地獄絵図とならぬために・・(2023年の記事)
“養和の飢饉”
また、養和のころとか、久しくなりて覚えず。二年があひだ、世の中飢渇して、あさましき事侍りき。或は春夏ひでり、或は秋大風、洪水など、よからぬ事どもうちつづきて、五穀ことごとくならず。夏植うるいとなみありて、秋刈り、冬収むるぞめきはなし。これによりて、国々の民、或は地をすてて境を出で、或は家を忘れて山に住む。さまざまの御祈りはじまりて、なべてならぬ法ども行わるれど、さらにそのしるしなし。
京のならひ、何わざにつけても、みなもとは田舎をこそ頼めるに、絶えて上るものなければ、さのみやは操もつくりあへん。念じわびつつ、さまざまの財物かたはしより捨つるがごとくすればも、さらに目見立つる人なし。たまたま換ふるものは、金を軽くし、粟を重くす。乞食、路のほとりに多く、憂へ悲しむ声耳に満てり。前の年、かくのごとく、からうじて暮れぬ。あくる年は、立ち直るべきかと思ふほどに、あまりさへ、疫癘うちそひて、まさざまに、あとかたなし。
世人みなけいしぬれば、日を経つつきはまりゆくさま、少水の魚のたとへにかなへり。はてには笠うち着、足ひきつつみ、よろしき姿したる者、ひたすらに家ごとに乞ひ歩く。かくわびしれたるものどもの、歩くかと見れば、すなはち倒れ伏しぬ。築地のつら、道のほとりに、飢ゑ死ぬる者のたぐひ、数も知らず、取り捨つるわざも知らねば、くさき香世界に満ち満ちて、変りゆくかたちありさま、目もあてられぬ事多かり。いはむや、河原などには、馬車の行き交ふ道だになし。
あやしき賤山がつも、力尽きて、薪さへ乏しくなりゆけば、頼むかたなき人は、自らいが家をこぼちて、市に出でて売る。一人が持ちて出でたる価、一日が命だに及ばずとぞ。あやしき事は、薪の中に赤き丹着き、箔など所々に見ゆる木、あひまじはりけるを、たづぬれば、すべきかたなき者、古寺に至りて仏を盗み、堂のものの具を破り取りて、割り砕けるなりけり。濁悪世にしも生れ合ひて、かかる心憂きわざをなん見侍りし。
いとあはれなる事も侍りき。さりがたき妻をとこ持ちたる者は、その思ひまさりて深き者、必ず、先立ちて死ぬ。その故は、わが身は次にして、人をいたはしく思ふあひだに、稀々得たる食ひ物をも、かれに譲るによりてなり。されば、親子ある者は、定まれる事にて、親ぞ先立ちける。また、母の命尽きたるを知らずして、いとけなき子のなほ乳を吸ひつつ臥せるなどもありけり。
仁和寺に隆暁法印といふ人、かくしつつ数も知らず、死ぬる事を惜しみて、その首の見ゆるごとに額に阿字を書きて、縁を結ばしむるわざをなんせられける。人数を知らむとて、四五両月を数へたりければ、京のうち一条よりは南、九条より北、京極よりは西、朱雀よりは東の路のほとりなる頭、すべて四万二千三百余りなんありける。いはむや、その前後に死ぬる者多く、また、河原、白河、西の京、もろもろの辺地などを加へていはば、際限もあるべからず。いかにいはむや、七道諸国をや。崇徳院の御位の時、長承のころとか、かかるためしありけりと聞けど、その世のありさまは知らず、まのあたりめづらかなりし事なり。
食糧自給率38%の日本、メガロポリス東京は1%。
近い将来、遥か昔に起こった飢饉のようなことが起こらない理由があったら知りたいが・・そうならぬように投資バカを育て、皆をそちらに誘うより耕作放棄地の再整備と国民全員が何かしらで食に関わり、全員が100%食べることのできる国であって欲しいと思う。外貨稼ぎに勤しむ食関連の企業など、そろそろやめて頂きたい・・僕の小さな声が届くなど、全く思ってはいない。が、しかしこう言うことこそ国にとっての危機であると思えてならぬのです。