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既晴『疫魔の火』 訳/阿部禾律



「どうぞお掛け下さい」できるだけソーシャルディスタンスで、安全を保ちつつ誠実な態度を示した。「こんにちは、張鈞見と申します」
 応接室のソファーには、見るからに睡眠不足の女の子が座っている。工員のように質素で、酒の匂いや、夜遊びも感じさせない。恐らく彼女は、思い悩み、居ても立っても居られなくなって、事務所の営業開始と同時に訪れたのだろう。
 如紋に検温と手の消毒をしてもらうと、彼女はすぐさま疲労で座り込んだ。
「朱宜映と申します」私の名刺を覗き込みながら、かすれ声で言った。
 如紋が応接室に入ってきて、テーブルに温かいお茶を出した。
 コロナ感染拡大後、依頼が大幅に減った。探偵は、人のトラブルで食べている仕事。トラブルが多いほど、依頼件数は増える。ソーシャルディスタンスを保ち、人と接する機会が減った現在、複雑な問題など発生せず、自ずと依頼人がここを訪れる必要はなくなった。
 もちろん、全く依頼が無いわけではない——私達は「リモート依頼」サービスを始めた。依頼者は、インターネットで簡単に依頼ができるようになった。私達は、依頼者に代わって監視アプリをインストールし、データ通信のパケットを解析するだけだ。
 単純に仕事の内容から言って、事務所に来る必要すらない、Work From Home。いや、探偵事務所は人間の仕事、依頼者は悩みを抱えて訪れるのだ。私達は、いついかなる時でも依頼者のために。そう、We Never Sleepの精神で。と、ボスの廖が言っていた。
「私……探してほしい人がいるんです」
 朱宜映は、手提げバッグから封筒を取り出した。
 その封筒を受け取って見ると、何文字か書いてあるだけだ。
 ——朱宜慶 様
「この封筒が家のポストに入っていたんです。昨日の午前の事です」
「朱宜慶さんは、ご家族の方ですか?」
「はい、兄です」彼女は急に言葉を詰まらせながら言った。「一ヶ月前に亡くなりました」
 依頼者というのは、依頼の原因を話し出すと感情の起伏が激しくなる。そんな事には私はもうとっくに慣れている。しかし、そんな事に慣れるのは全く好きになれない。
「私と兄は饒河街の夜市で店を開いていました。両親が二年前に私達に残してくれたんです。両親とも亡くなりました。もともと両親は紫微斗数(占いの一種)をしていましたが、兄はできないので、流行のセレクトショップに変えたんです。バッグや、アクセサリー、ギフト用品、おもちゃを輸入販売していました。店のことは兄が全てやっていましたので、私はホームページを作って、フェイスブックを管理するだけでした」
 商売のことを話し出すと、朱宜映はほんの少しだけ元気を取り戻した。
「一ヶ月前の午前一時、夜市で火事が起きました。火元はうちの店でした。私はその週はちょうど数日間、丞さん、輔さんと一緒に宜蘭へ行っていました。二人とも兄の親友です。あの日の夜中、警察から電話が掛かってきて、すぐに旅行を切り上げて家に戻りました。……兄は、その火災の唯一の犠牲者でした」
 朱宜映は少しの間沈黙した。
「警察によると、火災の原因は単純で、電源コードから発火したもので、放火ではないと。全て確認したそうです。それに、兄は寝る前にお酒を飲んでいたので、すぐに起きられず逃げ遅れたと言われました」
「警察の言うとおりなんですか?」
「そのとおりです。兄は寝る前にお酒を飲む習慣がありました。今はこんなコロナ禍で、商売もうまくいかなくて、たくさん飲まずにはいられなかったんです。最近、兄は特に落ち込んでいて、私は店に来て邪魔するなと兄から言われていました。言う事を聞くしかありませんでした。店を開けた夜は兄は家に帰らず、閉店後にいつも二階の事務室で寝ていました」
 そして、朱宜映はテーブルの上の封筒を手に取り、中から便箋を出した。
「葬儀が終わったら、少しずつこの悲劇を忘れられると思っていました。でも、この手紙が届いたんです」
 便箋は、A4サイズでプリントアウトされたものだった。
「これは謝罪の手紙なんです。便箋の他に、一万ドルが入っていました」苦々しい口調で言った。「手紙を書いた人は、一ヶ月前に兄の店に来て、マスクを一枚くすねて行ったんです」

 店長
 こんにちは
 申し訳ありません。間違いを犯してしまいました。
 あなたのお店でマスクを一枚盗みました。
 あの夜、私は一人で夜市をぶらついていると、偶然あなたのお店が目に入り、テーブルの上にマスクを一箱見付けました。こっそり盗もうと思っていたら、思いがけずあなたが入って来て、私は倉庫の中にすぐ隠れました。閉店してから、あなたが上に上がって寝るまで、ずっと待ち続けて、大胆にもシャッターを開けて逃げました。
 私が盗んだのは、マスク一枚だけです。しかし、毎日良心の呵責に苦しみ、この手紙を書く事にしました。お詫びに一万ドル差し上げます、どうかお許し下さい。
          金家凌

 何か妙だ。一枚のマスクを盗んだだけで、一万ドルもくれるとは。
 マスクは確かにコロナ予防のための貴重な物資だが、一枚一万ドルとは、その良心は呵責し過ぎじゃないだろうか。
「張さん」朱宜映は感情を露わにした。「その人偽名よ、金家凌! これって『今日の感染確定者ゼロ』の韻を踏んでるの、ちょうど火事が起きたその日にネットで流行り出した……あの日私は、丞さん、輔さんと宜蘭にいて、輔さんはこのジョークを言ってたの。この金家凌って奴が、火元に何時間もいたのよ!」
 なるほど。それで彼女は金家凌を探しているというわけか。
 しかし、金家凌が物を盗んで火を点けたとして、一ヶ月後に朱宜慶に手紙を書いて詫びるなんて事をするだろうか。そんな事したら絶対に警察の捜査の手が及ぶだろうに。
「あなたは、火災のあった夜、誰かが放火して、電源コードから発火したように偽装したのではないかと疑っているんですね?」
 朱宜映の眼差しは真剣そのものだ。
「警察の捜査に問題がなかったとしても、私はただ、あの火事はどうやって発生したのか、本当の事を知りたいんです。だから、どうかお願いです、金家凌を探して下さい」



 私は、まず松山警察署の捜査課に行った。刑事は、私が持参した手紙を読んで、これは多分悪戯だろうと言った。当時の火災調査報告書を見せてもらうと、彼の言葉に嘘がない事が証明された。
 報告書によれば、通報したのは饒河街を車で通り掛かったタクシー運転手だった。火が出た時刻が午前一時だったため、大体が就寝中で、商店も全て閉店していた。近隣住民によると、煙と焦げ臭い臭いがして、サイレンの音で目が覚めた。疑わしい事象は何もなかった。
 朱宜慶には幼馴染が二人いて、二人とも松山区在住だ。一人は孫宇丞、もう一人は王庭輔――朱宜映が言っていた丞さんと、輔さん。孫宇丞は「風華・饒河」地区運営文化創造協会の世話役、簡単に言えば文化人で、王庭輔はカメラマンだ。
 近頃のコロナ禍で、夜市の人出に大影響を受けて皆気が滅入り、集まっては酒を飲んでいた。火災の二日前、孫宇丞は、一緒に宜蘭の友達の所に行かないか、現地の友達と地区運営の経験を交流しようと言い出し、王庭輔、朱宜映はその提案に乗った。しかし、朱宜慶は店があるからと断り、悲劇は起きた。
 付近の商店の人が言うには、朱宜慶は酒好きな事以外、温和でお客さんとのトラブルはなかった。
 要するに、人間関係からは、放火の動機は見付からない。
 更に、消防隊員が二階へ救出に駆け付けた時、朱宜慶は既に亡くなっていた。法医学の科学的検査によると、血中アルコール濃度が相当高く、脳部は熱出血が現れ、気管、肺には大量の炭素の粒子、一酸化炭素中毒の状態だった。
 全ての証拠が、彼が酒に酔い潰れていて、火災の濃煙により窒息死したという事を示していた。
 火災後、警察は現場検証を行い、寝室のベッドのヘッドボードの上に、ひび割れて、黒焦げた空の高粱酒の瓶を二瓶見付けた。寝室には電源を入れたままの一台の除湿機があったが、火災によって損傷し、もはや使用できない。まあ、除湿機は火元ではなかったのだが。
 真の火元は一階の倉庫、ちょうど二階の寝室の真下に位置する。倉庫内の入口近くにあるコンセントの延長コードの損傷が特に著しかった。倉庫内にはたくさんの燃えやすい紙箱や、発泡スチロール、洋服、ぬいぐるみが積み上げられていたため、凄まじい火の勢いで燃え尽くした。倉庫内には他に火元となるような所が見付からず、揮発性の液体の痕跡もなかった。
 しかも、火災で出入口の監視カメラが壊れ、発生当時、疑わしい人物の出入りがなかったかどうか、監視カメラから確認する事ができず、ただ状況証拠から判断するしかなかった――この火災は単なる電源コードから発火した事故で、放火された可能性は低い。
 重要なのは、消防局の鑑識の結果、現場のシャッター鍵が掛かっていたという事。
 つまり、現場は密室だった。



 翌日、私は八徳路にある台北市消防局の第三救護部隊の林博哲を訪ねた。
 ここから饒河街まで、車で十分も掛からない。
 八徳部隊の場所は、八德路四段と東寧路の交差点で、向かいは京華デパート。このデパートは、世界一大きい球体建築のショッピングモールというのがウリだったが、一八年来、長期に亘って業績が思わしくなく、去年十一月に幕を閉じて、今年二月に解体改修工事が始まった。
 今となっては、銀色の幕に覆われた高層の骨組み。失われた華々しさに寂しさが漂う。ここは、八徳商圏の繁栄から没落までの歴史を象徴している。
「林博哲さんはいらっしゃいますか?」
 事務室のドアが開き、ガタイの良い、若いイケメンが私の前に現れた。
「私です、お入り下さい」
 事務室に入ると、だだっ広いリビングの中央にローテーブルがあって、茶道具、新聞、チェスボードが置かれ、テーブルを挟むように木のソファーが二つ置かれている。林博哲に勧められ私は腰掛けた。
「お茶をいかがですか?」
「はい」
 林博哲が自分の席に戻ると、机の上のベージュのリュックから茶缶を取り出した。
「買って来たばかりなんです」
 彼はリビングに戻って座ると、ゆるりとお茶をいれ始めた。鼻が高く、彫りが深い、鍛え上げられた肉体と、西洋人とのハーフのような雰囲気、少しベビーフェイスだが、眉間にはある種の深い成熟さがあり、あどけなさと落ち着きが混在している。この職業は特に人の生死に立ち会う機会が多いから、なのかもしれないと思った。
「どうぞ」いれたての熱いお茶を私に差し出した。
「ありがとうございます」
「張さん、一ヶ月前の饒河街の火災について聞きたいんですよね?」
「はい。報告書には、林さん、あなたが被害に遭われた朱宜慶さんの第一発見者だと」
「ちょっとお待ち下さい」
 引き締まった身体を起こし、壁側の金属製のキャビネットを少し探してから、ファイルを一つ持ってきた。「あの火災は四月十日に発生しました。午前一時」
 彼がファイルを開いていない事が気に掛かった。
「記憶力がいいんですね」
「とんでもない。たまたまその翌々日が彼女の誕生日で、仕事が終わったらすぐにお祝いする約束をしていたんですよ。饒河夜市付近のレストランを特別に予約しようと思っていたんですが、コロナ禍だし、結局は Uber Eats を頼んで家で食べる事にしたんです。でも、あの火災のせいでそれもできなくなって。消火活動後は、現場の火災調査や、たくさんの報告書を書かなければいけなくなって。その結果、彼女に一週間もシカトされましたよ」
「お疲れ様でした」
「仕方ないですよ、消防隊員はそんな仕事ですからね」林博哲はお気楽に明るく言った。「火災の通報を受けてから、すぐに先輩達と出動しました。饒河街と消防局は近いですから、夜中は車もないし、夜市も休み、三分位で現場に到着します」
「速いですね!」
「日頃の訓練の成果ですよ」得意げに言い放った。「深夜に火災が発生して、通報が少し遅れると、建物全体が煙に巻かれます。この種の商店で火災が起きると、通常は楽観できない状況になります。店の中は燃えやすい物がたくさんありますし、一旦火の勢いが強まると収まらなくなります」
 林博哲は茶杯を持ち、一口すすった。「現場に到着して、中に恐らくまだ逃げ遅れた男性が一名いる事を知りました」
「亡くなった朱宜慶さんですね」
「はい。あの時、店主は閉店後いつも二階で寝ていると聞いたんです。二階に上がって確認しなければなりませんでした。私は二人の先輩とホースを持って商店の入り口へ向かいました。シャッターの鍵は掛かっていました」
「確かにですか?」私は控えめに再度確認した。
「火災後の調査で、放火の可能性が無いか調べるために、シャッターを特別に調べています。救出活動の際に壊れてしまったので、屋内から鍵を掛けたのか、外鍵を使ったのかは分かりませんが、鍵が掛かっていたことは確かです」
 外鍵は死者だけが持っていた――妹は宜蘭に、本人は室内にいたのだから、答えは明白だ。
「私達は金切り鋏でシャッターを少しこじ開けて、指揮官の通知を待ち、建物の後方から煙を排出させた後に、シャッターを開けていきました。もし一気に開けていたら、大量に新鮮な空気が入り込んで、かえって火の勢いが増すバックドラフト現象が起きます。熱々に熱した鍋の蓋を取った瞬間に火が舞い上がるように――よく起こる事ではありませんが、非常に危険です。数年前、桃園の六人の先輩が……それで亡くなりました。
 店内に入ると、二階へ上がる階段の所にドアがあって、閉まっていました。火災発生の常識ですが、もし逃げ道が見付からなければ、火から遠ざかって、救護を待つ」
「言い換えれば、このドアが閉まっていたという事は、もし朱宜慶が二階にいたとしたら、まだ生きていた可能性がある」
「はい。先輩と一緒に二階へ上がって、部屋の状況を確認しました。戸の隙間から覗くと、二階の寝室はまだ火にのまれていませんでしたが、予断を許さない状況にあって、いつでもフラッシュオーバーが発生する可能性がありました。これが選択の時です」林博哲は静かに言った。「上司には、人命救助が第一だが、私達も同じ人間、衝動的にならず、まず自身の安全を確保するようにと言われました。しかし、現場に行ってみると、どうやって冷静を保てと言うんですか? 救助できるかできないか一刻一秒を争うというのに。たったドア一枚を隔てて、閉じ込められている人がいるというのに。
 何度選択を迫られても、私は人を助けるために飛び込みます。何度でも。運が良くても悪くても一緒です。同じ火災現場はありませんが、私の選択は同じです。先輩に合図すると、ゴーサインが出たので、放水して排煙し、火の勢いが弱まってから寝室に突入しました」
 林博哲はファイルを閉じて嘆いた。「その後の事は、ニュースで報道されたとおり――朱宜慶はベッドに横たわり、私が近付いてみると、既に息を引き取っていることが分かりました。煙による窒息死でしょう。寝室のバスルームを調べましたが、誰もいませんでした。先輩の援助の下、私は朱宜慶を抱きかかえて現場から撤退しました」
 少し前に、私はインターネットでニュースを見ていた。林博哲が人を救うために火災現場に飛び込んだのは、これが三度目だった。とても映りが良かった。彼は消防隊員になって二年余りで、十人もの人を救っていた。ネット民から彼へたくさんの賞賛メッセージが残されていた。
 シャッターには鍵が掛かっていたし、店内には朱宜慶一人だけ。という事は、この謝罪文の中の「大胆にもシャッターを開けて逃げました」という意味は、成立しない事になる。現場は密室で、朱宜慶は酔い潰れていた――金家凌か誰かが放火したとしても、シャッターを閉めてからその場を立ち去る事などできない。
「火災現場で救助中に、何か特別な事はありませんでしたか?」
「ええと……ありませんでした」
「そういえば」彼の話をもう一度思い出して思索してみた。
「最初に、彼女の誕生日を祝うためにレストランを特別に予約していましたが、 Uber Eats に変えたとおっしゃいましたよね」
「それですか……」林博哲はニヤっとした。「何でもないんです。その日の午後、ある在宅自主隔離者と連絡が取れなくなったと通報があって、私達隊員の中の誰かが言ってたんです、その人が松山区にいるらしい、饒河夜市に立ち寄った可能性が高いって。それで彼女は感染を恐れて、私に予約をキャンセルするようにって。でも結局は、私は救助活動のために饒河夜市に来てしまったというわけです。ははは」
「その在宅自主隔離者と連絡が付かなくなった件は、その後どうなったか知っていますか?」
「知っていますよ。二日後、松山駅の小さな旅館で見付かりました。旅館はすぐに閉めて消毒をしたそうです。強制営業停止二週間、本当にひどい話ですよ」



 消防局を出る前、林博哲は火災現場の鑑識結果を説明してくれた。
 まず、火元の判断。焼損の程度から判断します。総合的に見て、一階の倉庫入口付近の壁にあるコンセントが火元と判断しました。
 古く、汚れた延長コードの電源タップが、定格電流を超えた使用によって異常発熱して、出火し、出火後に近くに積んであった荷物に燃え移りました。荷物には、ぬいぐるみや、プラスチック製の燃え易い物がたくさん積んであり、ひとたび火が付くと、大きく燃え広がります。
 一般的なブレーカーには過電流の保護装置が付いていて、定格電流を超えた場合には落ちるようになっています。しかし、古くなった物だと、保護装置が稼働する前に、ポリ塩化ビニルの絶縁体が高温で剥がれ落ち、ショートして、燃焼します。
 重要なのは、火元になるのはここだけで、倉庫内にはガソリンや、発火を促す物の痕跡が見当たらなかったという事だ。
 林博哲と別れてから、調査の進度を報告するために、朱宜映と会う約束をした。
 朱宜映は、これまでの状況を聞いて、電話越しに落胆の色が伺えた。
「しかし、一つ手掛かりを掴みましたので、お会いしてからお話ししましょう」私は通話しながらノートを開いた。「警察によると、お兄さんには二人お友達がいて、一人は孫宇丞さん。もう一人は王庭輔さんという方。私はお二人にお会いしたいのですが」
「すぐ彼らに連絡します」朱宜映は気が急いていた。「直接輔さんの仕事場で会いましょう。みんな兄の件が気になっていますから」
 朱宜映から王庭輔の仕事場の住所を聞いて、電話を切った。しかし、出発前に一つやらなければならない事がある。
「もしもし」事務所に電話した。
「如紋か? 鈞見だ」
「何よ?」
「調査を手伝ってくれ」
「嫌だ。その声からして、きっと変な事手伝わせるに違いないもん」
「そんな事言わないでくれよ」
「毎回調査しまくって、最後にやらかすんだから」
「重要な事なんだからさ。四月十日、松山区の、在宅自主隔離の規定に違反して四月十二日になって発見されたっていう件。一体誰だったのか調べてもらえないか?」
「……難しいでしょ? 在宅自主隔離者なんてたくさんいるし」
「規定に違反したその人は、松山駅付近の旅館に二日間隠れていた。旅館がその事を知ってから、消毒して、二週間の営業停止だ。まずは、その時その付近で営業していた旅館を探してから、宿泊客のリストを調べる。そして……」
「コロナ禍で、お客さんは少ないはず、適当に理由を作って一個一個連絡して潰していくわ。そうすれば規定違反者を探せる」
「そう! 本当賢いな!」
「分かりました」如紋は電話を切った。
 よし。探し出すスピードが、電話を切るスピードと同じ位速い事を祈る。
 すぐに動いた。王庭輔の仕事場は八徳路四段の小道、古いアパートの二階だ。入り口には看板があって、まるで撮影スポットのようだ。階段を一段上がってドアのチャイムを押すと、ドアを開けたのは朱宜映だった。
「張さん」彼女はドアを開けてくれた。
 彼女の後ろの若い長髪の青年は、太い黒縁のメガネに、薄っすらとしたひげ、憂鬱そうな眼差し、性格は屈強で、自分の理念に満ちた芸術家といった感じだ。
「紹介します、彼が輔さんです」
「こんにちは」王庭輔は私を招き入れた。「この度は、映ちゃんがお世話になっています」
「どういたしまして」この芸術家は社交的なようだ。
 リビングに入ると、シンプルで、インダストリアル系のインテリア、壁面には、特徴的なモノクロ写真が幾つか掛けられていて、全て饒河夜市の街並みだった。一番大きな写真は、年老いた占い師、頭を低くして古い書籍をめくり、客の画数を見ているようだ。落ち着き払い、集中し、そして悦に入っている。
「父です」朱宜映が後ろから言った。「亡くなる一年前の写真です」
「素晴らしい」
「輔さんはカメラマンで、たくさんの饒河街の記録を残しているの。よくカメラ雑誌に作品が載るだけなく、東京に出展した事もあるのよ!」
 その時、チャイムが鳴った。朱宜映がすぐにドアを開けると、高身長でがっしりとした、少し年上の青年だった。
「映ちゃん、張さんかい?」
「そうよ」
「こんにちは、孫宇丞です。『風華・饒河』地区の文化創造運営協会の世話役をしています」仕事に積極的で、自信に満ちたリーダー型、いつも自分が場をコントロールしたいタイプに見える。「実は、映ちゃんに探偵事務所に行くように言ったのは僕なんです。暴力団に僕たちの街を壊されるなんて、絶対に許せないですから」
「あなたは、暴力団に放火されたと?」
「もちろん!」孫宇丞の態度はきっぱりしていて、沈黙、控えめな王庭輔とは正反対だ。「饒河街の古い家はたくさんあります。この二年で、天海組と四合会が都市開発に手を出し始めました。でも、今コロナで、たくさんの店は経営継続が困難になりました。慶君が亡くなってからも、映ちゃんを探してる奴がいて、僕が盾になったんです」
「私のこれまでの調査からは、まだ地上げに関する線は浮かんでいません」
「張さん、この火災は、暴力団が絡んでいるに違いないんです!」
「丞さん……」朱宜映は心配そうに孫宇丞をじっと見つめた。孫宇丞は自信あり気に彼女に頷いて見せた。
「孫さんの疑いについても調査致します。ただし、今日は皆さんに手伝って頂きたいのです。王さん、パソコンをお借りしてよろしいでしょうか? ポータブルハードディスクを持ってきました」
「はい」王庭輔は事務机からノート型パソコンを持ってきて、ソファーに一緒に座った。
 私はすぐにポータブルハードディスクを取り出し、ノート型パソコンに取り付けた。ディスクの中には一つ目次があって、約二十の映像があった。
「もしかして、皆さんお聞きになった事があるかもしれませんが、犯人は現場に戻るんです」私は三人が肯定的ではなさ気に頷くのを見た。みんなミステリーを見ないのか――いや、どうでもいい。「とりわけ放火犯は。私はちょっと手間を掛けて、各テレビ局のあの火災現場のニュース映像を集めました。皆さんに手伝って頂きたいのは、ニュースの映像に出てくる人を一人ずつ調べて、名前を記録していってほしいんです」
「でも……こんなに人が多いのに」孫宇丞は難色を示した。「至難の業ですよね?」
「確かに簡単ではありません。野次馬達は皆さんマスクをしています。それゆえ、あなた達だけが、誰が誰なのか判断が付くのです。皆さん饒河街で育って、ここの人達の事は警察よりもよくご存知です。私達は火災現場に立ち返って、現場にいる一人一人を確認し、彼らがそこにいる事が理に適っているのか、そこにいてはいけない人が混ざっていないか? はっきりさせるんです――それが『現場に戻る』の理論です」
 王庭輔は苦悩の表情を浮かべ、孫宇丞と視線を交わした。
 しかし、一方で朱宜映は一歩前に進み、毅然としていた。「張さん、私手伝います」



 そして、私達はすぐにニュース映像の分析に取り掛かった。
 まずは、火災現場の平面図を作る。この平面図は静止したままではなく、救助の過程によって変化していく。そのため、時間軸との相対関係が加わる。火の勢いは三十分前後で完全になくなり、その後、野次馬は退散した。二分を一つの単位として、十五の図を作る事にした。
 そして、十五枚の空白の平面図上に、各ニュースの映像に映り込んでいる野次馬の位置を記した。もちろんニュースの映像からは、いつ撮影されたものなのか判断が付かない。当時現場にインタビューに来ていた記者に連絡して、撮影フィルムから撮影の正確な時刻を調べなければならない。
 この分析作業は、もちろんすぐに終わるものではない。とりあえず二週間と決めて、作業を分担し、毎日王庭輔の仕事場に集合して、夜の四時間だけ捻出して作業に当てた。
「張さん、天海組、四合会の線は、もう調査に着手したんですか?」
 孫宇丞は本当にしつこい。
「ニュース映像チェックの進み具合は」私は答えた。「今のところ八十パーセント、しかし、その暴力団構成員が現場に来たのは見付かっていません」
「犯人が犯行後現場に戻るっていうのは、単なる犯罪行為の模式の一つに過ぎない」孫宇丞は反論する。「毎回成立するとは限らないです」
「そのとおりです。成立するとは限らない」
「じゃあ、あなたは調べたんですか?」
「調べました。今年の二月、天海組の組員が朱宜慶を訪ねています。ここ数年、天海組の勢力は八徳路三段四段から東興路などの区域まで拡大し、長い間松山駅付近をシマにしてきた四合会とは、利益争いが始まりました」
「天海組は、地下賭博場の経営から組を起こしたんだ。やり口が汚い」孫宇丞の語気には怒りが滲んでいた。「噂だと、ある退職した警察幹部と関係が良いらしくて。八徳商店街の次は饒河夜市さ」
「四合会も元々は饒河夜市の一部を統制していました」私は補充して言った。「松山区の某市議会議員が先頭に立ち、党の代表の支持を得て、饒河街の都市開発を強力に推し進めています。当時、天海組の判断は、」私は今週調査して掴んだ事を説明した。「コロナ禍は饒河夜市の経済に莫大な衝撃を与えていて、地上げするチャンスだと、饒河街の地主を積極的に斡旋し始めた。朱宜慶の店も、コロナの感染拡大で、オンラインショッピングに取って替わられるだろう。彼らは朱宜慶が店を売りに出すだろうと思っていた」
 朱宜映は強くかぶりを振った。「兄は父の店を売るなんて事しません」
「天海組と朱宜慶は何度か交渉した。朱宜慶は、コロナの勢いは止まらないが、でも危機は転機だ、この状況を乗り越える方法が必ずあると、天海組との取引に応じなかった。しかし、天海組は密かに来客状況を調査していて、朱宜慶は強がっていただけだった。もう一つの可能性としては、四合会が陰で糸を引いていた」
「だろ、言ったとおりじゃないか!」孫宇丞は朱宜映に向かって言った。「映ちゃん、張さんにあの事言いなよ」
 朱宜映の表情がこわばった。
「張さん、兄の告別式の時、天海組、四合会の人達がお線香をあげに来ていました。彼らは兄の建物の建替えに協力してくれると言いました。でも私は断ったんです」
「どっちかが慶君の店に火を点けたに違いない」孫宇丞は続けて、「弱っているところに手を差し伸べて、建て直したら自分の物さ」
 理にかなった推論ではあるが――鍵となる証拠に欠ける。
「ずっと考えていたんですけど」朱宜映は言った。「あそこをギャラリーに改装して、饒河街の文化と景色を残したいんです。何かの役に立てばいいなって思ってて。それが私達の思い出。兄は私がこうするって知って天国でもきっと喜ぶと思うの。丞さん、輔さん二人とも手伝ってくれるよね?」
「ああ」ずっと黙り込んでいた王庭輔が突然沈黙を破った。「絶対に手伝うよ、映ちゃん」
 孫宇丞も続いた。「俺も手伝うよ」
 その時、事務室の電話が鳴った。私は会話を止めて、窓際で電話を受けた。
「如紋、どうした?」
「見付けたわ」
 見付けたのは、在宅自主隔離の規定に違反し、松山区に隠れていたやつだ。
「方雲善、四十六歳、大安区在住、深圳で繊維工場を経営、四月二日に台湾に帰国。厚生省は三月十七日に、帰国者は二週間在宅して自主隔離しなければいけないと宣告。まずい事に、彼が乗っていた飛行機には一名の感染確定者が同乗していた。四月十六日に自主隔離が解除になるはずが、十日の午後、彼の失踪が区に発覚。十二日の夜に見付かって、罰金二十万ドルを言い渡された」
「彼は今どこにいる? 中国に戻った?」
「いいえ、まだ台湾にいるわ。十三日に肺炎と診断された。そして、隔離病棟で一ヶ月過ごしてやっと回復した。深圳の工場はまだ再始動していないので、退院してからはずっと家にいる」
「彼と話したいな」
「理由を考えてよ、連絡してみる」
「罰金の軽減は、どうだ?」
「いいわ」如紋は笑いながら言った。「やってみる、待ってて」
「そうだ、方雲善の写真は?」
「全部クラウドディスクに入ってる、自分で探してよ」
 電話を切って、すぐに携帯でクラウドディスクに繋いだ。
 如紋は、方雲善の個人資料をまるで事件の犯人のように整理していた。まあいいや。彼女にとっては、男は皆ろくでなしだ。一ページ目は、彼が公開している資料、深圳の工場の会社のホームページから切り取った物だ。
 次のファイルは、幾つかの映像リンク。方雲善が松山区の旅館にいた間や、フロントでチェックインした時の、キーボックスの監視カメラの映像。さすが、こんな事までできるとは。映像中の彼は、ダークグレーの襟付きジャケット、同系色のつば付き帽を目深にかぶり、フロントの女性と何度も会話をしているが、視線を合わせず、人目を避けるようにしている。
 映像は長くなかったので、何度も繰り返して見た。ダークグレーの襟付きジャケット。私はすぐに映像を一時停止した。
「皆さん、さっき同僚から映像が届いたので、比べて見て下さい」
「はい!」
 私はすぐにスクリーンショットを、映像分析のために作ったグループに転送した。
「張さん! これは……」
 間もなく、王庭輔に進展があった。彼の後ろを取り囲むようにして、新たな発見を覗いた。
 パソコンの画面に、一時停止したニュース映像がある。五人の野次馬達、四人の男性と一人の女性、全員マスクを着けていて顔がよく分からない。しかし、四人の後方に立っているある一人の男が、ちょうどグレーのつば付き帽子をかぶって、灰色の襟が覗いている。首から下は途切れていた。
「彼は不審な動きをしている」王庭輔が説明する。「群衆の中でうろうろして数秒で立ち去っている」
 この発見がみんなを奮い立たせた。私達は遂に証拠を掴んだ、方雲善は火災現場を訪れていた。
 しかし、その時、私はふとある事が気に掛かった。
 方雲善が旅館を出た時は、肩にベージュのリュックを背負っていたはずだ。
 そう。このリュックを見た事がある。もしかしたら同じ物ではないかもしれない。でも、すごく似ている。
 しかし、決して携帯ディスクのあの二十数個のニュース映像の中で見たのではない。
 同じようなリュックを、台北市消防局第三救護隊で見た。
 ――あのヒーロー消防隊員、林博哲の事務机の上だ。



「厚生省の人じゃないの」
「すみません、そう言わないと会ってもらえないと思って」
「まあいいや。一体何だい?」方雲善はゆったりとしたソファーに座った。彼は額から後頭部まで禿げ上がっているが、両耳の上の髪の毛はふさふさと生えて、わざとユーモラスなスタイルにしているようだった。しかし、病み上がりのためか、深圳の工場再開が遅れているためか、その眼差しからは生気が失われていた。「記者かい?」
「探偵です。依頼人が、あなたにこれを見て欲しいと」
 封筒をテーブルの上に置いてから、彼の前へ差し出し――ソーシャルディスタンスを保った。
 朱宜映が受け取った匿名の謝罪の手紙だ。
 彼は封筒から便箋を取り出して開き、黙って読んだ。読んでいる表情は少し複雑だ。手紙の内容を全く知らなかった訳でもなさそうだ。
「方さん、私の依頼人が知りたいのです、この手紙はあなたが書いたのでしょうか?」
「書いてない。マスクも盗んでない」
 すべてはっきり否認した。
「私の理解だと、手紙を書いた日付は、ちょうどあなたが防疫規定に違反して外出し、松山区に行った日ですよね」
「だからなんだって? 犯人みたいに監禁生活してるのが耐えられなかったんだよ。外の空気吸っちゃいけないのか? でも、俺はマスク売ってる店なんかに行ってないぞ。薬局か? 手紙に書いてる店がどこにあるのかすら俺は知らないってのに!」
「饒河夜市。あなたの泊まった旅館と近いです」
「饒河夜市なんて行ったことがない」
「ありますよ」
 携帯でニュース画面のスクリーンショットを方雲善に見せた。
 方雲善は証拠を目の当たりにして、すぐに黙り込んだ。
「依頼人はこの店の経営者で、あなたがこの店に来た事があるかどうか確認したいだけなんです」
「……そうか。認める、行ったよ」
「四月九日の夜、ですよね?」
「ああ、あの夜確かに饒河夜市に行ったし、その店にも行った。でも、マスクは盗んでないし、この手紙も書いてない」方雲善は力強く座り直して、弁論でも始めるかのようだった。「あそこに少しいただけだ。でも、この手紙を書いたやつは、私を放火犯に仕立て上げたいようだな!」
「あなたは確かに火災発生前にあの店を出ている。そうですよね?」
「でも私は閉店間際に着いたから、そんなに長くいなかった。五分もいないさ」
 五分でガソリンを撒いて、火を点ける――間違いなく、時間的余裕はたっぷりある。しかし、火災現場の鑑識結果では、燃焼を促すような物を撒いた痕跡はなかった。それに、方雲善にはシャッターを内側から閉めて、密室状態を作ることはできなかった。火災現場に戻って、うろうろして見学した後、大急ぎでその場を立ち去ったのは、放火犯と間違われるのを恐れたからだろう。
「では」私は方雲善を正視した。「あの店に行ったのは、一体どうしてですか?」
「私は……」方雲善は視線がおぼつかなくなった。「あんたは探偵、だよな?」
「そうです」
「もし、あんたの言う依頼人ってのが、うちのやつと関係ないなら」
「私の知る限りにおいて、何も関係ありません」
 方雲善は黙りこくっている。
「私どものような仕事の関心事は、依頼人の利益のみです」
 方雲善は肩をなで下ろし、少し警戒心を解いた。
「私の繊維工場は、もともと烏日にあった。二十年前、義理の父親が工場の中国進出を計画していたんだが、突然、認知症に罹って、会社の経営は全て私の肩にのし掛かった。順調に深圳に進出ができて、台北にオフィスを設けた。でも、妻は父親の世話をするために、ずっと実家にいるようになった。そして、妻と私の離れ離れの生活が始まった。
 二年後、私は秘書と不倫関係になった。文淑の両親は早くに他界して、兄弟もいなかった。ずっと深圳で働いていて、結婚するつもりの彼氏はいたが、まだ独身だった。私らの境遇は似ていた。仲が深くなり過ぎてしまって、彼女は彼氏と別れた。この事は妻には知られていない。
 去年の十二月下旬から、コロナが感染拡大し、蔓延した。各地は都市封鎖して、営業停止――今後非常に厳しい状況になる事は目に見えていた。そして、マスクや防護服の需要が、すぐさま世界各地で爆発的に増えた。うちは繊維会社だから、生産ラインを少し調整すれば、そんな物を作ることは簡単だった。
 その時、台湾の政府が介入して医療用の消耗品を民間で売買することを禁じた。しかしね、張さん、危険の中に富ですよ。商売人ってのは戦争そのものを利用して、戦後の経済を立て直してきた。防疫だって一種の戦争だ。台湾にも非正規なルートで、うちの繊維工場に注文してくる輩が出始めた。
 マスクが欲しいって言うんだ。でも、そんな利益は違法だし、妻には言えない。私は、私の代わりに台湾で受注して、確実に集金してくれる、全面的に信用できる人を探さなければいけなかった。もちろん、一人だけいたんだ――文淑が。彼女は三月中旬に、ヨーロッパ経由で各国の検疫を逃れて台湾に戻って、松山区の旅館に宿泊していた。
 でも、まさか……一週間後、彼女は突然失踪した。これはただ事じゃない。当然、彼女が台湾に戻る事は秘密だったから、友達も誰も知らなかった。私は深圳で待ち切れなくて、気を揉んでいたら、数日後、なんと旅館から彼女のスーツケースが深圳に送り返されてきた。
 旅館に電話してみると、従業員曰く、彼女は予定していたチェックアウトの日の前日から部屋に戻らずに、友達に頼んで、旅館にスーツケースを送り返してもらうようお願いしてきたって。怪し過ぎるだろ。私は危険を冒して、すぐ台湾に戻ることに決めた。もちろん、裏ルートから、飛行機を何度も乗り換えて、やっとの事でたどり着いた」
「でも、思いのほか、世界的にコロナが蔓延してしまっていた」私は続けた。「あなたは、秘書さんみたいにラッキーではなかったようで、十四日間の在宅自主隔離をしなければいけなかったのですね」
「そう。私の行動は厳重に規制されていて、外出して文淑に会うことができなかった。しかも、ずっと文淑から連絡が無い。もう待ち切れなくなった、これが規定に違反してでも外出した理由ですよ。彼女が失踪する前、インターネットのメールボックスに下書きを残していた。出火したあの店は、恐らく取引先の一つだったんだろう。
 端的に言うと、家を出てすぐ松山区のあの旅館に向かって、チェックインした。文淑が台湾に戻ってきた時に宿泊した旅館ですよ。お察しのとおり、彼女がこの旅館に来てから一体何が起きたのか知りたくて。でも、従業員の答えは同じだった。
 私は警察に通報したくなかった。もし、警察が介入して、何か手掛かりが見付かって、私と文淑の違法なマスク貿易がバレて、それが私達の関係性にも及んだら……妻は耐えられないでしょう。妻はしっかりと家業を支え、私を信じている。だから、自分で調査するしかなかった」
「方さん、分かりました。しかし、さっき店には五分もいなかったとおっしゃった」
「ええ」訳が分からない様子で「あの時、もう閉店していたと思う。シャッターが半分閉まっていて、でも、中の灯りは点いていた。私が屈みこんで中に入ると、店内には誰もいなかった。声を掛けても誰も答えなかった。後ろの倉庫の方まで行ったが、やっぱり誰もいなかった」
 ――火元。
「あなたの印象だと、倉庫内に何か異常はありませんでしたか?」
「なかったな」方雲善は、私の問題に答えられれば失踪した秘書が彼の元に戻るかのように考え込んだ。「そうだ、水が滴る音を聞いたような気がする」
「水が滴る音?」水でも油でも、滴る音に大差は無い。しかし、火災現場の鑑識結果では、燃焼を促すような液体の痕跡は無かった。
「確かあの数日、天気が悪くて、でも雨は降っていなかったから、漏水ではないだろ?」
「それから?」
「咳が聞こえた、倉庫の外から。私は店長が帰って来たと思って、倉庫から出て店の前に戻った。でも、誰もいなかった」
「咳は二階から聞こえたのではありませんか? あなたは、一階後方の倉庫に行く時、階段を通りましたか?」
「階段が始まる二階への入り口にはドアがあって、閉まっていた。光も漏れていなかった。聞き間違えたんだろう、店主がちょっと出掛けているようだから、他の所で時間を潰してからまた来ようと思った」
 方雲善の意味は、つまり――閉店の時間なのに、朱宜慶はいなかった。
「間もなくして、大体十五分位だったか……消防車のサイレンが聞こえて、饒河街に濃煙が立ち込めてきて。それで、やっとあの店で火事が起きた事に気が付いた。消防車と警察がずらっと来て。ニュースの報道陣も野次馬にインタビューし始めて、人目に付きたくなかったから、急いでその場から立ち去ったよ。
 旅館に戻ったあの晩、気分が悪くなって、咳の症状が出てきた。お昼までうとうとしていた。だるくて、あの火事で全身濃煙に包まれたせいだと思ってた。そして、翌々日に発見されて、感染が確定した。隔離病棟に一ヶ月入院して、先週やっと退院したところだ」
 これまでの話を聞いていると、方雲善の言っている事全てが、今のところ私が掴んでいる手掛かりと全く矛盾しない。
「張さん、文淑が心配なんだよ。もしかして、彼女は感染死したうちの一人じゃないのか? でも、彼女の遠い親戚も誰も私に連絡してきていない」
「……彼女が感染したと疑っているんですか?」
「最後に彼女と電話で話した時、少し具合が悪いと言っていた。聞くと、時差のせいだと言って、わざと二回咳をして私に聞かせた。文淑は強がりだから、私が心配すると嫌がるんだよ」
「提案があります――よかったら探させてもらえませんか?」
 方雲善の目の色が変わった。
「実は、だからあんたにこんなにたくさんの事を話したんだよ」



 事務所に戻って、自分の席に着いた。パソコンの電源を入れ、カメラ通話ソフトを開いて音声をオンにした。
「廖さん」
「鈞見」廖さんの顔が画面に現れた。映像が非常にクリアだ。「聞こえますか?」
「大丈夫だ」
「通信の質はなかなかだな」少しイヤホンを調整してから、「例の件はどんな状況だ?」
 これが私と廖さんの初めてのオンライン会議だ。彼は今台湾にいない。
「方雲善から黃文淑の通話記録をもらいました。全員に連絡してみましたが、彼女の居所は誰も知りませんでした」
 黃文淑、これが方雲善の秘書のフルネームだ。
「松山区の『朋福貿易』について、手掛かりを掴みました。詳細な資料は全てネットのハードディスク内にありますので、お手隙の際にご覧下さい。簡単に説明しますと――林博哲の彼女がその会社の会計です」
 廖さんが調べてくれたのが、林博哲の机の上にあったベージュのリュックについて。
「方雲善も同じリュックを持っています。彼は、これは「朋福貿易」のオリジナルグッズだと教えてくれました」
 貿易会社というのは、実際はそんなに単純ではない。この会社の社長は、兼業で「無上菩提仏学協会」の理事長をしていて、自宅に道場を持ち、いつもチベット仏教高僧、青海出身のマダケスリンポチェを台湾に招いて読経、布教、祈祷会を開いている。
 マダケスリンポチェは、台湾以外にも、マレーシア、インドネシア等各地で宗教活動をしている。しかし、コロナ禍で、マダケスリンポチェのみならず、今年からあらゆる仏教リンポチェが台湾に来られなくなり、関係する活動は全てキャンセルされた。
 チベット仏教は、台湾で盛んな一種の修行だ。修行、成仏の道へは、仏像、天珠、タンカ等の布施物を購入しなければならず、台湾人の商売人気質とマッチした。もちろんこの貿易会社は、マダケスリンポチェにお布施する唯一のルートになっている。
 方雲善自身もチベット仏教信者で、マダケスリンポチェの門下、ゆえに林博哲と同じリュックを使用している。私は方雲善と午後いっぱいチベット仏教について話したが、彼が「無上菩提仏学協会」の理事長を私に紹介して、修行の道へといざなわれるのはお断りした。私がこんなに質問するのは調査のためで、帰依したいからではない。
「林博哲の彼女は、チベット仏教の信者だったのか」廖さんはファイルを一つ開くよう私に言って、説明した。「『朋福貿易』は、元から『無上菩提仏学協會』のチベット仏教の布施物の輸入を取り扱っていて、社員の大部分が社長のようにチベット仏教に関わっている」
「じゃあ、林博哲のベージュのリュックは、彼女からのプレゼントですか?」
「違う。林博哲もチベット仏教の信者だ。チベット仏教の宗教活動に参加している時に彼女と知り合った。近頃はコロナのせいで、密を避けるために活動は一切行われていない」
「なるほど」
「しかし、面白い事に気付いた。ここ何年か、マダケスリンポチェが台湾に来ると、信者が南部へ護摩に向かう。この護摩に、林博哲は毎回参加している」
「護摩とは?」私は尋ねた。
「護摩とは、チベット仏教の供養の儀式で、信者はこの儀式を済ませると、智慧が増益し、罪障が浄化される」
「でも、林博哲は消防隊員なのに、なぜ護摩に傾倒して参加しているんでしょう?」
 彼の気持ちは分かりづらいな。
「分かった!」その時、如紋もオンラインになった――彼女は板橋に行ってきた。
 如紋は今カフェにいるようだ。テーブルの上にはアフタヌーンティーセット、私と廖さんの単調な画面背景とは全く違う、まるでインフルエンサーのライブみたいに映える画面を作っている。
「林博哲の伯母に会いました」
「彼女はなんて?」
「林博哲は小さい時から饒河夜市で育って、両親の屋台を手伝っていた。でも、大火事に遭って家族は皆焼死して、彼が一人だけ生き残った。当時は違法増築した家に住んでいて、消防が助ける術がなかった。彼が小学一年生の時の事。
「伯父と伯母は子供がいなかったので、彼を引き取って大事に育てた。後に、消防隊員に合格して、饒河街に戻って働いた。彼はとても優秀な消防隊員で、しかも饒河街にとても関心があって、メディアのインタビューを受ける度に、決まって、饒河街はよく火災が発生するので、すぐに都市開発を進めるべきだと言っていた」
 如紋の話は、私にある事を思い起こさせた――火に対して、彼の心の中にはきっと複雑な思いがあるのだろう。彼の勇敢さは、二十年前の記憶の中の火事を消すためなのかもしれない。
「しかし、これと護摩に傾倒するのとの関係は?」
「伯母は、彼が子供の頃、ライターでこっそり遊んで、火を点けてじっと見つめていたと言っていたわ」如紋が言った。「彼にとって家族との記憶は、永遠に炎の中にあるんだと思うの。マッチ売りの少女みたいに」



 入り口の真っ赤な門に明かりが灯り、饒河街の夜が来た。
 二列に並んだ商店や屋台の、煌びやかに目を引く灯りが、ひと筋の簡単な欲望、簡単な支払い、簡単な満足の道を浮かび上がらせる。しかし、ここしばらくは人々がひしめく様子を見ていない。
 私はセレクトショップの住所地まで来た。建物の外観は、元の看板が取り払われて、簡単な足場が組まれ、入り口には新たに施工用のシャッターが設置されている。火災の痕跡は、薄れていた。
「張さん、いらっしゃい!」朱宜映が中へ入れてくれた。
「一日中掛かって、全部の物を整理しました。丞さんが業者にいるお友達に頼んでくれてね。しかも、室内は輔さんがデザインしたんですよ! 本当に、過去の物を全部片付けてスッキリしました」
 今日は正式に工事に取り掛かる一日目の夜、彼女は気分が良かった。
「私、ここを新たなスタート地点にします。父の占い館で、兄のセレクトショップだった場所。ここがこれから時空カプセルになって、饒河街で起こった事を記憶していくんです」
「こんにちは」孫宇丞と、王庭輔もいる。商品が展示されるはずの空間には、事務机が中央に置かれ、施工図、設計図のような書類が幾つか積まれている。
「来て、これ見て!」朱宜映はテーブルまで私を引っ張っていった。平面設計図を開いて、うれしそうに言った。「この玄関の所に、門と通路を作るの。今のとは違う、一九八七年饒河街が開幕した時の復刻版。その時はまだフクロウがいなくて、国旗だけだったのよ。輔さんがたった一日でデザインを完成させちゃった」
「どうってことないよ」王庭輔はさらりと言った。
「饒河街の歴史は長いです」孫宇丞は傍から口を挟んだ。「清朝乾隆時代、基隆川はまだ土砂が堆積せず、台北と基隆、宜蘭の水運乗換駅になっていて、錫口と呼ばれていました。道光時代になると既にとても繁栄し、『小蘇州』と称されました。その時期の史料を僕はここ数年たくさん集めて来たけど、ずっと書斎に積んだままだったんです。だから映ちゃんのおかげさ」
「どこがよ、丞さんにずっと助けてもらってる」話好きな孫宇丞は、くどくなって来て、地区の再生理念についてたくさん話した。
「私ずっとね」朱宜映は孫宇丞の饒河街史を聞き終わってから、静かに言った。「私と兄はお互いに離れられない、兄は一生私のそばにいてくれると思ってた。兄が亡くなってから、一体どうしたらいいのか分からなくなった。その時やっと気付いたの、自分ってこんなに弱くて、打たれやすかったんだって。
 でも今、丞さんと輔さんが支えてくれて、分かったの。過去の悲劇は変えられないって。私達が集めたこの写真みたいに、既に起きてしまった事はどうしようもない。出来る事は、ここからまた新たに出発して、こんな形で兄の思い出にする事」
「いい事言った!」孫宇丞は加えて言う。「慶君も天国できっと喜んでいるだろう」
 その時の朱宜映は、もう真相を探る事で偽りの安心感を得る必要などないように思えた。
「そうだ」王庭輔が話題を変えた。「その後、火災現場にいた人は見付かったんですか?」
「見付かりました。しかし、彼は放火犯ではなく、謝罪の手紙を書いた人でもありませんでした」朱宜映の目の色が変わった。「その人の名前は方雲善、台湾の商売人で、深圳に繊維工場を持っています。火事の前に店に入った事は認めていますが、ほんの数分で立ち去り、マスクも盗んでいません」
「じゃあ、彼は放火犯を目撃したんですか?」すぐさま朱宜映が質問する。
「いや。お兄さんが店にいなかった事だけ気が付いた」
「……きっと、お酒を買いに行っていたんだわ」朱宜映はがっかりした。「彼はどうして兄を尋ねてきたんですか?」
「彼は友達を探していました。見付からなかったので、すぐに立ち去りました」
「友達? 兄の知り合いですか?」
「さあ」
「手紙を書いた人が、方雲善の友達かもしれないんですか?」
「ではないでしょう。火災発生前、既に方雲然の友達が失踪して一週間以上経っていましたから」
「という事は、手紙を書いた人は見付かっていないんですね?」
「昨日までの調査報告ですが」私は報告書を取り出して、テーブルの上に置いた。「もし必要でしたら、引き続き調査致します」
 朱宜映はテーブルの上のクラフト封筒を手に取り、しばし見つめた。
「結構です」頭を上げ、成長したばかりのまだ幼さが残る顔で無理に笑った。「私はもう……過去を忘れる事にしたんです。張さん、この報告書は大切にしまっておきます。でも、永遠に開けませんから」
 朱宜映は私達三人に向かって、しっかりと頷いた。
「そうだ、ビールを一ダース準備していたんだ、乾杯しようぜ!」孫宇丞が盛り上げた。
「賛成! 今日はすっごい疲れた!」王庭輔も続いた。
 朱宜映の目に浮かんでいた涙が消えていった。「張さんも一緒にね、いいでしょ?」
「もちろんです」



「今晩は」
 私は、林博哲の帰宅途中に、彼を道端で引き止めた。
「やあ、張さん、お久しぶりです!」
「あの火災について、あなたの専門的なご意見を伺いたいんです」
「あの火災は事故ですよ」
「火災現場の鑑識についての専門的なご意見ではなく、もう一つの方の」
「何の事ですか?」
「消防隊員のメンタルヘルスです。統計によると、一割から二割の隊員が、PTSDに悩まされていると」
「PTSD――心的外傷後ストレス障害、ですよね?」
「はい。饒河街はいつも火災が発生し、夜市の周辺区域、狭い通り、古い建物、人込み、車両、放置物等、障害になるものだらけ、しかながら都市化は非常に遅い。消防隊員からすれば、毎回出動する度、とても大きなストレスがかかるのではありませんか?」
「もう慣れっこです。ここで育ちましたから。いつも実地訓練しているし、何も恐れる事なんてありません」
「とてもここを重視していらっしゃる」
「ここが私の家です」
「あなたのご家族は、二十年前に火災で亡くなった。その火災もここで発生した」
「……調べたんですか?」
「もっとあなたの事を理解したかっただけです。直接聞いても、答えてもらえなかったでしょうから」
「一体どうしたいって言うんですか?」林博哲は急に怒り、何とか穏やかな口調を保とうとしている。時として、探偵は、わざと相手が嫌がる状況を作って刺激し、隠していることを探ったりしなければならない。私も、慣れっこだ。
「あなたは、何度も火災現場に飛び込んで人命救助に当たっていて、毎回非常に危険です。メディアからインタビューを受けると必ず、饒河街はすぐに都市開発を進めるべきだ、さもないと火災は永遠に終わらないと言っていますね」
「それは事実です。当然、夜市観光で経済を発展させるのは変えられない事です。だったら、せめて都市開発のスピードを速めて、全地域の家屋や電力の改善を図る。これはお金の掛かる事です。でも、神様が大火事を起こして強制的に饒河街を都市化したとしても、同じくお金は掛かりますし、更に人命を犠牲にする」
 救助の理念や、地区のあれこれについて話し出すと、林博哲は周りが見えなくなる、澱みなく喋り続け、インタビューを受けている時と同じだ。
「いや、これは神様と言ってはいけない。神様というのは、人類の意識と行動の結果です。饒河街は結局変らなければいけない。違いはただ、温和な改革か、激動の改革か。どっちにしても言ってる事は当たってる、ですよね?」
「言ってる事は当たってる――も別の意味合いがあると理解できる」
「張さん」林博哲は硬くなって、私と話すのを警戒しているようだ。「あなたは何を暗示しているんですか? 消防隊員が放火? ジョン・レオナルド・オールのように?」
「あ、あなたも彼をご存知ですか?」
「八〇年代のアメリカの連続放火犯で、四人を焼死させた。南カリフォルニア州の消防隊員、火災現場鑑識員で、あの時発生した二千件以上の放火事件の調査を担当していた。実際には、素早く点火できる特殊な時限装置を使って、電源コードから出火させ、自分が放火した現場の鑑識に当たって放火と判定し、自己の洞察力を見せつけた。アメリカ以外の国でもそのような事案はたくさんあった、自分で火を点け、自分で消火する、これをヒーロー症候群と呼びます」
「あなたのこの事件に関する理解は、私の想像をはるかに超えています」
「火災について話すと、私は専門家です。でも、すみませんが、あなたは勘違いしているようです。私はそんな人間じゃありませんよ」
「そうでしょうか?」
「しかし、あなたはチベット仏教の、マダケスリンポチェの護摩に参加されていますよね」
「どうして知っているんですか……」林博哲は目を丸くした。「何を暗示してるんですか?」
「天災に遭う無常、心の拠り所を宗教に求める、と言うのは理にかなった事です。しかし、火災を目の当たりにした消防隊員が、退署後も、心の拠り所を護摩に求める、炎に託す――これも本当に心の拠り所になりますか?」
「私は……」
「もしくは、本当に炎を崇拝し、炎に執着が? となると、あなたはどんどんジョン・レオナルド・オールに似てくる」
 林博哲は黙り込んだ。
 きっと、彼はある種のカミングアウトについて考えているんだろう、ある種の彼が表に出していなかった、カミングアウト。
「あなたは《グラン・ブルー》をご覧になった事がありますか? フランスの映画で、リュック・ベッソン監督の」
 知っているけど、記憶は薄い。「知っています、ダイバーの話ですよね」
「厳格に言えば、フリーダイビングとは、水面下で酸素ボンベを使わず、単純に息を止めてダイビングする事を言います。《グラン・ブルー》は、フリーダイバーのジャック・マイヨールからインスピレーションを得ました。マイヨールは、人間の肺とイルカの肺は似ていて、イルカは海深くに長くいる事ができるのだから、人間も絶対にできると思いました。マイヨールは、心を平静に保ちさえすれば、例えば座禅、瞑想のようにすれば、脈や血流がコントロールでき、高水圧の下でも肺を保護して正常に動く事ができると分かりました。
 私はこの古い映画を観て、深く啓発されました。もし、もっと早くにマイヨールの理論を知っていたら、家族を助けられたかもしれません。火事で家族を失ってしまった。世間の皆さんは私のことを生存者だと思っています。でも、私が助かった原因は――人には知られたくない、秘密なんです」
「どうしてですか?」
「マイヨールの『炎版』だと言っていいでしょう。彼は水中で生きられて、私は火の中で生きられる。もちろん、炎が怖くない訳ではありませんが、人より火に耐性があるのです。火災救助は、一般の人には無理です。消防隊員ですら生と死の間にいますが、私は大きな火災に立ち向かう時も、全くつらくないのです。厳しい鍛錬を積めば更に高いレベルに達する事ができるのは分かっています。あるいは、私のこの能力が、未来のいつの日か、社会のためになる日が来るかもしれません。プロメーテウスは人類の代わりに火を盗み、人類に知恵を与えました。私もプロメーテウスのようになりたい。でも、これは隠し通さなければならないのです。人々を恐れさせてしまう異常な事ですから。
 それで、チベット仏教に入信しました。ある種のスピリチュアルな境界で、自在に救助を達成するのを目指して――自分で発明した名前ですが、フリー・ファイヤー・ファイティングを最終目標にしています。他の人にとって、火は祈りで、厄除けの儀式ですが、私にとっては、精神浄化の過程なのです」
 なるほど――林博哲はその種の才能を持っていて、瞑想で昇華できるのか。
 しかし、それが彼の能力なのか、はたまた幻覚、妄想、自己催眠なのか、確認のしようが無い。ただ、彼は自分の言っていること全てに何の疑いも持っていない。それだけでなく、何度も危険な火災現場で、何の恐れもなく、人命救助に当たっている事、それは紛れも無い事実だった。
「分かりました」私は頷いた。
「信じてくれるんですか?」
「ええ。ですが、違う例え話を、いいですか? もし、誰かがあなたがメディアで発表した意見を聞いて、都市開発の理論を真に受けて放火し、饒河街の未来をあなたの『期待』に沿うように発展させたとしたら――起こり得ないでしょうか?」
「それは狂ってますよ」
「放火犯の動機は様々です。この点は私なんかよりもよくお分かりですよね」
「そんな人がいたとしても、出来っこないですよ。現場のシャッターは鍵が掛かっていて、燃焼を促進させるような液体の痕跡もありませんでした」
「もし、燃焼を促すような物が無くても放火できるとしたら? 例えば、放火犯が火を点けた後に現場から立ち去ったとか」
「セレクトショップのシャッターは鍵が掛けてあって、二階の窓にも鉄柵がありました」林博哲はきっぱりと否定した。「放火犯は現場から立ち去れません」
「とも言えませんよ。火災現場は濃煙が立ち込めていて、何も見えません、一階は火の海です。もしも、放火犯が――仮にXとしましょう――電源コードに発火装置を設置した後、二階のどこかにずっと隠れていたとします。そして、Xは火災が発生して、消防隊が入って来るのを待ちます。そうやって、Xは現場が混乱しているのに乗じて、現場を立ち去る」
「……あり得ないですよね?」
「Xは先に防火服を着て、マスクし、空気呼吸器を準備しておきました。Xは長年、饒河街に住んでいて、火災が日常茶飯事だという事を知っていました。Xは火災について非常に詳しい。Xは、あなたが非常に素晴らしい火災救助のプロで、その日は夜勤だと知っていたので、すぐに駆け付けて消火してくれると分かっていた。
 火災現場一帯が混乱に陥って、Xは消防隊員が現場に突入した後、混乱に紛れて脱出した。防火服を着て、マスクを着けているので、現場の住民や野次馬達も気が付きませんでした。
 現場を立ち去ってから、Xはすぐ付近の小道に入って、身に付けていた物を外して、しばらく隠れていました――夜市では、道端の至る所にプラスチック製のケースやシートがあって身を隠せます。それから、現場に戻って、野次馬のふりをしました。Xは直接逃げる事が出来ませんでした、現場に戻らなければいけなかったのです。火災があったのは午前一時過ぎで、路上には人が少なく、人混みに紛れなければ、かえって簡単に発見されてしまうからです」
「張さん、想像力が豊かですね。あり得ませんよ」
「どこがですか?」
「火災現場の温度は通常八〇〇度以上になります。燃え上がった瞬間は、最高一〇〇〇度に達します。火煙だけでも、二〇〇度から四〇〇度の間です。防火服は確かに高温に耐えますが、しかし十分以上は無理です。防火服が直接一〇〇〇度の炎に触れれば、十秒前後で炭化し、防火機能を果たせなくなります。消防隊員が現場に突入する際は、防火服、マスク、空気呼吸器だけに頼っている訳ではなく、援護放水と、火災現場に留まる時間を短くする事が必須なんです」
「なるほど」
「この世界に……もう一人の私でもいない限りはね。未来の私です」

10

 暗い空間で、私は待っていた。
 リビングのソファーの下に伏せて、ベランダが開くのを注視していた。今のところベランダは何も気配がない。長時間同じ姿勢で体が痺れてきていないか繰り返し確認する。
 三日目だ。午前二時の守株待兎。
 間もなく、月光を通して、ベランダ周りの壁の端に人影が動くのに気が付いた。
 二人がベランダを開けて、リビングに入る、靴を脱ぎ、ほの明るい懐中電灯を点けて、屋内に人がいないかどうか確認し始めた。もちろん、私はうまく隠れている。こんな時にソファーの下に人が隠れているなんて、彼らは思いも寄らないだろう。
 彼らは一階に誰もいない事を確認してから、二階へそっと移動した。
 もういいだろう。
 ソファから這い出て、身だしなみを整え、ベランダ前のソファーに腰掛け、彼らが戻って来るのを待った。
 実は、ここは空き部屋だ。この空き部屋は、彼らをおびき寄せるための舞台で、犯罪の真実を暴くためのトラップ。彼らは二階、三階へ行っても誰も見付けられないだろう。
 思った通り、戻って来た。そして遂にソファーに座っている私に気が付いた。
「やあ!」
「あんた……どうしてここに?」
 彼ら二人というのは、孫宇丞と王庭輔。
「あなた達は、絶対にこういう方法で方雲善を訪ねて来ると思っていましたよ」
 二人とも顔色が変わって、黙った。
「私の推理を聞いてみませんか?」続けて言った。「一月から、台湾でコロナが蔓延し始めて、饒河街の客足も遠退き、たくさんの店が資金繰りに困って、商業区域全体が苦境に陥りました。もちろん、あなた達もよくご存知のとおり、天海組、四合会は早くからずっとここに目を付けていたので、すぐさま地上げに来ました。更に大変な事に、『風華・饒河』地区の再生計画も、資金が底をついて止まってしまっていました。
 政府がマスクの売買を規制した後、国内のマスク需要が急速に高まって、争奪戦が起こっている最中、二人は秘密の計画を進める事にしたのです――マスクの密売。あなた達二人の他に、朱宜慶も計画の中に入っていました。朱宜慶は、普段から中国が輸入先だったので、計画には朱宜慶が必要だったのです。
 あなた達は幼馴染です。朱宜慶は、コロナ禍で経営が思わしくないので、店を売りに出す事も考えていました。そこで、深圳でマスクを買い、台湾で売る裏ルートを三人で作りました。連絡窓口は、台湾の商人、方雲善の秘書、黃文淑でした。
 しかしながら、黃文淑が台湾に戻って間もなく、突如失踪して行方不明になりました。まあ、彼女は既に殺害されていたのでしょうが――犯人はあなた達三人です。黃文淑は台湾に到着してから、マスクの裏取引価格が高沸しているのを知って、あなた達と会ってから、高値で取引しようとしましたが、言い争いになり、あなた達は誤って彼女を殺害してしまった」
「彼女は品物を全部慶君の店に卸すと言って、僕達に全てのリスクを負わせようとしたんだ」孫宇丞も遂に口を開いた。「それに、社長はチベット仏教の修行をしていて、マスクは全部出荷前に護摩をしてある、マダケスリンポチェのご加護があって、万病を治癒する力が備わっている、だからちょっと高いんだって! もとは宗教のお布施だったんだ!」
「それから、黃文淑の死体処理、証拠隠滅をしました。しかし、非常に不運だったのが朱宜慶、朱宜慶は肺炎に罹ったのです――もちろん、黃文淑から感染したんでしょう」
「あの後、僕達は三人とも二週間自主隔離したんだけど、慶君だけが発病しちゃって」
「すごく気を付けて、ずっとマスク着けてたのに。きっと慶君が死体を運ぶ時に、気が緩んで……」
「朱宜慶は重症でした。しかし、あなた達は病院へ連れて行きませんでした。肺炎だと診断されれば、濃厚接触者の調査が始まります。朱宜慶は海外渡航歴もないし、嘘をついたとしても、市中感染だとされます。そうすると、饒河街は感染区域になり、客足が絶え、考えたくもない結果になってしまう。でも、もし本当の事を話せば、黃文淑を殺害した事がバレてしまう。
 そのため、朱宜慶は妹を店に寄せ付けないよう、商売がうまくいかない、機嫌が悪いと言っていました。しかし、実際は、朱宜映に自分の感染を気付かれたくない、そして妹に感染させたくないという思いからだったのです。
 それで、あなた達は事故を装う事にしました――朱宜慶の店に放火して、彼が火災で亡くなった事にする。炎で朱宜慶の肺は焼け焦げて、肺炎と関係するような痕跡は消滅してしまう。四月十日の夜、決行する事にしました。あなた達は朱宜慶の同意を得たのです。彼がこの計画を受け入れたのは、それが唯一の罪を隠し通す方法だったからです」
「慶君が自分で言い出したんです、自殺するって。僕達……そんな事本当にしてほしくなかった」
 孫宇丞は声を詰まらせた。
「計画を実行する前、僕達は慶君から、映ちゃんを台北の外に連れ出してほしい、アリバイを作ってほしいって言われました。この件全て、僕達を巻き添えにしたくなかったんだと思います」
「まさか、朱宜慶を脅した訳ではないですよね――言うとおりにしなければ、本当の事を妹に話すと?」
「違います!」
「そうでしたか。しかし、この計画にはミスがありました。誰も黃文淑の社長さん、方雲善が急に台湾に帰って来るとは思っていませんでした。朱宜慶が放火の準備をしている最中に、彼が訪ねて来て、倉庫まで入った。朱宜慶は、電気を消して二階に隠れました。方雲善は咳が聞こえましたが、全く疑う事なく、すぐに立ち去りました。
 彼が倉庫に入って来た時、電源コード発火装置が動き出していました。実際、この装置は、コンセントの上で少し働いて、数分間で火花が出るようになっていました。
 方法は非常に簡単です。倉庫のぬいぐるみから少し綿を取り出して、電源プラグの刃に付けます。その時、刃は絶縁部があるので絶縁されたままで、通電していない。次に、二階の除湿機の排水ホースをコンセントとプラグの真上に設置します。そうすると、除湿機の水が壁を伝ってプラグに流れ、綿を湿らします。綿が濡れると導体に変わって絶縁部を加熱し、プラグの刃と刃の間にトラックができて放電を起こし、火花が出て、発火します。
 火災現場の鑑識結果は、この装置がいわゆるトラッキングを起こした。つまり、電源コードが古くなり、ホコリ等が蓄積された状態で、湿度が高い環境の下発生する発火現象であると。朱宜慶が最初シャッターの鍵を閉めなかったのは、警察の判断を誤らせて、天海組、四合会が絡んでいると疑わせ、地上げできないようにするためで、放火だと疑わせないためでした」
「……警察にこれは事故だと判断させるために」孫宇丞は言った。「慶君はわざと、お酒をがぶ飲みしました。そして、ベッドのヘッドボードの上に、高粱酒の空き瓶を二本置いて、冷蔵庫の中にお酒を何本も入れておきました。そうやってベッドの上で酔い潰れて起きられなくて、逃げ遅れたように見せかけたんです」
「彼はいつも僕達とグループ電話で話していました。誰かが黃文淑を探しに来たから、注意するようにって言って、最後に、映ちゃんの事をよろしく頼むって」
 王庭輔は堪えられず泣き声を上げた。
「あなた達は現場にいなかったので、それが誰なのか確認できなかった。万が一、その人が警察に黃文淑の捜索願を出していたら、あなた達に捜査の手が及ぶでしょう。あなた達はもう先にやるしかなかったのです。
「そこで、あなた達は謝罪の手紙を偽造して、朱宜映に疑惑を持たせました。朱宜映は必ずあなた達に意見を求めに来るだろう。そして、朱宜映に探偵に依頼するようにアドヴァイスする。シャッターに鍵を掛けず、暴力団のせいにする方法は、あなた達が話し合って決めました。ところが、実行中に方雲善が突然現れたので、朱宜慶は、彼が立ち去った後にまた突然戻ってきて、万が一出火の瞬間に遭って火種を消したり、消防車を呼んでしまったら元も子もないと心配しました。それで、朱宜慶はシャッターに鍵を掛ける事にしました。これが現場が密室になった原因です――しかし、あなた達はこの事を知りませんでした。だから、謝罪文の中の、『シャッターを開けて逃げました』というのが、ロジックとして矛盾したのです。
 あなた達の目的はただ一つ――私の協力の下、あの晩店にいた人を探し出す事。方雲善の事です。もちろん、方雲善を見付けたら、彼は謝罪の手紙など書いていないと否定するだろうし、放火犯だと疑われないように、店に行ってから立ち去るまでの事全てを私に話すでしょう。あなた達は、私から、方雲善が黃文淑の行方を探していると聞いた時、そわそわしていましたね。
 そして、朱宜映が持っている調査報告書を、あなた達は絶対に手に入れて、方雲善の行方を探り、ある事をする必要がありました――それが今ここにあなた達がいる理由です」
「張さん」孫宇丞は肩を落として、ため息交じりに言った。「知っていたんですね!」
「方雲善を守るために、ここに隠れていたんですか?」
「いいえ。二日前に、方雲善は深圳に戻りました。私はあなた達が来るのを知っていましたから、ここでずっとお待ちしていました」
「張さん、お願いです、見逃して下さい! 僕達はこの秘密を背負って、一生掛けて贖罪します。きちんと映ちゃんの面倒を見て、饒河街の地区再建のために尽くします」
「映ちゃんには僕達が必要なんだ……」
「ここに来て本当は僕達が再び過ちを犯すのを止めようとしたんですよね、そうですよね?」
「僕達にもう一度やり直すチャンスをくれるんですよね、そうですよね?」
 孫宇丞と王庭輔が代わる代わるにむせび泣く声が、真っ暗なリビングを一層不気味にした。
 彼らがどう弁解しようと構わない。私が今夜ここに現れた目的はそんな事ではない。
「私のもう一つの推論を、お聞き下さい。いかがでしょう?」彼らが後悔してむせび泣く声が収まるまで静かに待った。「マスクの密輸の事は、朱宜慶がお金のために一人で決めた事です。彼が黃文淑と価格の件でもめた後に、彼女を誤って殺害してしまいました。彼は死体を自分一人で処理し、良心の呵責に耐えきれなくなって、放火して自殺しました」
「張さん、本当に……そういう事にしてくれるんですか?」孫宇丞の目が、月光の下でキラリと光った。
「お願いです、そういう事にしてくれませんか?」
「一つ条件があります。必ずあなた達は答えなければなりません」私は静かに言った。「黃文淑の死体を埋めた場所はどこですか? 方雲善に依頼されましたので、はっきりさせなければ」
「それは……」
「黃文淑の死体は、いつの日か私に発見されます。あなた達には嫌疑がかからないようにします」
 孫宇丞と王庭輔はお互いにしばし見合っていた。王庭輔は力なく頭を振り続け、孫宇丞がそれを止めさせた。
「ああ、言うよ」携帯を出すと、しばらく履歴を見てから、グーグルマップのリンクを私に送った。少し調べてみると、石碇区の林業用地だった。
「早く行きなさい、君達はここに来た事などありません」
 二人は聞くやいなや、大急ぎでベランダの窓を開けて庭から出て行った。リビングには再び元の静寂が戻った。
「聞こえていましたか?」通話状態にしてある携帯に向かって言った。
「うん」
「本当は、こんなやり方をしなくても良かったんですよ。直接彼らを訴えられるのに」
「やりたかったの。これも依頼の一部分です――全ての真相が知りたかったの」
「許しますか?」
 彼女は答えなかった。電話を切る音が聞こえた。

〈了〉

阿部禾律 訳
 疫魔ノ火(Plague Demon's Fire)

一九七五年、台湾・高雄市生まれ。一九九五年、短編「考前計劃」でデビュー。二〇〇二年、長編『請把門鎖好』が第四回皇冠大衆小説賞大賞受賞。著書多数。小説のほか、解説やコラム、翻訳なども多く手がけている。二〇二〇年、自身の十作目となる探偵・張鈞見シリーズの短編集『城境之雨』を発表、その中の一編『沉默之槍』が台湾でテレビドラマ化された。


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