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『蜘蛛の糸』 読書感想文

久々に読書感想文を書くのでどうやって書こうかとあくせくしている。読書感想文なんてのは小学生以来かもしれない。いきなり芥川龍之介を選んで感想文を書こうというのもなかなか渋いなと個人的に思う。しかしこれはそれほど難解な文章でも、長ったらしい文章でもない。とてつもなく短いお話である。以下物語の内容を記す。



❐内容

登場人物は御釈迦様と生前大泥棒を生業としていた犍陀多(かんだた)だ。犍陀多というとドラクエに出てくるモンスターを想起する。ドラクエスタッフは恐らくここからネーミングの着想を得たのだろう。確かにモンスターのいで立ちは泥棒を連想させる。脱線した。物語の内容に戻る。

場面は極楽浄土と地獄に分かれている。犍陀多は生前悪行の限りを尽くしていたらしい。しかし御釈迦様は、生前の犍陀多が一匹の蜘蛛を救ったことを思い出す。そこで御釈迦様は極楽浄土の遥か下に広がる地獄に向け一本の蜘蛛の糸を垂らす。犍陀多は一目散に蜘蛛の糸をつかみ極楽浄土へのぼり始める。しかし、犍陀多以外の地獄で苦しむ罪人らがその糸をつかみ後から登ってきたせいで糸が切れてしまい結局最後はみな地獄へ真っ逆さまといったオチで終了する。

御釈迦様は極楽の蓮池のふちに立って、この一部始終をじっと見てらっしゃいましたが、やがて犍陀多が血の池の底へ石のように沈んでしまいますと、悲しそうな御顔をなさりながら、又ぶらぶら御歩きになり始めました。自分ばかり地獄からぬけ出そうとする、犍陀多の無慈悲な心が、そうしてその心相当な罰をうけて、元の地獄へ落ちてしまったのが、御釈迦様の御目から見ると、浅ましく思召されたのでございましょう。

この物語の主張を引用したものだ。要は他者に慈悲をもち、もっと利他的に生きるべきだ、そういうことをこの物語は伝えたいのだろう。



❐感想

御釈迦様は犍陀多に少し甘すぎやしないか。御釈迦様は蜘蛛を救った程度で犍陀多に助けるチャンスをお与えになる必要はなくないか。考えてみれば犍陀多は生粋の大泥棒である。本文には彼が悪質な放火や人殺しまでやったと記述してある。これはもう救いようがない大悪党ではないか。地獄がお似合いである。こんなやつにチャンスをお与えになる御釈迦様は大変慈悲深い御心をお持ちなのだろう。もしかすると作者は御釈迦様の慈悲深さを表現するためにあえて犍陀多という悪党を中心人物に選んだのではないか。考えすぎかもしれないが。

では犍陀多は蜘蛛の糸が下りてきた時どうするべきだったのか。答えはシンプルである。犍陀多は深い慈悲の心をもち蜘蛛の糸を皆で共有するべきだったのであろう。地獄の罪人を一列に並ばせ、一人ずづ登らせる。糸は大変繊細で複数人つかまれば切れる可能性が高い。なので面倒だがこれしかない。それでもって犍陀多は皆が極楽浄土へたどり着いた後にのぼるのである。

まあ実際正直こんなことができるわけがない。地獄でさんざん痛い目にあっているならいち早く、皆にばれないようにのぼりたいというのが本音だと思う。しかも周りは赤の他人でかつ罪人だ、慈悲なんてかけていられない。要はものの例えだろう。それぐらい慈悲深く生きろよ、というメッセージを伝えたかっただけだと忖度する。


自己中心的な生き方はつまらないと思う。他人への必要以上な干渉は不要である。しかし、利他的な生を送ることに喜びを感じることも事実だ。利他的に生きることは自分のためにも、相手にためにもなることだと思う。



無機質でつまらない感じの文章になったかもしれないが、こういった文章を書くことはけっこう楽しい。今後も色々な小説や新書を取り扱っていきたい。一日おきぐらいで。





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