カルチャーショック。
「アメリカ人ってやつあ、一体全体どうしてここまで積極的で物怖じしないのかねえ。」
アメリカの小学校での授業風景を思い出すたびに、思うことである。
思う思う、うるさいとこではあるがここは一つ僕の昔話でも聞いてくだされ。
小学三年生のころ僕はアメリカの小学校に一年間だけ通っていた。
当時の自分は英語やアメリカの文化に疎すぎたので色々と混乱していた。
混乱し、辟易し、疎外感を味わいながらも他の生徒を観察していく中で強く印象に残ったことがある。
彼らの積極性だ。
彼らは積極的過ぎるのである。
学校での授業を振り返ろうか。
その現地校には日本人が全くいなかった。
僕にとっては完全にアウェイな環境。
英語は全く分からなかったのでなんとかジェスチャーでアメリカ人との会話を乗り切っている状況だった。
ひーひー言いながらもこの状況を乗り切った僕をなかなかに適応力があるやつだと褒めてやりたい。
そんな英語を話せない僕だったけど他の生徒と同じ空間で一般科目の授業を受けさせられる毎日を送っていた。
英語が聞き取れない、話せないやつに一般科目を受けさせて何になるんだと不満を漏らす毎日であった。
一方で「ここは日本と違うな」という気づきもあった。
発言することへの異常な執着に日本との違いを感じた。
「I got it! I got it!」
先生が生徒に発言を求めようならば教室は阿鼻叫喚、まるでインターホンに死に物狂いで吠える飼い犬のような声を上げ生徒らは一斉に手を上げる。
「こんなの日本じゃありえねえ。」
我さきに発言しようと教室の9割の腕は天井に向けて高く伸びあがっている。
間違った答えであれば先生は生徒の発言を冷たくあしらう。
「No.」
真顔でドスの利いた先生の「No」は発言するのを躊躇わせるものがある。
にもかかわらず生徒はへこたれない。
「なんなんだこの強靭なメンタルは、どういう思考回路?」
「なんでそこまで発言したいんだよ。」
生徒に直接聞く勇気も興味もそのころはあまりなかったから実際のところどういう心境で生徒らがそういう行動をとっていたのかわからない。
推測してみよう。
しかしそう簡単にわかるモノでもない。推測には材料が必要だ。
こういう時のための検索エンジンである。
ようはカルチャーの問題だ。
日本だと
「発言しても議論の結論が変わるわけでもあるまい。」
「もう結論はでているんだ、自分の意見なんて何の影響力もないだろう。」
そういう考えをもつカルチャーだから発言することを忌み嫌う。
アメリカはその逆なのである。
カルチャーの違いという結論はなんともありきたりで新鮮味がない。
ただこれは事実だ。
環境、カルチャーは子供の頃から人間に多大な影響を与えるものなのである。
幼少期からどのようなカルチャーを与えるかはとても重要なこと。
個人的にアメリカ人がもつ積極性はとても魅力的だ。
それがあれば授業も会議も活気のあるものになるし、新しいアイディアも出やすいだろう。
黙ってばかりいるのは日本の悪いところだ。
様々な国のカルチャーをいいとこどりして新しいカルチャーを将来の自分の家庭内に築き上げたいとこの記事を書いていて思う。
サラブレットな文化を形成したい。
そういう野望を僕に抱かせてくれた米国の小学生一同に感謝の意を表す。
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