【雑記】三つ子の魂三十過ぎても
気付けば年末が迫っていて泣いている。今年も特に変わったことはないな。というか無我夢中で〆切をこなしていること以外に何もしてないな。三十になったのに。
でも断捨離を頑張っているからギリギリ「本当に何もしなかった人」は回避出来た感じがする。
三つ子の魂百までとはよく言ったもので、わたしは(というかオタクと呼ばれる人種の多くはそうだと思うが)三十を過ぎても好きなものが一つもマイナスされない愚かな人間である。
三歳になる前から買い与えられていたポケモン、女神転生シリーズ、父からお下がりを(強制的に)押し付けられてきたパソコン、物語を読むこと作ること、ふわふわのぬいぐるみ、触り心地の良い布、母の肉じゃがと塩唐揚げ。
オタク的ヘキでいうとセフィロスが顕著か。この男に齢6歳で熱を上げてからわたしの人生は狂っている。あらゆる推し、あらゆる好きなキャラクターにセフィロスの幻影が見え隠れしている。長物使い、長髪、長身、銀髪、縦長の瞳孔、悪役、そして人外。
というか6歳でセフィロスに熱を上げるのはそれはそれで元から少しおかしいのではないかと思わないでもない。でもしょうがないじゃん! みんな好きだろセフィロスは!
ともあれセフィロスに関しては一家言どころか百家言くらいあるのでこの辺にしておく。多分語ろうと思うと一万字くらいは余裕でいってしまう。オタクの性。
どのくらい好きかというと、6歳から始まり18くらいまでセフィロスの夢女をやっていたくらい。FF7ECで再燃して勢い余ってどこにも公開しないのに10万字強の二次創作を生やしたくらい。
物語を作ることもまあまあ筋金入りだ。幼い頃は漫画家になりたかったタイプの字書きである。絵が絶望的に描けないので早々に諦めた。というか、物語が作れれば漫画じゃなくても良いんじゃんね! ということに気付いて文章に転向した。
よくよく考えてみると幼児がまず触れる物語性のあるものは絵本であり、或いは連続するイラストであるわけだから、まず初めにそこから一番近い「漫画」への希望が強まるのは当然なのかもしれない。
文章を作る人、という観念は児童文学あたりから発生してくるものなので、わたしが「小説家」という概念を強く意識したのも小学生ごろからである。それでもやはりその年頃の娘は少女漫画などが大好きなので、しばらく漫画家に憧れていた気がする。
断捨離は割かし今までの軌跡をクリアにしてくれるような感覚がある。見詰め直すというのは少し大儀な言い方をしすぎているが、要は「あ~あったあった、なっついな」の積み重ねを切り崩して選別していくことで、己の初心に近付いている感じがする。
結果としてここにあるのはわたしがいかに幼い頃に好きだったもので構築されているかという事実だけだったんだけど。
なぜこんなnoteを書いたかといえば、セフィロスのフィギュアを捨てるかどうかで悩み、まあ結局は出来がそこまでよろしくない廉価なものだったので捨てたわけなんだけれども、見た瞬間の「ああ! くそ! この男がわたしのヘキを曲げたんです!」という抗いようのない感覚に苦しんでいたからである。
結局オタクは一生オタクなんだよな。卒業とか出来ないんだわ。わたしはセフィロスのことを「原初の推し」と呼んで憚らないが、その事実を突きつけられるばかりである。
好きなキャラクター、全員長刀か槍持ってるもんな。背も絶対185以上あるし。銀髪の比率おかしいし。なんなら人外の比率もおかしいし。
逃れ得ぬ三つ子の魂に囚われたまま、三十のわたしはまたしても刀を握っている推しに熱を上げるのだった。