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母は朝の家出をする

 布団をかぶって寝ていると、2匹のうち下の猫がのしっとお腹に乗ってきてふみふみをはじめた。疲れていて頭を撫でる気にもならない、喉元をふみふみされて苦しいので降りてもらう。いつも甘えてくるのに申し訳ないと思う。生後1か月のときに拾った子だから多分私をお母さんだと思っているのに、授乳を邪魔されたり、睡眠を邪魔されたり、いつも追い払われてばかりですっかり邪魔者扱いだ。これが人の子なら虐待だ。

 昨夜のこと、産後うつと夫の無関心が辛いと夫に訴え、話し合いをしたが上手くゆかず「普通、産後うつの妻が死にたいと言ったら会社を休んで病院に連れて行くものだと思うよ。」と言って先に布団に入った。浅い眠りでいると、夫からLINEで「明日会社を休むから病院に行こう。精神的に追い込んでしまってごめん」と連絡がきた。返信はせずにそのまましばらく携帯を見てから起きて、朝4時の授乳をした。9か月になる娘は右おっぱい 7分、左おっぱい 17分、さらに右10分といつもより長く飲んだ。授乳すると目が覚めてしまい、朝からやっている喫茶店に行こうと思い立った。

 こっそり起き上がり、携帯の充電器を充電する。携帯も充電に差して、鞄の中に本を2冊入れた。ママ友の旦那に貸してもらった体の贈り物と、川上弘美のこのあたりの人たちだ。4.5畳みちみちに夫婦の私物が詰まっている部屋の自分の本棚から、本の山を雪崩れのように崩したりしながら読みたい読みかけの本を探した。
 難しいのが服で、4人全員寝ている寝室の中で押し入れの私の服がある場所のすぐ前で夫が寝ているのだ。布団の上の部分にある寝かしつけ時に散らばった絵本をそーっと踏みながら、夫の頭と眼鏡を踏まないようにふすまを開けた。生地が分厚いカーキのズボンと白いユニクロのセーターを静かに引っ張り出した。ふすまを閉めるときにひっかけてギイと音がした。夫が少し目を開いた気がして、服を布団の夫から見えないところに投げて、忍者のように手元灯を消した。何か言われたら娘が服に吐き戻したから着替えるところだったと言い訳まで用意していたが、夫は寝たままだ。
 少し待って服を持って着替えるために洗面所に向かう。洗濯かごを落としてしまい、派手な音がした。夫がすっ飛んできて「倒れたかと思った、今日は会社を休むから病院に行こう。本当にごめん。」と言った。私は1人になりたいから1人にして、と言うと夫は寝室へ引き上げた。着替える前で良かった。靴下を持ってくるのを忘れていた。昨日洗濯かごに入れた長めの靴下を引っ張り出し、ついでに昨日脱いだヒートテックも出して着て出かける。

 ダウンコートを着て、いつもオムツや着替えを入れているリュックに自分のものだけ入れて、猫2匹に小声で行ってきますと言って5時半に家を出た。マンションから出ると、もう外は明るい。私と同じように歩いてる女の人が数人いたが、みんな家出ってことはないだろうな、と思う。川沿いを下ってバス通りを歩いていると、後ろからのっしのっしと足音がした。朝なので怖がることは何もないのだろうが、ちょっと怖くてちんたら歩く私を追い越してゆく音の主を見た。新聞を読みながら歩いているサラリーマンで、首が太くて身体がデカい。6年前に急死した友人に似ていたので驚いた。死んでしまってもFacebookのアカウントは残っていて、○○さんと友達になって何年目、とか出てくるからたまに思い出す。元気にしてるかな、と思う。もう死んでいるから元気も何もないけど、私が知らないどこかで生きていそうな気がするのだ。

 歩きながら辛かった。命の電話や、お金のかかるカウンセリングとかじゃなくて、こんなに悲しいときに、すぐに電話をして聞いてくれる友人がいない。 30代、いい歳だし、そんな友人がもしいても朝5時から電話なんて出来ないけど寂しかった。数回しか会ったことのない夫の親戚のおばちゃんは遊びに行ったときに、困ったらいつでも電話していいよって言ってくれた。一番にそんな遠い人しか思い当たらないと思ったら涙が出そうになって、堪えた。

 自宅から1キロ歩いて朝からやっている喫茶店に着いたけど、早すぎて開店までに30分弱あった。近くにあった階段に座ろうかと思ったけど、お尻が冷えそうなのでうろうろしていたら高台になっている公園に出た。以前、2人目を妊娠中に息子と実母と砂遊びにきた公園だった。誰もいないそこのベンチで朝焼けを見て、夫と話したことを考えて開店を待っていた。
 夫の無関心が辛いと話すと、夫は自分も精一杯やっていると泣いた。いや、私は産後うつで自殺を考えるくらいに辛いのだ。娘を抱っこしながら命の電話に相談するくらい追い詰められている。健康な女性ではないのだ、と話す。
 今まで私が辛くて死にそうな気持ちになっていることに全く気がつかなかった夫が泣くのはフェアじゃないと思った。私が追い詰められていることに気づかず寝ている夫に腹が立っていた。大丈夫?と何度か聞かれたが返事が出来なかった。元々双極性障害持ちで、アスペルガー傾向があり、虚弱気味の身体で産後うつの私は、コロナで引きこもっていたし、週に2回来てくれる実母以外、大人とは喋っていないのだ。でも私が頑張れない分、健康な夫は身を粉にして頑張ってくれている。でも、疲れているからとお茶を飲む時間も拒否され、私たちは1か月近く寝かしつけの後に2人で話してもいない。

 1カ月前、寝かしつけが終わった後に好きなことをしていた夫を皿洗いをしたり離乳食の作り置きをしたりお風呂に浸かったりして話しかけないよう邪魔しないように2時間待って、さあ約束していたお茶を飲もうと言ったら、パジャマの上から身体をさすりながら「寒い」と夫は言った。眠そうに「○○はお茶飲みたいよね。」と言われ、それから私は孤独になった。2時間好きなことをして、私と話す時間は眠くて10分も取れないのか。

 それから自分からお茶に誘うことをやめたら、夫婦の時間は無くなった。元々あまり喋らない夫から話しかけられることもほとんど無かった。夫の誕生日も、寝かしつけのあとにゆっくりケーキを食べようと話していたが、夫は寝かしつけが終わってから頑張って起きたといった感じのぼろぼろだったので、寝ていいよと言うと本当に寝てしまった。

 おととい、息子のお迎え時間が迫ってるとき、娘を授乳して靴下を履かせて慌てて荷物を用意していた。娘の風邪薬の袋や領収書、飲みかけのお茶、絆創膏、保湿クリーム、ビニール袋、ハイハインなど普段使うものが散乱しているオーディオのある台に大きい方の猫が急に飛び乗り、オーディオを倒して色んなものをバサッと落とした。コラ!と怒ると、娘が怒られたと思ったのか急激に泣いた。そこで緊張の糸が切れてしまった。もう、食べない2歳児が作っても食べない野菜料理を作るのも、9割残される離乳食も作りたくない。作り置きして毎回解凍している小さなタッパーを洗うのも嫌だ。オーディオの台も出窓も床にも、ありとあらゆるところにおもちゃや服があって、いつも誰かが探し物をしている家も誰か私の代わりに整えて欲しい。何もしたくない。

 喫茶店が開店したので、朝定食を頼む。切り干し大根のサラダと菜の花のお浸し、春キャベツのトマト煮、玄米に煮卵。日本茶のお店なので、和紅茶を選んで注文する。そういえば昨日の夕方から何も食べていなかった。食べながら携帯を見ると、夫から着信があった。しばらくしてどこにいるのかとLINEがあった。すぐに返事をするのも気が引けるが、返事しないと大ごとになってしまいそうだ。30分考えて、「心が落ち着くまで外にいます。」と返事した。子らはご飯も食べ、長男はもうすぐ保育園へ連れて行くから子供は大丈夫と連絡が来た。夫は要領が悪い私より家事育児が出来る人だ。私が居なくても生活はなんとかなる。なってしまうのだ。授乳があるから帰るけど、授乳期が終わったあと、本当に私の居場所はあるのだろうか。うつで、何もできない状態の母がいる場所はあるのだろうか。

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