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春宵、桜と鬼(テーマ:さくら)

自殺未遂表現、パワハラ・モラハラに関する表現あり
苦手な方は閲覧をお控えください。この作品の全てはフィクションです。

 今日、首を吊る。思えば、大きな山も谷もない人生だった。
 平均から大きく外れることはなくて、特別優等生ということもないままここまで来てしまった。
 きっと、俺が死んだことを知った人は笑うだろう。ちょっと職場の人間関係が悪くて、ちょっと終わらない量の仕事を押し付けられただけなのだから。
 もっと辛い人がいる、食うに困る人がいる、それに比べたらなんてこともないだろうにと言うんだろう。やってに言ってろ。
 そのちょっとが、俺には辛いんだ。朝起きて家から出ようとする度に、心臓が痛くなって、立ってられない程の眩暈に襲われるんだ。もうそっとしておいてくれ。
 少し自暴自棄になって公園のベンチで缶ビールを空ける。手元にあるビニール袋は2種類、会社の帰り道にあるホームセンターで買ったロープと小さい踏み台を入れている袋と近くのコンビニで買った缶ビールが10缶入っている袋だ。
 今まで、泥酔したことはなかった。大学の時は、飲めなくても無理に飲ませようとしてくる人はいなかったし、仕事を始めてからは延々とお酌周りで座って何かを食べること自体ができなかった。
 どうせ死ぬなら泥酔をしてみたい。そんな安直な気持ちで安酒を買い漁った。
 泥酔して自慢話と説教を繰り返す人が楽しそうに見えたからやってみたけど、嫌な事ばかり思い出して楽しくない。
 それでもアルコールは着々と体に回っているようで、少しずつ気持ち悪くなってきた。1本目の半分も飲んでいないのに。
 惰性で、企画的に口を付ける。独特な臭いが鼻について吐きそうになる。吐きそうになるのに吐けないのは名前ばかりの新入社員歓迎会で実証済みだ。
 吐ければ幾分かましになるのは分かっているのに、どうして俺はこんなんかな。なんかもう、分かんないや。
 初めて一気飲みをさせられた時と同じように、一息で半分以上あった缶の中身を体に流し込む。
 よくある話だろう。上司に書類の束を投げつけられたり、ペットボトルを投げつけられたり、大学時代の研究テーマは酒の席で馬鹿にされたりするのは。
 2週間前に人事課に相談のメールを送った。人事課にはパワハラやセクハラといった被害の相談窓口がある。匿名性は確保されて相談した人が不利益をこうむることはないとされていた。
 だから相談したのに、返ってきたのはパワハラに当たらないという答えと上司からの呼び出しだった。
 上司の話を要約すると、人事課から俺がパワハラ相談のメールをしてきたと上司に電話があったらしい。当然、上司は否定、人事課はその返答で満足して電話を切ったらしい。
 その時蹴り上げられた腹には痣が残っている、少し触るだけでまだ痛い。
 もう、死ぬしかないだろう。そう結論付けるのに1週間もかかってしまった。だから、俺はのろまだとか、クズだとか呼ばれるんだろうか。もう、どうでもいいような気がする。
 ベンチから前を向けば、満開とまではいかないけれど美しく咲き誇っている桜の木がある。
 あの桜で首を吊れば最期まで美しい花を見ていられる。
 空にした缶をまだ開けてない缶と同じ袋に入れて、立ち上がった。少しふら付いたけど問題なく歩けそうだ。飲む前にロープの結び目を作っておいて良かった。
 ガザガザと音を立ててビニールから踏み台を出していると強い風が吹いて、そのまま風の吹いた方を見た。
 その美しさに、息を呑んだ。
 咲き誇る桜の木から、花びらが舞っている。街灯で明るくなっている場所と木が作る影のコントラストで、ぼやけることなく1つの絵画のように、その瞬間として存在している。
 立ち尽くしていると、話声が聞こえた。近くなのか、遠くなのか、距離感がよく分からない。1つが男の声で、もう1つが女の声であることだけ分かる。
 声の場所を探そうと耳を澄ませていると、桜の木の上と下に2つの影があることに気付いた。
 木の下にいる大柄な人が、大きな剣のような物を振って、霧のような物を払っている。
 木の上にいる小柄な人が、足を揺らつかせて、大柄の方に話しかけている。
 2人の声と桜をずっと見ていたくて、立ち尽くしていた。あまりに美しかったから、目を逸らしたくなかった。

 ハッと気づいて目を開けると自宅のベッドの上だった。
 目覚ましのアラームを止めて、部屋の中を見渡すといつもの通り片付いていない部屋だ。スーツは抜いてハンガーにかけてある。玄関の方へ行くと、空いていない缶ビール9本と空缶が1本入っている袋と、結び目が解けたロープと小さい踏み台が袋から出た状態で置いてあった。
 昨日、酔っぱらった俺はそのまま帰ってきたらしい。乱雑に抜いてある革靴を並べると靴の中から桜の花びらが落ちてきた。


 仕事に行ってビリビリに破かれた書類を作り直して、手が滑って俺にかかった炭酸のペットボトルを片付けて、そういうことを3日間我慢してついて会社に行けなくなった。
 部屋の中、鳴り続けるスマホの充電だけを気にしていた。最初の3日位は借金取りよろしくインターフォンを鳴らして、ドアを叩いていた。管理人さんに誰か苦情を入れたらしく注意されて以降、来なくなった。
 管理人さんは、何かあれば警察に連絡するからこの番号に連絡しなさい、と電話番号を書いた紙をドアの間に挟んでいった。
 ある日、毎朝なっていた呼び出し音が鳴らなくなった。少しほっとして水を飲もうと台所に立つ。
 少し悩んで、手を洗った。洗った手で水を貯めて飲む。台所は使い終わった食器やカップ、カップ麺の器や包装で溢れかえっていた。
カーテンを開けると、部屋の状態も良く見えるようになった。「足の踏み場もない」という言葉が正しく使われるような状態だった。
 脱ぎ捨てたスウェットが床に落ちていて、どの服が洗ってあって、どの服を着ていたのかの記憶もない。
 その惨状を見て、そうか限界だったのかと納得して、気持ちが軽くなったような気がした。
 丁度晴れていたから、洗濯機を回した。タンスの中に入っていないものは全て洗濯することした。洗濯機を回している内に、部屋中の窓を開けて空気を入れ替える。いつも洗濯ものを干していたスペースを適当に片付ける。
 風呂場を綺麗にして、お湯を張る。久しぶりに給湯器が稼働している音を聞いた気がする。
 いつから風呂に入っていなかったのかべた付く髪や体を、時間をかけて綺麗にした。
 その日は、ひたすら家の中を綺麗にした。洗濯もしたし、掃除機もかけた。台所が一番時間がかかったかもしれない。
 動いたら久しぶりにお腹が減った。外を見れば夕暮れだった。部屋の中も少し寒くなった。
 窓を閉めて、カーテンも閉める。電気を付けると、部屋が明るくなった。この部屋はこんなに明るかっただろうか。もしかしたら、昨日や一昨日は電気を付けていなかったのかもしれない。
 日が完全に暮れるのを待ってから、フードを被って外に出た。適当なスウェットにフードパーカー、靴は革靴しかなかった。ちぐはぐな格好に苦笑いしながら、久々に部屋を出た。
 缶ビールを買い漁ったコンビニに行けば、その時対応してくれたバイト君が今回も担当だった。
 ペットボトルのお茶とカロリーバーを袋に入れてもらう。バイト君が少し悩んで、カウンターの中から一口サイズの最中を出して、袋に入れた。
 何かを言う前に、袋を押し付けられてしまう。
 そうか、あの夜は死のうとしていた。きっとあのバイト君にも死のうとしていることが伝わってしまったんだろう。
 袋から最中を取り出す、俺が死ななかったことを祝ってくれたのだろうか。理由はどうあれ、涙が出る程に嬉しかった。

 公園に入ってベンチに座る。桜は一段を咲いていた。お茶を飲んで、ベンチの背に体を預ける。
 強い風が吹き抜ける。目を少し閉じて、開く。
 小柄な女性が着物、袖が長いから振袖かもしれない、を着て大柄な男の周りをパタパタと走っている。
 女性をよく見てみると、白から赤にグラデーションになるように着物を着ている。
 そして、さも当然のように桜の木を歩いて上り下りしている。いや、俺にとって当然ではないだけで彼女にとっては当然なのだろう。
 対して、男の方は彼女の事を見ながら時々、剣を振って靄のような物を払う。その額には2本の角が生えていた。彼女が桜を上り下りするなら、角位生えててもいいか、とよく分からない気持ちになっていた。
 怖いとか、人間じゃないというよりも、この2人と桜の木が揃ってそこに存在していることが美しくて、角だとかはどうでも良くなっている。
「小春、もう少し大人しくしてろ」
「嫌よ、この時期位しか起きてられないんだから、それに今日の月はとても綺麗よ」
 小春と呼ばれた女性は、鬼の手を引いて木を登る。
「ほら、流。ご覧なさいな。この天気ならかぐや姫もこちらが見えるでしょう」
 2人の会話を聞いて、一緒に空を見上げると銀色の月が真ん丸としていた。
 思わずため息が出る。感嘆のため息、この人生の中でこんな美しいものが見られるとは思っていなかった。
 温かな気持ちでいっぱいになって眠くなってくる。最近は、どうやって寝てたっけ?覚えてないならきっとろくでもない寝方だったんだろうな。
「ねぇ、流。あの男性、家まで送り届けて差し上げて」
「へいへい、俺がいない間はあまりちょろちょろすんなよ」
「まぁ、私の方がおばあちゃんなのに、お口が悪いんだから」
「靄が集まってきたらすぐに隠れてろよ、じゃいってくるわ」
 温かくて、気持ちが良い。きっと明日の目覚めは良いんだろうな。
 頭の当たりで、柔らかい女性の声と言葉は乱暴なのに優しい男性の声が聞こえる。
 とても綺麗だからもっと見てたいのに、眠くて目が開かないや。

 明るいなと思って目を開ける。昨日着ていたスウェットのまま布団の中にいた。顔だけ横に向けるとハンガーにかけられたパーカーが目に入る。
 外から雀の鳴き声が聞こえる。ゆっくりと体を起こしてカーテンを開ける。窓を開けると風が抜けていく。
 顔を洗おう、窓を開けたまま部屋の方を振り向くとベッド横のテーブルに読みかけのペットボトルと未開封のカロリーバーが袋に入って置いてある。その隣に、つぶれないように袋から出された小さい最中があった。床には桜の花びらが落ちている。


 クリーニングに出していたスーツを着て、ある弁護士さんの事務所に来ていた。
 久々に日中に家から出た気がする。何度も家に帰りたくなるのを抑え込んで地下鉄を乗り継いてたどり着いた。
 受付で名前を告げると、応接間のような所に案内された。お茶を持ってきてくれた男性と少し世間話をして幾分か緊張が和らいできた。
 少し待つと、落ち着いた雰囲気の男性が出てきた。重そうな鞄を手に持っている。
「お待たせしました。どうぞよろしくお願いいたします」
 俺の担当になった弁護士さんは、俺が話しやすいように、問いかけてくれたり、話を整理しながら聞いてくれたりした。人事課から証拠にならないし、パワハラだと認定できないと突っ返された録音データを聞いてもらうこともできた。
 一通り俺自身の事を話し終えた所で、今後どうしたいのかという具体的な話に入る。
 その時も、俺の意見やどう思っているかを確認してくれた。上手く言えない時も怒るようなこともなく待ってくれた。
 訴訟を起こす際の費用負担のこともしっかりと説明してくれたし、費用の立替制度の説明もしてくれた。
 弁護士さんも忙しい中で、1つ1つ訴訟のために準備を進めてくれることになった。
 1つ心配なこととしたら、今の生活の維持だ。収入がない状態で一人暮らしを続けるのは難しいし、一度きちんと精神科に行って診断を受けた方が良さそうだ。
 家に帰って、充電の切れたスマホを電源に繋いで起動させる。
 会社からの大量の不在着信を無視して、実家に電話をかける。10コール以内に出なければ、またかけ直そうと思ってコール音を数えていた。
『もしもし、』
 電話に出たのは電話嫌いの弟だ。名前を告げると、弟がお母さんを呼んでくれた。
 電話を替わったお母さんから、会社から連絡が来ていることや何度も電話したのに出なかったことについて少し怒られた。
『明日、電話して出なかったら管理人さんに連絡して家に行くところだったわ』
 ごめんと返して、少しの沈黙。
『帰って来ても良いけど、元気な大学生がいるのは忘れないでよ。昨日も夜中の3時までゲームしてたんだから』
 電話の向こうで、お母さんに文句を良く弟の声が聞こえる。
「うん、ありがとう。ちゃんと退職届を出せたら戻るね」
 入社した1年目の時は、実家に帰る度に弟にお小遣いも渡せたのに、最近は全然出来てなかったな。
 電話を切って、ベッドに横になる。不在着信は削除しないように気を付ける。もしかしたら、証拠として認められるかもしれない。
 それ以外の家からの着信や別の部署になってしまった仲の良かった同期からも連絡が来ていた。
 下手に連絡したりするとまた家まで来られるかもしれない、そう思うと連絡の内容を見れなかった。

 陰鬱な気持ちを持て余したくなくて、公園に行くことにした。スーツを抜いでスウェットの上下を着て、フードで顔を隠す。
 スマホはどうせ見ないから、家の中に置き去りにする。
 少し走ろうと思って、スポーツドリンクをコンビニで買った。いつもより早い時間だから、あのバイト君はいなかった。
 コンビニを出て、公園へ軽く走っていると近くの高校の制服を着たバイト君が向かいから歩いて来ていた。
 最中のお礼をしようかと思ったけど、フードで顔を隠している状態で話しかけるのは唯の不審者だなと思って思いとどまる。
 すれ違い様、バイト君が小さく、良かったですね、といった声が聞こえて思わず立ち止まって振り返る。反対にバイト君は走ってコンビニの方へ向かっていく。
 名前の知らない子に心配されて、家から出られるようになったことを祝って貰えた。その事実がくすぐったくて、嬉しい。
 確かに、俺はのろまでクズだし、仕事も出来ない給料泥棒だけど、俺を育てたわけじゃない赤の他人に死ねといわれる筋合いはない。
 少なくとも俺が死ななかったことに、あのバイト君は良かったと言ってくれた。実家に帰ってからお小遣いを上げたら一日位は弟も思ってくれるだろう。
 公園の中はできるだけ一定のペースで走る。といっても脇腹が痛くなったら直ぐに歩くのだけど。走って、歩いて、偶に小走りで、公園の中を一周した。ベンチにへたり込むようにして座ると、強い風が吹いた。
 熱くなった体が一気に冷やされる。この季節だと涼しいよりも寒くなってきた。
 ペットボトルを煽るように傾ける。
「小春、好きだよ」
 はっきりと聞こえた声に驚いてペットボトルを落としそうになって掴んだ。
「嫌よ、私の方がおばあちゃんなのよ」
「前の告白から百年経った。百年待てたら考えてやるって言ってただろ」
「考えるって言っただけで、受け入れるとは言ってないわ」
「そうか、でも百年間、変わらず俺はお前が好きだよ」
「でも種族が違うわ」
「俺は鬼で、小春は山神に列する桜の精だ。俺は家族から好きにしろって言われてる。でも、小春が、種族が違うのが嫌なんだったら諦める」
 他人が告白する現場に居合わせたのは初めてだ。本当はすぐに移動した方が良いのは分かっているが、恥ずかしいことに走った時の疲労が足に来ていて動けない。
 そうこう思っている内に、小春と呼ばれる女性が木を登って枝に腰かける。鬼はその姿をしたから見下ろしている。
「だって私、貴方に会えるの一年の内、一週間が精々よ。その一週間のために貴方を縛り付けるの? 他の人に恋することも許さないし、子どもを持ちたいなんて考えた時には取り殺してしまうわ、そんな怖いことしたくないわ」
「そんなの百年前から一緒じゃねぇか、何も変らないよ。年に一週間しか会えない? ならその一週間、嫌でも俺が張り付いてお前に構いまくってやる」
 鬼が深く息を吸った。
「俺は小春が好きだ! 」
 吸い込んだ息を全てぶつける様な告白。桜の精は緩く笑って、仕方のない子、と笑った。
 次の瞬間、強い風が吹いて目を閉じた。肌で感じる風が収まるまで10秒位まであったような気がする。
 風が収まったと思って目を開けば、あの2人の姿はなかった。ただ、街灯に照らされる公園中央の桜の木が花を咲かせていた。


 弁護士経由で退職願を提出し、弁護士同行の元で人事課からの調査にも協力した。
 正直、自分だけ助かるだけなら退職届を提出して、必要な事務処理をしてお仕舞でも良かった。けれど、もし俺の後に入る奴らが俺と同じ目に合うかもしれないと考えると、自分本位でもいられないと思ってしまった。
 訴訟は続くけれど、退職届を出すことで俺の中で一つ区切りがついたようだった。退職届を出してから実際に退職するにはひと月はかかるけれど、これで職場からの電話攻撃は止むようだ。正直安心している。
 引っ越すという話を管理人さんにもする必要がある。お母さん的には、そう言った事務作業を今の俺にやらせるのは心配らしく、一時的に家に来ていた。
 管理人さんとお母さんが話して話が進んでいくのを見ながら、晴れ渡った空を眺めて、この間の事を思い出していた。
 公園で走った後の、二度の強風で体は冷えたから早々に家に戻りシャワーを浴びた。
 それから放置し続けていた同期からのメッセージを開いた。叱咤激励の類のメッセージでないことを祈りながらメッセージを開くとは、珍しい体験だ。
 読んでいなかった所まで遡って確認していく。
 始めは出社しない事の心配、食事の誘い、体調の心配、親の知り合いの弁護士を紹介する旨、返事の催促、通院の有無、少しずつ話題を変えながら同じメッセージが二つとない。
 読んでいくと、また新しいメッセージを受信した。
『飯行くぞ』、その一言だけのメッセージだった。口下手過ぎて、新入社員研修中に通訳してたんだっけ?
『中華な、あんかけ焼きそばの美味い所みつけた』
 俺が研修中にあんかけ焼きそば好きだといったことを覚えているようだ。
 時間的に業務中なんだけど、私用のスマホ触ってて怒られないのだろうか。
『楽しみだ。いつ行く?』
 こいつにだったら実家の住所を教えても良いかもしれない。
 食べに行くと決まった日程になり、集合場所と時間は今日連絡してもらえることになっているから、スマホをこまめに確認する。
 そうしてる内に、管理人さんと管理会社の人とお母さんの間で話は済んだようだった。
 スマホを見れば件の奴からの集合場所と時間の指定のメッセージが届いている。
 職場から逆方向にある店で、不器用ながらに俺の事をめちゃくちゃ考えてくれたんだなと分かる。
 お母さんに出掛けることを言って久々にスウェット以外の服を着て外に出る。履き潰してボロボロだった革靴は見っともないという理由でお母さんに捨てられ、歩きやすいスニーカーを買って貰った。
 ちゃんとした服、新しいスニーカー、それだけで少しはしゃぐ。
 待ち合わせ時間には少し早いけど、帰宅ラッシュを避けられるように早めに家を出る。同期の奴に会うのが楽しみで仕方がなかった。

 帰り道、家までのショートカットで公園の中を進む。あんかけ焼きそばは美味しかったし、口下手なりに気を使った会話はとても楽しかった。
 アイツも上司に俺に連絡入れろと言われたらしいが、連絡先を知らないで押し通したらしい。真顔で知らないと言ったら案外直ぐに納得したと笑いながら教えてくれた。
 くだらない話をしながら、久しぶりに笑った。俺が通院しているのを知っているからか、一度もアルコールを勧められなかったし、アルコールのメニューは見えないようにされてしまった。アイツも飲まなかった。
 優しい奴だなぁと思いながら、喋って笑った。
 帰り際、実家の住所を書いた紙を渡した。読んで欲しい漫画があるから今度送るよ、と言いながら丁寧に手帳に挟んだ。
 それから、何の漫画なんだとか、弟も読むかもなんて話をしながら最寄り駅まで送ってもらってしまった。
 そんな楽しい気分のまま鼻歌を歌いながらスキップしそうになりながら歩く。
 桜の木は今日が満開のような。ここ数日よりも美しく咲き誇っている。
 道の途中で立ち止まって桜を見つめていた。
 木の下では、小春と呼ばれている桜の精が舞い踊っている。扇と鈴を持って、着物が風を受けてなびいている。
 見入っていると、おい、と最近聞きなれた男の声が近くでした。驚いて声がした方を見上げると、あの鬼が立っている。
 遠目だと角が生えていることしか分からなかったが、随分と整った顔をしている。
「来いよ、特等席だぜ」
 二の腕を掴まれて引っ張られる。掴まれているけれど力が入っているようには感じられないのか爪で俺に怪我をさせないためなんだろう。
 連れていかれたのは踊る女性の目の前だった。彼女は踊りながら俺を見てニコリと笑う。
「着てくれてありがとう、短い時間だけど楽しんでいって頂戴な」
 そうして、地面と蹴って飛び上がるようにして一回転、扇が空を切って鈴が鳴る。
 俺を連れてきた鬼は、右肩と左手を鼓を支えて、叩いた。鼓を間近で見たのは初めてでそんな風に持つのかとか、そんな音が鳴るのかとか、色々考えていた。
 すると、鬼と目が合ってニッと笑った後、口の形だけで、まえ、といった。
 慌てて視線を彼女に戻すと、月が照らす中、花びらが舞い上がる。舞と鼓の音が調和して、幻想的な光景を形作る。
 花びらは上から降っているかと思えば、下から舞い上がり、渦を作って広がっていく。
 桜に飲まれそうだそう思ったとき、一際強い鼓の音で目が醒めた。

 慌てて立ち上がれば、見慣れた公園の道だ。直線上には満開に咲き誇る桜の木、振り返ればよく座っているベンチがある。
 舞い踊る女性も鼓を打つ男性もいない。静かな夜の公園だ。
 全力疾走をした後のような呼吸になる。自分の着ているものは、同期と食事に行った恰好で、スマホには家についたら連絡しろというメッセージと、いつ帰ってくるのかというお母さんからのメッセージが付いている。
 幻覚を見ていたのだろうか、腰が抜けてベンチに座り込む。
 その衝撃で、ひらひらと太ももに花びらが落ちる。見れば、着ていたジャケットの肩には桜の花びらが積もっていた。

 そんな、春の夜に見た桜と鬼のお話。

(2021.3.31)


pixivに掲載しているものをこちらでも公開します。
テーマは「さくら」でした。さくらの季節になってから公開しようかと考えましたが、過去作品はあげてしまった方が良いかと思い、冬ですが春のお話です。
新卒で入った会社を1年で辞めているので(作中のような環境ではなかったです)、仕事を辞めたい人の応援になればと思って書いた記憶があります。

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