あの時「それ」はいたのだろうか?
この記事にとって本当はタイトルを示すだけで十分だと思う。私はこの映画を偶然にも映画館で観れた。
上映時のパンフレットもちょっと古いながらもとてもすっきりして美しかった。そして、実際に観るまで私は頭の中でこの映画のタイトルを何度も反復して思い浮かべた。日本語でも英語でも。
この1センテンスになっているタイトルはは一体何を言っているのだろう?作品の中で、それは幻影のような体験として描かれるのだろうか?少しSFじみて、タイトルに含まれる「それ」がちょっと出てきたり?それとも、本編では全くそれに触れもせず話が進むのだろうか?
これも最近のネット環境のため、色々なサイトに「あらすじ」が掲載されているのは分かったが、私はそれを読みかけてやめた。とても心をくすぐり、さまざまな想像をかきたててくれるタイトルに色をつけずに作品を見たくなったのだ。
ほんのちょっとだけ読んだストーリー説明には、あまりパッとせず日々を細々過ごしている女性が現代風に活躍している自分より若い女性画家に、その作品に触れたことで強く惹かれ、彼女の秘書になって進んでいくという。
「それ」はどこに潜む余地があるのだろう?やはりときめくほどに心を揺さぶられた。もちろん、勝手にそうした気持ちになり、実際に観てがっかりする作品が多いのも事実。私はなるべく平静な気持ちで観てみようと思った。
実際に鑑賞し始めると私は、数十年前のアメリカかカナダだったかの「おしゃれだが田舎臭さや人工的に無理をした街」の舞台に誘われた。そこでの洗練は当時としても幾分垢抜けなかったと思うし、そこで売れだした流行りの女性画家は自分ではそうは思っていないだろうが、若干無理のあるクールなショートカットでレザージャケットがよく似合っていた。
主人公は確かにぱっとしない雰囲気を醸し出していた。仕事でも緊張しやすいのかささやかな事務をするのにも自信なさげで、それを上司たちに冷ややかと言うか横目で下に見られてスルーされるような日常を送っていた。徐々に分かるのだけど、彼女は趣味で写真をとっていた。自分だけの楽しみとして細々と。それは自信のない彼女にとって、他の人に ―いや彼女にとっては強風が吹いているように感じるセカイに― 触れさせたくない大切なもののようだった。
ある日、主人公はギャラリーに出かけ、そこで自分の気持を掴まれた作品とその作者である若手女性画家に出会うことになった。売れっ子になっているその画家はいわゆる実力者や美術界の権威のような人たちに囲まれていて、主人公はその人の輝きにとても惹かれたのだった。
その後偶然、主人公はそのアーティストと近づくことになり、それもあって彼女の秘書になったのだった。小さめの体つきで、すっとした女性に彼女はもっと惹きつけられ、あまりしっかりしていない自分の仕事ぶりをバカにしないその姿に憧れ、頬が赤らむくらい胸が高鳴る自分に戸惑ったりする。そんな気持ちを男性に抱いても、後で失望することが多かった彼女は、その不思議な高揚からちょっとだけ凛とした気持ちで日々を送れるのだった。
不思議な気持ちだ。ここまでで映画の1/4くらいなのではないだろうか?どうしてこんなにストーリーが湧いてくるのか、その理由が私には分からなく思えている。
主人公はそんな暮らしの合間にも、大事な趣味である写真を小旅行をしては撮っていく。デジタル以前の時代だ。スナップショットとして現像して、彼女の小さな一人暮らしのアパルトマンのキッチンの壁に貼って眺める、と言うより、それに触れながら暮らしているのだ。か弱く自信のない女性なのだな、とそれを観ながら私は思った。
画家の絵は売れ、都会的デザインの立派なアトリエに住んでいる。この映画があまり人気がなかったのは、画家と主人公の心の交流がどんどん展開していくわけではないことによるのだろう。バラバラな二人の暮らしは進み、少しずつ断片的に主人公は画家との仕事生活の中で憧れだけでなく現実も見ていくことになった。
一つは、画家が誰にも売りも見せもしない作品があり、それはいつも布をかぶされギャラリーの隅に置かれていること。もう一つはその画家は同性愛で時々かなり年上の有力者の相手を見つけては、妙にセクシーに甘えたり、自分の方がイニシアチブをとって愛欲を満たしている姿だった。
わかりやすい感情は描かれないが、主人公は画家の大切な小さな作品 ―画家の大事な小さな想い?― が気になっていき、この複雑な両方の気持ちはときめきを冷まさせるが、言葉にもならない感情で一杯になっていく。それは虚しさに似ているようにも見えたが、何か彼女を変えていく静かに満たされていく水のようにも思えた。
この映画を観てすぐそう思い浮かんだわけではない。終幕は当時としても古めかしいような、典型的すぎる描かれ方のような終わり方をするので、こちらも何かその陳腐さに残念というか虚しいような、でもそれだけであってほしくないという悔しさにも思えるし、実際何かあったような感触をまたずっと抱くことになったのだ。
もうここで筆を止めようと思う。今でもなんとも言えない余韻が湧いてくるし、きっとこの映画はあまりはっきりした風に話さないほうがいい気がしてきている。
読者には、そのうえでいくつか謎を残しておきたい。この作品は字幕版しかなかったし、DVDは少なくとも日本では発売されていない。どうも探すとネット上で観れたようだが、今でも可能なのかも調べてはいない。だから、出口を示せずに、示さずにおく私に呆れるだけかもしれないけど。
「それ」はいた。いえ、おそらくいたように描かれている。主人公の気持ちがどのようにかは分からなかったけど変わっていく中、それこそ強風吹きすさぶある場所で。とても不思議な手法で表現されていた上、そのシーンで主人公は無表情だった。彼女は「それ」に気づいたようにもそうでないようにも見えた。
画家の大切な絵は、画家が、主人公が自分に失望したのに鋭敏に気づいて、二人が一度だけ感情をぶつけた後、画家がいない夜にアトリエに忍び込んだ彼女によってこっそり布がめくられた。どんな絵だったかは私は言えないけれど、何かとても輝いていたように思う。それは本当に画家にとって大切なものだったのだ。ルーベンスの絵を命のきわで見上げたネロも同じような気持ちになったのだろうか?などと私は想像した。
そして、主人公の密やかな趣味は、終幕、彼女が画家のもとを去ることにきめたのを、やはり繊細に気づいた画家に見いだされるのだった。どんな風にだったかも私は書かないでおくことに決めたが、二人が子供の時分にしか出せないような純でうれしそうなすっきりした微笑をしたのだけは触れておいて良さそうに思う。
打ち明けるなら、いつも同様、ストーリーが正確に再現できている自信は全くない。それすら確かめずに、だけど鑑賞する前後から、この作品に触れて感じたこととしては間違いなく一貫している気持ちは書けたと思う。
余談だが、臨床精神分析学の最先端の一人クリストファー・ボラスが実は同名の「精神分析的」小説かえっせいを書いている。私はそれをあえて読まずにおいている。
「私は人魚の歌を聞いた」原題 # I have heard a mermaid singing
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