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ジェンダーとメンタルヘルスのこと~ハンドメイズテイルの考察〜【#10】

人は何を持って救われるのか?

(※ドラマのネタバレも含まれる記事です)

前回のやすのさんの記事では、「ハンドメイズテイル〜侍女の物語〜」に出てくる「召使」という役割を与えられたマーサに焦点をあて、性別役割分業や客体化が招く女性と女性の関係性、また共感から生まれる繋がりと団結について書いてくださいました。

Huluで放送されているハンドメイズテイルは、北米では2022年秋からシーズン5に入っていますが、このドラマのシーズン3までは、主人公ジューンを中心に、ギレアド共和国での人々の様子が中心に描かれていました。そしてシーズン4からは、その舞台の中心をギレアド共和国から出て、アメリカ、そしてカナダでの生活を中心に物語が展開して行きます。

その物語をみると、ジューンが諦めずにカナダへ辿り着くまでの道のりの中で、様々な登場人物との関係や体験があります。人との繋がりや体験が彼女を大きく変えてゆき、生きる意味や希望となって彼女の道を切り開いてきたようにも思われます。

やすのさんが前回書いてくださっていますが、マーサであるリタは、ギレアドの子どもを救うという希望が、過酷な状況下でマーサとして生きてきた、彼女の人生の決着となったと言っています。では主人公ジューンにとっての決着はあるのでしょうか? 

ジューンがハンドメイズという奴隷にされ、ギレアドを脱出するまで、彼女の心を強く揺さぶる体験がいくつかあります。またドラマでは、ジューンだけではなく、過酷な状況下にいる様々な登場人物を突き動かし、ある方向へ向かわせる原動力と言えるものが見えます。そこを見ると、やすのさんから受け取ったバトン「その人にとっての救いとは何か?」という問いが見えてきます。今回は、そんなギレアドという過酷な状況下においての「救い」について様々な角度から、いろんな登場人物を通した「救い」を考察してゆきたいと思います。

過酷な役割を強いられている者たち

ギレアド共和国では、個人の意思とは関係なく、役割が人々に割り当てられ、その役割に沿って生きています。ギレアド共和国で一番過酷な役割を強いられているのは、ハンドメイドたち。ギレアドでの彼女たちの一生は、子どもを産むために高官の家庭に住み、出産が終わると次の家へ派遣されるという、いわば心と身体を酷使する人生です。高官の家庭では、今までにもブログで書いてきたように、妻に虐待されることもあれば、高官からは弄ばれることもあります。このような毎日を送るハンドメイズの中には精神的に心が病んでしまい、自殺する者もいます。またギレアドでの出産は、出産するハンドメイドたちの身体よりも、子どもの命が優先されるため、出産によって死亡するハンドメイドもいます。もちろん、このような状況に反逆・反乱を起こすものもいます。そんな過酷な日常の中で、人はどのようにして生き延びているのでしょうか。

生き延びるために

ハンドメイステイルに出てくるギレアド共和国には、女性と男性(※ギレアドではLGBTQは認められず”性の反逆者”と呼ばれています)が暮らしているのですが、人々を見ていると無表情な人が多いと思います。その無表情さや街の静けさは、ドラマ全体の色合いでも表現されているように、どこかグレーがかったイメージです。そのような風景の中で、それぞれの階級・役割の人が着ているユニフォームがあります。その中で、ハンドメイズと高官の妻たちのユニフォームの赤と青という色が、無機質な世界の中でも目につきます。いかに彼女たちの出産・子育てという仕事が、国家存続を担うために重要なのかを表現しているかのようです。しかしそのユニフォームの下に見える人間性は抑えられた世界です。

抑圧・抑制・無表情
ギレアドにいる人々は基本的に無表情です。精神力動学では、防衛規制というのがいくつもあると言われています。人は、その防衛機制を働かせながら、様々なストレスを回避して生きています。過度なストレスでも防衛機制があるからこそ生きることができるとも言えるのです。

ギレアドの無表情さは、感情を感じないようにさせている抑圧にもみえます。また人は、理論的な思考を優先させながら、感情を抑圧することもあります。このように人は、感情を追いやることで、心の均衡を保つ事ができ、そんなサバイバルな姿がギレアドの人々の無表情からは見え隠れします。

このような抑圧された感情を人はどのように処理をしているのでしょうか?表に出ないことは、必然的にシャドーになり、そのシャドーは何らかの形で出てきます。ただ表の世界では出せないために、自然と別の場所、裏という場ができてきます。このように人々の心は「良い」「悪い」そして生きる世界も「表」「裏」と分裂していきます。

表と裏:
表に出せない感情はどこに行くのでしょうか? 
例えば、高官クラスの男性たちの場合、ハンドメイドとのアバンチュールや娼婦の館での時間では、他の環境とはまた違った表情が見えます。娼婦の館というのは、ギレアドではあってはならない場所なのですが、暗黙の了解でその世界はギレアドの裏の世界として存続しています。そこが高官たちの唯一の息抜き、また愛人となりうるハンドメイドの存在も、男性たちのガス抜きとして使われてもいるのです。

女性たちも、やはり表には見えない形で、ガス抜きをしています。例えば高官の妻の場合。家庭の中における妻のハンドメイドへの態度は、公の場では決して出さない姿です。外からは見えない家の中だからこそできる事があります。例えば、高官の妻セリーナとハンドメイズのジューン。シーズン2では、生まれてくる子どものために結束した瞬間もありました。しかし、ここに上下関係があるので、実際に、身分が上である妻が、感情の行き場を無くせば、自分より身分の低いジューンやマーサのリタに怒りを向けることがあります。女性たちは閉鎖された家庭内、プライベートでは、自分より弱い立場のものへ表では出せない感情を表出させ、なんとかその精神を保っているかのようにも見えます。

ギレアドの男性も女性も、抑えた感情の行き場を、表からは見えない世界、すなわち裏の世界で出して生きながらえています。これらの構図は、私たちの現代の社会でも見る暴力、例えば配偶者への虐待(DV)や子どもへの虐待、ネグレクト、また大きな枠でいえば社会の中での様々な形で現れる暴力、差別や不公平という形でみる事ができます。

人は希望を持つことで生きる事ができるのか

男性よりも女性、女性の中でも奴隷という弱い立場であるハンドメイドやマーサたちはどのように心のバランスをとってこの過酷な世界を生き抜いているのでしょうか。このような過酷な状況だからこそ際立つのが「人間としての尊厳」です。

ハンドメイドは「オブ〇〇」というように、その人自身の人間性はすでに奪われ、もの化・Objectification(以下、客体化)されています。そんなハンドメイドである主人公のジューンが、ドラマの中で「オブフレッド(フレッドのもの)」ではなく、「My name is June Osborne」(私の名前はジューン・オズボーン)」と本名を意識し、はっきりと表明した瞬間がありました。それは「私は存在する」という実感であり宣言。この時のジューンは、ハンドメイドの自分ではなく、「ジューン・オズボーン」という一人の人間としての「尊厳」を取り戻した、そんな瞬間だったのではないでしょうか。そしてそこには「希望」が微かにも見えた瞬間。その「尊厳」と「希望」が、そこからの彼女を支え続けたのではないかと思います。

「希望」が人に与える影響
ホロコーストを生き延びたユダヤ系の精神科医であるヴィクトール・フランクルの「霧と夜」という本があります。2回前のブログでも紹介しましたが、この本は、ホロコーストを生き延びた彼の体験が心理学的な視点から書かれたもので、過酷な状況を過ごしている自分自身や仲間の心理状況や、多くのトラウマを抱えたサバイバーの解放後の心理を冷静に観察しています。その中で、希望がいかに人を生きさせるか、逆にその希望を失った途端に起こる、精神と身体の変化にまつわる仲間の実話が書かれています。

フランクルの仲間Fは、ある日、戦争が終わり解放される日が来る夢を見ます。日付までハッキリと浮かび上がったその夢をFは正夢だと信じていました。それは彼にとっては希望だったのだけれど、夢のお告げが近づいているにもかかわらず、戦況が良くなる兆しはなく、むしろその可能性は薄れていきました。そしてお告げの日、彼の見たことは起きなかったのです。その途端Fは、高熱を出して倒れてしまったのです。その2日後に、Fは発疹チフスで亡くなってしまいます。

勇気と希望、あるいはその喪失といった情調と、肉体の免疫性の状態のあいだに、どのような関係がひそんでいるかを知る者は、希望と勇気を一瞬にして失うことがどれほど致命的なということも熟知している。

ヴィクトール・フランクル「夜と霧 新版」(みすず書房、2002年)

人生の意味とは ~希望と尊厳~

フランクルの本は、ハンドメイズテイルの世界に生き抜く人々について多くの示唆をもたらす本でもあります。「人は何を持って救われるのか」、「人生の意味とは何か」を深く考えさせるものです。それは生死を超えたところにあるもので、たとえ非業の死を遂げたとしても、この人は救われたのではないかという人たちがいる事にも気付かされます。

「希望」が人を生かす救いとなるように、人は「尊厳」を取り戻したとき、すなわち自分の「真実」を生きたとき、たとえ非業の死を遂げたとしても、人は救われているのかもしれません。

人が「尊厳」を取り戻すとき
ハンドメイドたちが、「オブ〇〇」ではなく、お互いの本名を伝え合うシーンがシーズン2にはあります。そこで初めてハンドメイズたちはお互いの本名を知り、どこの出身だったのか等、ハンドメイドという役割を超えて、人と人が出会ったのです。それは、それぞれが尊厳を取り戻した僅かな瞬間だったのではないかと思います。自分の名前を伝える、それを聴いてくれる、そしてその本名で呼ばれる。そのようなささやかな行為は、「ハンドメイド」ではなく「わたし」「あなた」という存在がクッキリと浮かび上がる、とても意味のある瞬間だったと思います。

人間だからこそ出来ること 
ギレアドには、反逆者や、社会に必要のない人たちが囚人として送られてしまうコロニーという場所があります。ここがギレアドでは一番過酷な世界かもしれません。そこは汚染がひどく広がる荒れ果てた地。その土を掘り起こす作業をしている囚人たちは、その汚染で身体がむしばまれてゆき、死を迎えるだけの場所です。

そのコロニーで出会った二人の囚人がいました。一人の女性は、身体がどんどん蝕まれてゆき、いつ死んでもおかしくない状態です。そこでハンドメイドだったジャニーンが、ささやかながら結婚式を提案します。二人は囚人の仲間に見守られながら、厳かではありますが心温まる同性婚の式が行われました。その後一人の女性は静かに息を引き取ります。

それを見ていた元ハンドメイドのエミリーは、牛と同じ扱いを受けている自分たちが、牛舎を花で覆っても何も変わらないと(元々は牛舎として使われていた場所が囚人の収容所)、ジャニーンに怒りをぶつけます。そんなエミリーにジャニーンは、「だから何?」と。彼女はそれでも幸せに死んだ方がいいと言い切ります。そして最後に「牛は結婚しない」と言い放つのです。

この時のエミリーは人間として生きるという希望をなくした状態でした。それとは対照的にジャニーンは、死にゆく仲間が、それでも人間として一瞬でも幸せに生きる事ができるようにと思うのです。ジャニーンはなぜそのような希望を維持する事ができたのでしょうか。

真の信仰が支えになる
コロニーに送られたジャニーンをずっと支えていたのは、彼女の信仰です。神の存在、そして神に守られていることを信じているジャニーンは、リスクがあっても、人が人であるために、最後になっても幸せな時間を過ごせるようにと結婚式の提案と段取りができたのだと思います。エミリーが失ってしまったもの、ジャニーンの中には、一貫して神を信じ、人間として生きる希望を失っていない力強さが見えます。

余談になりますが・・宗教や信仰は人を支えるものとして、とても重要な役割を担っていると思います。カウンセリングの現場でも、クライアントさんの持つ信仰が心の支えとなり、癒しへ向かう道を開くことがよくあります。ただ、どの時代も、権力者によってそれが悪用され、支配のツールとなりえる事があります。このドラマの中でも、多くの人が信仰深く、その信仰が支えにもなっています。そのような「信仰」と、国家が支配に使う、ギレアドの「宗教」とは分けて考える必要があると思います。信仰や宗教が悪いのではなく、それを誰がどのように使うかなのだと、このドラマを通してよく見えてきます。

トラウマと心の死
コロニーでのエミリーとジャニーンの二人はとても対照的です。エミリーは生きてはいるけれど、未だ救われていない状態ではないかと思います。後にエミリーはカナダへ亡命するのですが、たとえ自由で安全な場所に行ったからといって、その心はなかなか回復せず彼女は苦しみ続けます。レズビアンであった彼女がギレアドではハンドメイズとして男性とのセックスを強いられ続けたこと、また反逆した罰として女性性器を切除されたことは、彼女の心を深く傷つけるトラウマとなって刻まれてしまったのだと思います。彼女は非人間的な絶望を体験し続けた結果、人間として生きることも、どこかで諦めてしまったのかもしれません。エミリーは生きてはいますが、心は死に続け、彼女は未だ救われていない状態なのではないかと思います。

覚悟をもって想いを貫ぬく

15歳の若さでギレアドの儀式によって、ウォーターフォード家に使える運転手・ニックと結婚させられたイーデンという女の子がいました。彼女のおかれた状況は、今も世界に残る児童婚を思わせるもので、またギレアドで行われた結婚の儀式は、実際に私たちの世界にも存在する、ある宗教団体が行っている集団婚を思い出させるような、外から見ると悲劇的な状況です。

彼女はとても敬虔なクリスチャンでした。純粋に、神の説く「愛」を理解したい、そんな欲求を強く持つ女の子です。その想いは、女性が読み書きを禁止されたギレアドにおいても、聖書を読み込み、所々にメモをした彼女の隠し持っていた聖書にも現れています。

ニックと結婚したイーデンは、一生懸命妻の役割をしっかりとこなそうと頑張っていました。しかしニックの心にはジューンがいます。また15歳の若い妻をニックはどこか子どもと見ていたのでしょう。ニックとの婚姻生活の中で、イーデンは孤独感を募らせてゆきます。そんな時、若い守護神(ガーディアンと呼ばれるギレアドでの兵士)との出会いがありました。そこから彼女は、頭ではそれが良くない不貞行為だとわかっていたものの、彼との間に芽生えた愛を育んでゆくのです。

彼女はその愛を貫くために、彼と一緒に逃げて自宅へ戻ります。それを知った父親が彼女を通報し、二人の事実が公になり死刑に至ります。死刑の最後に、自分がした事を悔い改めれば、死刑は免れることができたのですが、二人は最後まで想いを貫きました。彼女は聖書に書かれた神の言葉を最後に唱えならが、錘のついた身体を押され、プールへと沈められていきました。このシーンは本当に見ていても辛く、痛ましいものなのですが、彼女の覚悟をもった死は、見ている人の、特に女性の心の中に響いてゆきました。

イーデンが残したもの
この事件があった後、ジューンはイーデンが隠し持っていた聖書を見つけます。先ほども書きましたが、その聖書には、女性が禁じられている「書く」事を冒してまで、イーデンが神の言葉を一生懸命に理解した痕跡のメモ書きがびっしりと詰まっています。イーデンの心から神の言葉を学びたいという強い好奇心と神の言葉に沿っていきたいという強い信仰心を感じます。

そんなイーデンの純粋な気持ちはジューンやセリーナの心を動かします。この事でセリーナは高官の女の子を持つ妻たちと一緒に、ギレアドの規則を変えようと意を決して動いたり、またジューンとニックとの間に生まれ、自分の子どもとして育てていた女児のホリー(セリーナはシャーロットと名付けた)を涙ながらに手放し、カナダへの亡命にも協力をします。その事実を知ったフレッドにセリーナは「娘のために最善のことをした」と言います。

ジューンはというと、このイーデンの事件や高官の下したセリーナへの罰、そして自分に向けられる男の歪んだ感情や身勝手さに怒りをさらに募らせてゆきます。シーズン2では、かつて医者でもあり、フェミニストの活動家でもあった母のことを思い出すシーンがあるのですが、ギレアド以前のジューンは、そんな母に反感すら持っていました。そのような母の活動や闘いを、このシーズンでジューンはようやく理解し、受け入れていきました。そんな母親の想いを胸に、彼女の名前である「ホリー」を、ジューンは自分の子供に名付けます。イーデンの死を持って、このギレアドに対して「子どもたちの未来を守る」覚悟を、かつて闘ってきた母の想いを受け継ぐように、ジューンが決断した瞬間だったと思います。

未来に生きる子どもたちの世界を守るために
前回でもやすのさんが書いていますが、子どもを産んでいる産んでいない関係なく、女性たちは、未来い生きる子どもを守ることで一致団結する姿が、ハンドメイドや高官の妻という立場を超えて、ここでも起こっているのです。ハンドメイズテイルの物語には、子どもへの気持ちや感情において、男女差が現れている描写が多いのですが、本当に男性全てが女性とは違うのかといえば、それも否で、男性であるニックも、自分の愛するジューンと子どもを守るために協力を惜しまないのです。

役割を超えた人間としての「愛」と「繋がり」
ではなぜニックは、他の男性とは違う描かれ方をしているのか。ここには「有害な男性性(Toxic Masculinity)」という役割からくるものが関係しているのではないかと思います。これについては、やすのさんの以前のエントリーを参考にしてください。

役割としての自分ではなく、生身の人間としての自分の持つ「愛」をどこまで感じ、それを受け入れ、素直にそこに繋がれるのか、その覚悟が、特にギレアドのような過酷な状況下では「尊厳」を取り戻すきっかけとなり、そこから「希望」を生み出し、それらが「救い」となるのではないでしょうか。どんな人にとっても、「希望」や「尊厳」を支える基盤として、自分と、そして他者との繋がり、そこに生まれる愛があるのだなと思いました。ニックは唯一、この「有害な男性性(Toxic Masculinity)」には犯されることなく、ギレアドでも自分という人間性を維持し、生きている人なのだと思います。

ギレアドの男性は、この「有害な男性性(Toxic Masculinity)」が、その人らしい人間的な側面を歪めています。その視点から見ると、いくら特権を持っていても、心は幸せからはほど遠く、彼らも救われていないのかもしれません。それは現代の社会でもよくみられる状況だと思います。

イーデンの死は、強く人々の心が動かされる、意味のあるものとなりました。イーデンの真摯に愛を貫く姿が、「役割」ではなく「愛」を貫こうとする多くの人々の気持ちを動かしたのです。言い方を変えれば、イーデンは、苦悩を貫いたことで、自分の人間としての尊厳を取り戻しながら、人生を意味あるものにしたからこそ、彼女の死は救われ、また人々にここまでの影響を与えたのではないでしょうか。

「人間の尊厳を守る」という覚悟
フランクルは、どのような状況においても、尊厳を守る人間になるかを決める事が、人生の意味をさらに深いものにすると言っています。究極に制限された状況下では、どのような覚悟をするかにかかっていると言います。

ホロコーストやギレアドのような状況下では、自由が制限されているが故に、仕事に価値を見出したり、様々な体験によってその価値を測ったりすることも、そこに自分の人生の意味を見つけることはできません。しかしそんな中でも、精神的な自由は、誰も奪うことはできないとフランクルは言っています。

そのような状況下で唯一残された自由は生きることそのものを意味あるものにすることであると言います。「わたしが恐れるのはただひとつ、わたしがわたしの苦悩に値しない人間になることだ」というドフトエスキーの言葉を引用しながら、行動的に生きることや、平穏に生きることだけに意味があるのではなく、生きることそのものに意味があれば、苦しむことも意味があるはずだと言っています。

苦しむこともまた生きることの一部なら、運命も死ぬことも生きることの一部なのだろう。苦悩と、そして死があってこそ、人間という存在は初めて完全になものになるのだ。

ヴィクトール・フランクル「夜と霧 新版」(みすず書房、2002年)

復讐は救いとなるのか?
ハンドメイズテイルのシーズン1から2にかけては、主人公のジューンがようやく目が覚めていき、(少し前でも書きましたが)闘うと決めるまでの過程がよく表現されているのではないかと思います。ただその闘うと決めるに至るまでの道のりが、とても過酷です。特に一番身近にいた高官であるフレッド・ウォーターフォードへの憎しみは、隣国カナダに逃れても消えることはありませんでした。このような体験をした人々は、その怒りと憎しみから、復讐心を燃やしたり、自分を傷つけたりします。

自傷行為とパターンから抜け出すことの難しさ
ギレアド前からの友人のモイラは、ギレアドではハンドメイズからイザベルの館で娼婦として働いた経験があります。彼女はジューンより先にカナダに逃れることができたのですが、カナダへ移民したからといって、彼女の心はなかなか癒されませんでした。ようやく安心できる場所での暮らしを手に入れたにも関わらず、時々、夜の街に出ては、以前の暮らしを取り戻すかのように、自分を傷つけるような行為をしてしまいます。カナダに難民として逃れた多くのギレアドの人たちは、のちにまたギレアドに帰ってしまうとも言われています。過酷な状況を生きてきた人にとって(トラウマを受け続ける状況から脱却できたとしても)、心の平穏を取り戻すことは長い道のりだということが、ドラマではよく表されています。

怒りや憎しみ 目には眼を
またジューンは、フレッドに対す憎しみはなかなか解消されません。フレッドとセリーナがカナダで囚われの身になり、カナダで裁判が起こるのですが、結局はジューンが受けてきた苦しみをフレッドは体験しないまま、ギレアドに返されることとなりました。

それを知ったジューンは、今まで彼から受けた苦しみの数々をこれ以上抑えることができなくなったのです。各国の思惑の中で決められた、フレッドやセリーナに対する処罰は、ジューンを苦しみからは解放することはできませんでした。ジューンは、ギレアドにいた者には、ギレアドの方法で罰を下すを決行するのでした。ジューンを筆頭に、ギレアドで傷つけられた多くの女性たちが一丸となりフレッドに復讐をするのです。

ギレアドのやり方で「処刑」という復讐を遂げたジューン。彼女はそれで救われたのでしょうか。ジューンは、自らが犯したことへの罰を受けようと、カナダの警察に自ら出頭します。しかしカナダ側はジューンを捕らえることはありませんでした。そこにまた憤りを感じるジューン。

暴力と一瞬の快楽と解放感の先にあるもの
憎しみや自分の痛みを他者にぶつけた瞬間は、ジューンもいっときの解放を感じたのかもしれません。また暴力というのは快楽・高揚感も感じられるものだとも言われていて、ジューンの表情にも現れていました。それでも、それはほんの一瞬の快楽であり解放。ジューンがはっと我に返った時、今度は自分を罰する衝動にも駆られます。しかし、カナダの国で罰を受けることも許されなかったジューン。行き場を無くした感情は、自分へ跳ね返りジューンは苦しみます。

そんな時、多くの人は、圧倒される様々な感情を感じないように、さらに暴力を繰り返したり、お酒、薬など、ありとあらゆるもので誤魔化す事があります。それが結果的には依存となることは、現代社会でもみられることです。ジューンは、ギレアドから離れたものの、未だ続く苦しみ、憎しみと暴力からは逃れることはできず、心が救われない様子が、ドラマでは描かれています。

ジューンの救いとは?

今回は、「人間としての尊厳」と「希望」に焦点を当てて、人は何をもって救われるのかを考察しました。北米ではシーズン5が終了し、日本では現在放映中のようです。シーズン6がとても気になるところですが、シーズン5になっても、主人公ジューンの決着はまだついていませんし、まだまだ完全に救われた状態でもありません。しかし人間の尊厳を守る覚悟を決めたジューンがいます。その視点でみれば、彼女は救われている部分もあるのかもしれません。

またジューンには強く繋がっている人たちが多く存在します。そこには深い愛も感じられます。それらが、苦しみを感じながらも変革への道を歩むジューンの大きな支えになっているのだと思います。まだ完全には救われてはないジューン。しかし彼女には「愛」と「繋がり」があるからこそ、苦しみながらも、今も子供たちの未来を守るために歩み続ける事ができるのだと思いました。シーズン6では、どのように彼女や人々の願いが身を結んでいくのか、そこは大きなクライマックスだと思います。

バトンタッチ

ドラマには、ギレアド、アメリカ、そしてカナダにメキシコと、世界の状況、各国の事情、そして翻弄される人々が映し出されています。この世界はどこへ向かっているのだろうかと考えた時、この地球の存続だったり、また文明の存続なのではないかと思いました。ドラマの現在は、それらが危機に晒されています。ギレアドができる前には、環境問題は大きな問題で、そこから国家存続の危機が訪れ、人々が分断されてきたのです(アメリカで革命が起き、ギレアドという国家ができた)。このドラマの描く世界や、バラバラになっていった様子は、現在、私たちの地球に起こっていること、また、これから起こるのはないか?と思わせるように、どこかリンクしています。だからこそ、このドラマから学ぶものは多く、今、私たちが何を大事にすれば良いのか、見えてくると思います。

そんな過酷な世界の状況が描写されるドラマの中で、「子どもたちの未来を守りたい」という切望があり、それがこれからの未来を変えてゆく原動力になるのだと感じています。ではそれをどう実現させてゆくのか?それはシーズン6に続くのかなと思いますが、そこに至るまでにカギとなるのが、主人公のジューンと高官の妻だったセリーナだと思います。

ジューンやセリーナ、それぞれの事、また二人の関係性について、もっと深掘りしてみたい!というわけで、その辺りを、ぜひやすのさんにも聞いてみたいと思いここでバトンを繋げていきたいと思います♪

参考・引用:
・Hulu ハンドメイズテイル 〜侍女の物語〜 シーズン1−5
・ヴィクトール・フランクル(2002) 「夜と霧 新版」みすず書房
抑圧・抑制・否認<防衛機制> Cocoloラーニングアカデミー
フォトImage by Petra from Pixabay


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