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なんでもかんでも「コロナだから」で片付けるのではなくて

緊急事態宣言下で映画「緊急事態宣言」を見た。

Amazonプライムビデオで8月28日から配信されている。存在自体は知っていたのだが、その頃にはもう春に政府が出していた緊急事態宣言(4月7日に1都7県、16日には全国に拡大した)は過去のものになっていた。それでいても新型コロナの感染拡大は続いていて、過去のものではあるけれどまだ身近にあるような、そんな気持ち悪さがつきまとうタイトルから、視聴を避けているところがあった。しかし年が明けた1月8日、また緊急事態宣言が出された。そして、これを書いている今もその緊急事態宣言の真っ只中だ。過去のものだと思った緊急事態宣言が、再びやってきた。ならば見ようと思い立った。

映画「緊急事態宣言」とは

 公式Twitterを見てみると、これは「5組の監督と豪華キャストが1つのテーマに挑む!コロナ禍に誕生した新時代エンターテイメント」らしい。

「集まれないから」ではなくて

 どの作品も、一人暮らしのシーンやビデオ通話をしている光景が多く登場する。撮影時の“密”を避ける目的もあるだろう。見終わって思ったことは、コロナ禍で製作陣が集まれないからこのような作り方をしたのではなく、コロナ禍の関係ない世界、つまり2019年末までの「新型コロナ」を知らなかった時代とか、ちまたで「ポストコロナ」とか言われている、人類がコロナ禍を克服した未来にこの映画が作られたとしても、同じような手法で作られていてほしいなということ。

ぼくの好きなお笑い芸人・ハリウッドザコシショウが言うことには、「ライブができないからその代わりで配信というのは、どっちも中途半端な感じ」らしい。リモートならリモートでの良さを探していくべきだというのだ。

緊急事態宣言が出て以降、テレビにはリモート収録になったバラエティ番組があふれていた。最初は芸能人の自宅が見られたりして、思いがけず新しいブームが起こったような感じがした。しかしすぐに皆飽きてしまったのか、それとも慣れてしまったのか、リモートであることはあまり特別なことではなくなってしまった。ただ今までやっていたことを、リモートでやっているだけ。まさに「新しい生活様式」だ。でも、じゃあこのコロナ禍が去ったから「リモート〇〇」が世界からなくなってしまうのは、それはそれでさみしい。オンラインはオンラインで、ひとつの選択肢として残っていてほしい。その点でも、この映画「緊急事態宣言」はひとつのターニングポイントというか、少人数で、リモートで、映画を撮る文化のひとつとして残ってほしいなと思った。

あとから振り返った時、この映画たちが「コロナ禍だから」少人数で撮影されたのではなく、いつの時代に撮られてもこういうものだったろうと思いたい。

過去を振り返る時、変な因果関係作りがち

過去を振り返る時は誰しも、目立った事象を引っ張り出してきて因果関係をつくりがちだ。例えば、ぼくの周りだけかもしれないが、中学や高校の頃は、メールやLINEの返信が速い人=暇な人、やることがないかわいそうな人、というなんだかマイナスなイメージがつきまとっていたように思える。しかし大学に入るとどうだ。飲み会の誘いやサークルの事務連絡など、返信が速い人=いい人みたいな風潮に変わった。もちろん、高校生同士のたわいもないやりとりと、大学生の事務連絡では重みも違うことはわかる。しかしそれを差し置いても、この変化は大学に入ったぼくに大きく響いた。

では、この原因はなんなのか。考えられる要因はいくつかある。

①大学生になったから(そもそも大学生とは返信の速い生き物)

②時代が進んでインターネットを介したやりとりが普通になったから

③都会だから(ぼくは大学から関東にやってきた)

①が原因なら、日本中の大学生は返信が速いことになる。しかし、あまり携帯を見なかったり、アルバイトに勤しんだりと人によって事情は異なるが、返信が遅い人は一定数いる。なのでこれは違うだろう。

②なら、現代は返信が速い=いい人な時代であり、老若男女問わず返信が速い人=いい人なので、ぼくの地元の中学や高校でも同じ風潮に違いない。これに関しては、知り合いがいないので検証できない。

③なら、都会人はみんな昔から返信が速い人=いい人になる。つまり、ぼくが高校時代に返信が速く、暇でかわいそうな人だと思われていた頃も都会の人は速い返信を求めていたことになるし、今もぼくの地元では返信が速い人=暇でかわいそうな人、ということになる。これも検証のしようがない。しかし、仮にぼくがいきなり「都会の人はみんな返信が速い!それに比べて田舎は〜」などと言い始めたら、おそらく田舎でも返信が速い人=いい人な人たち(がもしもいれば)から非難を浴びるだろう。

つまり、起こったことと、その時が自分にとってどういう時であったかは必ずしも因果関係にあるわけではないということだ。

なんでもかんでも「コロナだから」で片付けたくない

長々と何が言いたいかというと、何十年もした後、その時代の特徴を「ポストコロナだから」と片付けるようなものの見方はしたくないということだ。 

思い返してほしい。2020年、年が明けてすぐのこと。テレビをつければ、CMにはアスリートがたくさんでてきたし、人がランニングしている映像なんかもよく流れた。駅前の広告もスポーツに絡めたものが多くなっていた。2020年に行われるはずだった東京オリンピックを意識したものだっただろう。そして年が明けた途端、新しい時代だぞ!みたいな、変にポジティブなCMや広告が増えまくった気がしたのを覚えている。なんだか、「東京オリンピックの前と後」で歴史を大きく変えようとする見えない力みたいなものを感じて、少し息苦しかった。そういうのはあとから振り返って検証するものであるはずなのに、オリンピック前から「オリンピックがあったから」という因果関係を作り出そうとしているように感じた

思いがけずコロナ禍で東京オリンピックは延期となった。しかし、今年の年明けのテレビや広告は、「今年こそいい1年に!」みたいな空気があって、これまた気持ち悪かった。オリンピックの開催の是非が今また問われているが、オリンピックをやりたい人たちは、人類がコロナを乗り越えた象徴としてオリンピックをやりたいのだそうだ。でも、時代の象徴なんてものはあとから決まるものであって、先に掲げるものではないと思う。オリンピック以外にも、これから「ポストコロナの象徴」みたいなものがたくさん出てくると思う。しかし、これから起こることが何から何まで「コロナだから」とか「ポストコロナだから」とかで片付けたくはないなと思っている。


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