんです。
 次に、今日はちょうど満月で、伝説中の喬神父が人狼に変わる時です。喬神父が本当に殺人鬼で、まだ生きていたとして、じゃあ、あなたは今晩三地門へ行って、自らを死に追いやるような事なんてするでしょうか? 実際、あなたが乗車した時、僕はいろんな理由を付けて三地門へ行くのを止めようとしましたけど、それにも聞く耳を持たず、今しかないと。ということは、未来に発生すべき——殺人鬼がまだ密林にいて、無邪気な作家が密林に入って行ったという想像を植え付けたかったからです」
「今日が満月だって、私が全く気付いていなかったかもしれないじゃないか」
「それはあり得ないです。執筆のための関係資料をたくさん集めていて、事件発生時の旧暦の詳細な日時まで苦労して導き出した人です。今日が満月だって気付かないわけがない。でも、あなたが僕に『人狼殺人事件』の事をこんなにたくさん語っているのに、この点だけ全く触れていないのはなぜでしょう? 簡単です、人狼になった喬神父に出くわす最適な日時に、人狼に出くわしたと思い込ませる。これこそ、あなたがほのめかしたかった暗示だからです」
「……いいだろう」
「最後に、まだ一つ足りないこと——そう、死体の腕です。死体の腕が出ただけで『人狼殺人事件』の記憶が村民の頭の中にわき起こる。彼らは、二十年前の人狼になった喬神父の再来だと信じ込むんです——あなたが細心の注意を払って仕掛けた罠だとは思わずに」
「……そうさ」
「そこで、絶対に四つ目の証拠を肌身離さず持っていなきゃいけなくなったんです。別の物じゃいけない、死体の腕でなくちゃいけなかった」
 私は彼に拍手せざるを得なかった。
「最初は『人狼殺人事件』という伝説を利用して、『狼化妄想症』を推論させて完全犯罪しようと思っていた。でも、あなたが先に、私よりもっと説得力のある推理をして、私の推理を覆してしまった。喬神父と少女たちの遺体を聖堂の隣の霊園に埋めたって言うし、真犯人がもし眼鏡を掛けていたら血痕が付いただろうって言うし……眼鏡を外して確認するしかなかった」
「しかも、あなたは自分で『叙情イメージ』作家だって言っておきながら、言葉の端々からミステリーの方が好きだって事が見え見えでした。特に『人狼殺人事件』を新作の題材にするなんて……そんなのはミステリー作家だけが使うものですよ!」
「分かったよ」力なく頷く。「完全犯罪を目標にしていたはずなのに、ミステリーに対するゆずれない気持ちが仇になってしまったようだな。そうだ、そのとおりだ、この点が私は全く抜け落ちていた。これが最初に私を疑い出したきっかけだろ?」
「あ……いや」陳小江は答えた。「もっと早くから……」
「違うって? 熱帯夜に厚いジャケットを着て、クーラーを止めてくれって頼んだ時、もう疑ってたのか?」
「もっと早くから……」
「もっと早くって?」驚きを隠せなかった。そんなに早くから疑われていたなんて。「嘘だろ? あの時タクシーに乗り込んだばかりだったんだから!」
「そうですよ! あの時。乗ってきた時」
 乗ってすぐに疑ってたって?
「だって体重が」
「え?」
「あなたを見た感じ、体重は百キロ超えているなと思いました。そんな重い人がタクシーに乗ったら、五十キロの人が乗った時と座席の振動が全く違うんですよ。もちろん、タクシーには体重計なんてないし、僕は運転席にいるから、正確なあなたの体重なんて分かりっこないんですが。でも、お客さんを乗せてきた経験から、絶対百キロはないなと思いました」
「体重で、最初っから疑ってたって?」
「はい」
「疑ってたから、病院に行った方がいいって言ったりして、私が嘘ついてるか試してた?」
「はい」
「嘘ついているって分かったから、三地門に行く目的は何なのか考え始めた?」
「はい」
「『人狼殺人事件』について話した後、『喬神父がまだ生きている』って思い込ませたい私の目的が分かった。そして、やっぱり殺人犯なんじゃないかと思って、友人の腕を隠し持っていると推測した」
「はい」
「遺体の腕を隠し持っている証拠を見付けようとして、『反カトリック信者』の推理をしてみせ、私の心理的なガードを外した。君にとって『人狼殺人事件』は、真相がどうだろうと、それは重要なことではなかった。重要だったのは、その推論を利用して、私が真犯人だと証明することだった」
「はい」
「もう全部分かった。ありがとう」
「どういたしまして」
「運転手さんの頭がこんなに切れるって知ってたら、もっと周到な殺人トリックを仕掛けておいたのに」
「どんなに厳密でも無理です。僕は名探偵ですから」
 のちに収監されてすぐ、ベテラン刑事から陳小江は本当に名探偵だと聞いた。高雄市警の富豪斬首事件を解決したこともあるらしい。ただ、ほんの少し頭に問題があって、病院に入ったこともあるというその症状は、現実世界と推理小説の世界との区別がつかない、自分のことを名探偵だと思い込んでしまうという。
 彼の病気は、こう呼ばれているらしい「名探偵妄想症」……
 その時、タクシーのフロントガラスを橙色の光が照らした。懐中電灯だ。一人の警官が近付いてきて、窓ガラスを叩くと、陳小江は頷いて窓を開けた。
「こんな遅くに、何か?」
「自首するよ」私は言った。「人を殺した、彼の腕を持っている」
 ドアを開けて、降りようとした。
 陳小江は突然私を呼び止めた。「あ……ちょっと待って、忘れてます……」
「何?」
「お支払い」陳小江は申し訳なさそうに微笑んだ。「深夜料金加算して、六百五十元です」

 (了)

「月と人狼」(The Moon and the Werewolf)■


既晴(きせい)
一九七五年、台湾・高雄市生まれ。一九九五年、短編「考前計劃」でデビュー。二〇〇二年、長編『請把門鎖好』が第四回皇冠大衆小説賞大賞受賞。著書多数。小説のほか、解説やコラム、翻訳なども多く手がけている。二〇二〇年、自身の十作目となる探偵・張鈞見シリーズの短編集『城境之雨』を発表、その中の一編『沉默之槍』が台湾でテレビドラマ化された。

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