見出し画像

問1 美術館とパチンコ屋の違いを述べよ。(回答例は最後に)

かつてパチンコ業界には現在のような規制がなく、ユーザーの射幸心をあおるような強烈なレートの台が存在しました。ギャンブル中毒のような症状を呈するユーザーが増えたことなどもあって、現在は遊戯の範囲を逸脱しない程度に制限が加えられています。
勝った負けた、とは言いますが、実際には内蔵のコンピューターが確率をコントロールしているわけで、だいたいのところ、(最速で)一時間あたり2万円程度消費することになります。
いわば一時間の遊戯時間を最大2万円で買って消費している、ということですね。
パチンコ愛好家たちはそのなかでリーチ演出をはじめとする各種の兆候を、台の各所から読み取り、自分にとって有利な確率パターンが採用されているかを判断して、継続して遊んだり台を変更したりして、まあある程度の時間をそこで賑やかに過ごします。
(なんだか、何かの消費の仕方と似ていますね)

さて、もういうまでもないでしょうが、この体験を可能にしている構造(なかんずく金と情報の動き方)は、美術館で機能しているものと全く同一です。
パチンコ屋ではいかにも賑やかで、景気がよい感じを体験するのに対して、美術館では静かな雰囲気を体験する、という違いはありますが、そのどちらが文化的に優位であるというだけの根拠は存在しません。

デュシャンが男性用便器を美術館に展示して以来、アートは文脈のゲームにすぎないことが露呈されてしまいました。あとはこの文脈をいかにうまく組み合わせることができるかという勝負になります。
(それはどの人気アニメや芸能人とコラボすれば、またどういった確率パターンを採用すればうけるかを日夜考えているパチンコ屋と似ています。)

この流れに対抗して、文脈を超えた体験の強度こそが大切なのだ、という立場も存在します。なるほど、その通りかもしれません。

しかし、美術館がその体験を提供する特権的な場であるとはいえません。美術館はあくまでアートをアートたらしめる制度の一部でしかなく、それと質的に区別される『アート体験(そんなものが存在するとして)』のための必要条件ではないからです。
(パチンコ中毒は社会問題になりますが、美術中毒というのは全く聞いたことがありません。それはじつは扱うメディアの魅力の差を暗示しているのかもしれません。)

すばらしいアート体験というものが存在しない、といっているわけではありません。
もはやアート体験とアートとが無関係であるならば、アート体験のために美術館は不要だと述べているにすぎません。

現代芸術の流れからいえば、パチンコ屋でのかけがえのない体験をアート体験と呼んでならない理由はありません。
今日、それが美術館で体験されようと、パチンコ屋で体験されようと、どちらも等しく価値がある(あるいはいずれも主観的なものでしかない以上、価値がない)のです。
このどちらかの価値が優れている、と思うのはもちろん自由ですが、それを根拠づけているものは個人的な信仰心以外にはないでしょう。

しかし、だとすると、個人的な信仰心を、ひとはどうしてわざわざ既存の制度によって補強したくなってしまうのでしょうか?
まるで制度によって補強されなければ、信仰すら維持できないというかのように。


では最後に演習問題です。
以下では○○とある部分にそれぞれパチンコと美術という言葉のうち、好きな方を代入してください。

まず専門の業者、ないし役所の専門の部署が○○のための施設をつくるために計画をたてます。計画は役所の所定の部門の許可や、場合によっては地域住民の理解を得た後、実行されます。○○が社会に与える影響が議論されたりもします。
施設が完成するとお披露目です。
同じ○○作品ばかりでは客に飽きられしまうので、てこ入れの企画が催されたりします。
その際、新しい○○作品は基本的には金銭によって購入されたり、レンタルされたりします。
このとき、当然ですが、予想来場者数と一人あたり支払い金額等が計算され、この予算の範囲内で企画のための準備がなされます。

さて、私たちは○○を楽しむとき、業者の投資分をペイするため所定の金額を支払います。
○○が置かれた空間で、私たちは○○作品を軽い気持ちでなんとなく楽しんだり、細部についてうんちくをのべたり、背景の物語について語ったりします。恋人と訪れたりすることも少なくありません。
○○で得られる知識は、基本的には○○愛好家の間でしか通用しません。いうまでもなく普遍の価値などありません。が、当人はなぜか○○をよく知らない人々に対して優越感を抱いたりします。
○○によって十分に満足できた場合は、ここでの体験は他に代えがたいものだ、と感じたりします。逆に不満足な結果に終わったときは、金を返せ、という気分になったり、こんなの所詮、くだらない商売だよ、と唾棄したり、あるいは逆に自分のふがいなさを責めたりします。


さて、以上を前置きとして、いよいよ表題の問いについて、ひとつの模範解答を与えたいと思います。
が、すこし疲れてきたのでこれで終わりにします。



追記:
実験の提案。
1 まずパチンコ(あるいはアート)について語られたNOTEの記事を探す。
2 その文章のなかのパチンコ(あるいはアート)の文字を、アート(あるいはパチンコ)に頭のなかで入れ替えてみる。
3 鑑賞する。
4 それまで全く存在しなかった水準の猛烈な美術愛好家が現われたり、いかにも勝負には向いてなさそうな感傷的なパチンコ愛好家が現われることを確かめ、世界の広さを実感する。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?