見出し画像

浮遊した喫茶店にて

最近、喫茶店のモーニングにハマっている。癖のないブレンドコーヒーとバターの効いた八切りトースト、こんもり盛られたキャベツのサラダと、キンキンに冷やされた固いゆで卵、そして豊かな朝が提供される。それで500円玉でおつりがくるんだから、この消費加速利益の社会において、重い木のドアを隔てたシェルターだ。

4年この街に住んでいて、ようやくこの喫茶店を知り、入り浸るようになったのはごく最近。きっかけはいつも突然にやってくる。春の終わりの深夜に、徒歩10秒のところに住む友人と散歩をした。丘の上の公園のブランコから、2駅先の街の夜景を見下ろしながら未来の話をする。どちらも就活真っ只中で、こんな先の見えない社会にほっぽり出されて一体全体どうしよってんだなんて言い合う。ふと、目下の街の光がクリームソーダの気泡のように見えた。この夏は、一緒にクリームソーダを飲みに行こう。そう提案すると友人も賛同した。未来が決まった。

晩春の冷気が容赦なく骨に染み渡り、家に帰ろうということになった。私と友人は相性が良く、一緒にいるとお互いの庭でくるくるとお茶会をしているような気分となる。ある時は垂直方向の上空に浮遊しながら。深夜の散歩という幻想世界のお茶会を中断し、このまま別れるのは名残惜しかった。そのため、明日の早朝にまた落ち合って街へ降り、朝ラーメンをキメようという意見に一致した。

約束通り朝にまた会い、街へ繰り出した。起床してまだ30分も経っていない内臓に染みわたる濃厚な家系ラーメンは麻薬だった。容赦ない油と塩分は、一見すると栄養バランスをとっているように見える海苔とほうれん草に纏わりつき、暴力性を持って消化管に侵入する。血糖値は上がり、汗は湧き出て、最高の気分だった。友人と肩を並べて朝っぱらからラーメンをすするなんてこと、時間的にも身体的にも今しかできないだろうという一抹のさみしさも、よく冷えた水できれいさっぱり流し込む。

店を出ると、暑かった。ラーメンだけのせいではない。七色の日差しが降り注いでいる。何かが始まる気配がした。朝ラーメン生活ではない。私と友人の輝かしき青春の1日だけでもない。おそらくは、夏。

口内の油を何とかしたかったし夏が始まったとなれば、私たちの求めるものは1つしかない。クリームソーダだ。その足で喫茶店へ向かった。


そんなわけで、私はここの喫茶店に通うようになった。気さくで干渉しない粋な店主。窓には薄く白いカーテン。シュガーポットは2種類あって、白砂糖とコーヒー糖。少しべたついた木の家具。そして、喫煙可能なこと、ラジオが流れていることがこの喫茶店が至上たるべき理由だ。

現代社会のやけに潔癖なその精神に、おそらく20代前半の私は相当恩恵を得ているとはいえ、なんだかなと思うことがある。公園のベンチの真ん中にひじ掛けを取り付けてホームレスを排除したり、偉い人の気が緩んだ失言への集中砲火であったり、どこもかしこも(喫茶店ですら苦情が来るそう!)禁煙になったり。何をそんなにピリピリと非寛容なのだろう。貴方だけが、貴方のような人だけが生きているわけではない。この世の全員を愛するか、この世の全員に無関心になるかしないと心が落ち着かないのではないかとすらと思う。おそらくそのために宗教はある。貴方が何を信仰しようはしまいが、タバコの匂いが染みついた喫茶店を迫害することはやめてほしい。

そんな思想を持っていながら、私は煙草を吸わない。家族も吸わない。かつて祖父は吸っていたが、禁煙した。しかし、一度だけ肺に煙を入れたことがある。

尊敬している人がいる。一夜だけすれ違った姐さんに「あなたは宇宙人かゲイと結婚するのが良い」と言い放たれた数日後、事情を知らないはずなのに偶然にも新宿二丁目のゲイバーに連れて行ってくれたあの方。絶対に遭遇してはいけない少女を避け続けるのに疲弊して投げやりに講義をサボりたかった日、事情を知らないはずなのに偶然にもゴールデン街で待っていてくれたあの方。

その方に連れられて、新宿駅の近くにある「ピース」という純喫茶店に入ったことがある。席について注文した後、おもむろに煙草を取り出した。その銘柄が「ピース」だった。箱から取り出して火をつける手元をずっと見ていたら、1本差しだしてくれた。そのまま不慣れな手つきで取り出し、火をつけてもらった。おそらく煙草に親しみがないことは見抜かれていたと思う。けれど、不粋に冷やかすような人ではない。煙の吐き方を教えるともなく自然に導いてくれた。初めての煙草は苦くなかった。フレーバーが甘いということもあっただろうし、煙草そのものにドキドキしていたこともあっただろうし、ここが喫茶店であったことも関係するだろう。喫茶店と煙草は切り離せない。

喫茶店というものは、時間そのものを豊かに過ごすための場である。何かをする必要はないし、何かをしないと不安なら珈琲を啜ってみたり、煙草をくゆらせてみたりすればいい。そんな中で、BGMは重要だ。環境音をないがしろにしてはいけない。氷のぶつかる音、コーヒーカップとソーサーの重なる音、新聞紙のこすれる音、貴婦人の談笑、珈琲をおとす音、トーストの焼ける音、遠くで聞こえるくぐもった街の音……。現代音楽さながらの素晴らしい世界の音が耳を澄まさずとも聞こえてくる。その音をかき消すようなナンセンスな音楽をかける喫茶店を私はあんまり好きではない。音楽を楽しむ良質な喫茶店でも、おそらく環境音は大切にしている。音量調節が単純に下手くそで耳をつんざくようになったり、急に小さくなったりするお店にあたってしまったらもう2度とその店には行かない。行けない。いっそのこと、BGMのない喫茶店が良い。しかし、なかなか出会えない。もし知っていたらどうか教えてほしい。

最近よく行く喫茶店は、適切な音量でラジオが流れている。人生の経験上、ラジオの流れるお店が外れないことはきっと多くの人が知っていることだろう。ラジオは何をも邪魔しない。喫茶店では、天気や交通情報はどうだっていいし、気に入らない音楽が流れても一時的なものだし、パーソナリティの言葉は他の客の発するものを中和しながら空気中に蒸発する。こちらから誘い込まない限り、ラジオのほうから意識の内にねじ込んでくることはない。いつでも、受験生、タクシーやトラックの運転手の味方であるほどに。


そんなこんなで、私はこの喫茶店に足を運ぶ。今朝も、フランスで発禁処分を食らった本を片手に時間を味わってきた。それから家に帰ってこの文章を打っていたら15時になってしまった。そろそろ午後の講義にでないと。良い喫茶店ライフを。では。

この記事が参加している募集

#私のコーヒー時間

27,439件

#私の朝ごはん

9,585件

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?