かつて見たこの映画のことを全く思い出せない

『これは7年前に「鍵泥棒のメソッド」という映画を見た時に書いた文章だが、この映画のことを全く覚えていない。とても残念なような気もするが、映画なんてそのくらいのものなのかもしれない。』

以前にも何回か書いたことだが、
堺雅人といえば、僕を筆頭とする、全国の、
菅野がいてくれたからこそ今日まで生きて来れた、
と言っても過言ではない、(いや、これはちょっと過言か?)、
とにかく全国の菅野ファンから、菅野を奪った、
許すことのできない人物だが、よく考えたら、
菅野にいつまでも独身でいてもらうわけにもいかないし、
SMAPと結婚されるよりはマシかもしれないし、
堺雅人を憎み続けるよりも、
いっそ好きになった方が楽かもしれないと思って、
「鍵泥棒のメソッド」を借りてみた。

それで、借りてから気づいたのだが、
この映画の脚本と監督は内田けんじだった。
内田けんじといえば、数年前に、
「運命じゃない人」という作品を見て、
「面白い映画だなあ」と感心した監督だった。
なんかアメリカの映画学校を出たような経歴の人で、
練りに練ったエンタテインメント性の高い脚本を作る人である。

その脚本というのは、構成が、
ガイ・リッチーとかタランティーノの映画みたいな雰囲気で、
3人くらいの登場人物のエピソードが、
複雑に交錯して、どこかの接点でくっついたり、
また離れたりしながら、だんだん絡み合って転がり始め、
最終的に一点に収束して、映画がクライマックスを迎える、
という感じになっている。

その物語の設定と描写のしかたが洒落ていて、
ガイ・リッチーの
「ロックストック~」や「スナッチ」、
そしてタランティーノの
「トゥルー・ロマンス」や「パルプフィクション」
のようなジャンルの映画の匂いがするのである。
そういう映画を、日本風に、
泥臭くしたような仕上がりになっている。

しかし、確かに面白いのだが、
ただ面白いだけで、見た後には何も残らない。
別にそういうのが悪いというのではないが、
僕はもう少し、余韻の残るような映画が好きだ。

三谷幸喜や周防正行や矢口史靖なんかの映画もそうで、
とてもよく出来ていて面白いのだが、何かが足りない。
コクや旨味の足りない料理のようだ。

あまりにもべったりと心にこびりつかれても重いのだが、
「2001年~」に出てくるような宇宙食を食べさせられて、
これはカロリーや栄養素もばっちり配合されていますから、
と説明されても、
もう少し目でも食感でも楽しみたいんですけど、
という気持ちにもなるではないか。
まだ壇蜜主演の「私の奴隷になりなさい」の方が、
登場人物に「心」があって、その「心」の揺らぎがあった。

アンドレ・バザンだったか、
アレクサンドル・アストリュックだったか、
元は誰の言葉かはっきりとは知らないが、
「映画は二度死ぬ」とはよく言ったもので、
これは、最初に頭の中で生まれた映画が、
まず脚本にする時に原稿用紙の上で一度死に、
そして撮影する時にフィルムの上で二度めの死を迎える、
というような意味らしい。

しかしそれは、
そうやって撮影されたフィルムを、
切って、つないで、上映した時、
スクリーンの上で水中花のごとく、
ゆらゆらと再生するのが「映画」だ、
というのがオチの話ではなかったのだろうか?

それならば、「再生」するためには、
どこかの過程で、誰かが、
例えば頭の中で誕生した時や、
紙の上に書き留められた時や、
現場で撮影された時に、
脚本家か、監督か、役者か、
あるいはカメラマンか、スクリプターか、スタントマンか、
とにかくスタッフの誰かが、映画のどこかに、
言葉や、しぐさや、衣装や、髪型や、
照明の陰影や、録音するマイクの角度や、
その他、有形無形の、フィルムに記録されている、
意図的にせよ、意図的でなく結果として残されたものにせよ、
「何か」の中に「命」を吹き込んでいなければ、
元々「生きて」いたものでなければ、
そもそも「復活」しようもないではないか。

なんか蓮實重彦風の、
スノッブな文章になってしまいましたが、
まあこれは極論で、
「鍵泥棒のメソッド」にだって、
「生きて」いる部分はありましたよ。
「すてきな金縛り」だって、
「シコふんじゃった」だって、
「秘密の花園」だって、
本当に面白い、いい映画です。

ただ、僕にとっては「何か」が足りない。
ガラムマサラなのか、パクチーなのか、
追いがつおなのか、よくわかりませんが、
何かが一味足りないんです。

とても抽象的な言い方を許していただくなら、
僕が映画に求めているのは「命」です。
そしてその「命」というのは「愛」なんです。
そしてそれは「息づかい」です。

スクリーンに上映されている映画を見ている時、
背後に、カメラの横に立っている、
監督の息づかいが感じられる。
ファインダーを覗いているカメラマンの、
そのカメラのピントを合わせているアシスタントの、
ストップウォッチを握りしめているスクリプターの、
出番を待っている役者の、そしてその他大勢のスタッフの、
ただ一点を、固唾を飲んで見守っている息づかいが聞こえてくる、
ような気がする映画、それが「生きている映画」です。
誰かが何かを愛しているさまが、
記録されているのが優れた映画です。

それで、話は菅野に戻りますが、
菅野というのは、ただ立っていて、それが撮影されているだけで、
そこに「愛」が生まれてしまう、希有な存在です。
菅野がCMで「ハイボールには唐揚げでしょう」と言えば、
「本当にそうですよね」と思ってしまいます。

それがなんで井川遥に変わるんだ?
彼女から言われたって
「いえ、僕はお酒飲まないんです」としかならないではないですか?
菅野が「愛情一本」と言うんだから、
チオビタを飲まない限りは、
絶対に疲れなんてとれないと思います。
やっぱりコーヒーにはクリープだよねと思います。

そして化粧品のCMを見て、
えー、菅野って、小鼻の横が化粧乗りにくいんだ、
でも、そういうところがかわいいんだよなあ、
なんて思ってしまうのです。

僕はクソつまらないテレビドラマなんて見ませんが、
菅野が出ているドラマには、
きっと「愛」があったのだろうと思います。

だからもしかしたら、堺雅人の「半沢直樹」にだって、
どこか面白いところがあったのかもしれないし、
堺雅人がCMをしている、ソフトバンクの携帯を使ってみるのもいいかもしれない、スカパーだってそれなりに楽しめるかもしれないぞ、
とも思ってしまうのです。これが「愛」の波及効果です。

というわけで「鍵泥棒のメソッド」ですが、
結局いい映画でしたよ。
きっと菅野のおかげだと思います。
特に広末涼子が良かったです。
広末が演じる人物の造形が際立っていました。
中でも香川照之と待ち合わせて、
手を振るカットが良かったです。

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『そして今、菅野美穂が出ている「うちの娘は彼氏ができない」というテレビドラマがやっていて、ほとんど初めてテレビドラマを毎週見ているのだが、このドラマは北川悦吏子という、ベテランの脚本家がシナリオを書いていて、随所に旧式の、面白くもない「滑稽な」シーンが挟まれているのだが、菅野がこのシナリオを演じると、けして面白くはなくても、なんとなくほのぼのとしてしまう。これがいわゆる「吊り橋効果」的なものなのか?』

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