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ジャージークラブはなぜドリルと出会ったのか?

ジャージードリル/ジャージークラブラップの隆盛について、ニュージャージーとNYのヒップホップの関係から考えました。記事に登場する曲を中心にしたプレイリストも制作したので、あわせて是非。


ヒップホップシーンで注目を集めるジャージークラブ

ジャージークラブの話題を聞くことが増えてきた。ハウスのキックを一つ増やしたようなドラムパターンやTrillvilleの名曲Some Cutで使われているキコキコとした音などが特徴のこのスタイルは、その名の通りニュージャージーから始まったハウスの派生ジャンルだ。昨年はDrakeがアルバム「Honestly, Nevermind」収録のCurrentsStickyで採用し、Lil Uzi VertもシングルJust Wanna Rockで導入。ハウス文脈を飛び越え、ヒップホップシーンでも注目を集めてきている。

スーパースターの中で比較的早い段階で挑んだのはDrakeだったが、その前段階としてジャージークラブと(UK/NY)ドリルが出会った「ジャージードリル」と呼ばれるスタイルの隆盛があった。近い試みを早くから行っていたのがニュージャージーのラッパー、Unicorn151 aka Killa Kherk Cobain(以下Unicorn151)だ。2008年の時点でDJ K-Swiftとのタッグでラップを乗せたジャージークラブ曲Tote It Remixを発表していたベテランのUnicorn151は、2010年代後半からプロデューサーのAceMulaなどと組んでジャージークラブとドリルの融合に挑戦。この頃から、それまでハウス文脈のクラブミュージックだったジャージークラブがヒップホップリスナーを巻き込んで拡大していき、Bandmanrillなどの新進ラッパーも登場した。

また、ヒップホップという枠を外してみると、ジャージークラブ流行の兆しは2010年代後半には既に散見されていた。2017年頃にはDJ Telly Tellzによる曲Fuck It Up Challengeがヒットしていたし、Ciaraは2018年に同曲のリメイク的なシングルLevel Upをリリース。2020年にはCookiee KawaiiがシングルVibe (If I Back It Up)をヒットさせていた。

一方、NY勢が主導したUKドリル系ビートの人気拡大の動きを振り返ると、ジャージークラブのヒットが生まれていた時期と重なる部分が多いことがわかる。NYドリルはBobby ShmurdaRowdy Rebelなどの活躍を経て、2016年に22GzがシングルSuburbanでUKドリル系のビートを採用して誕生。その後Sheff GSleepy Hallowなどの新進ラッパーが登場し、2019年にPop SmokeのシングルWelcome to the Partyがヒットしたことにより一気にメインストリームに躍り出る…というのが大まかな流れだ。ジャージードリルは、このUKドリル系のビートとジャージークラブの人気拡大の両方の影響を汲んだものだと言えるだろう。

しかし、なぜジャージークラブと近いスタイルが根付いていたボルチモアやフィリーではなく、ニュージャージーでUKドリルとの融合が進んだのだろうか? また、いくらUKドリル系のビートが活気のある新しいものだとはいえ、シーンでずっと根付いているのはトラップである。そこで今回は、ジャージードリルが生まれた理由をNYとニュージャージーのシーンの関係から考えていく。


ヒップホップ黎明期のNYとニュージャージー

ニュージャージーのヒップホップ史を振り返った時、初期の例で最も重要なのはラップグループのThe Sugarhill Gangだ。というか、このグループはニュージャージー云々ではなくヒップホップ史においてかなり重要な存在である。ヒップホップ誕生50周年にあたる今年、恐らくその名前を見る機会は確実に訪れるだろう。というのも、このThe Sugarhill Gangが1979年にリリースしたシングル「Rapper’s Delight」はラップの曲として史上初のトップ40ヒットに至った曲なのだ。The Sugarhill Gangはニュージャージー出身の三人で結成されたグループで、ソウル系アーティストのSylvia RobinsonJoe Robinsonと共に設立したレーベルのSugar Hill Recordsから登場した。Sylvia Robinsonは出身がニュージャージーで、レーベル名はNYのハーレム地区にある地名から取られたという。

その後Sylvia Robinsonは、1982年にはGrandmaster Flash and the Furious Fiveの名曲「The Message」をSugar Hill Records所属プロデューサーのDuke Booteeと共にプロデュース。レーベルもSugar Hill Recordsからのリリースとなった。エレクトロファンク系のビートにメッセージのあるラップを乗せた同曲は、いわゆるコンシャスラップの最初期の例で、その後も多くのアーティストから引用される金字塔となった。ヒップホップはNYで生まれ、Grandmaster Flash and the Furious FiveもNYの集団だが、その躍進を支えていたのはニュージャージー人脈だったのだ。この時点でニュージャージーとNYの繋がりの強さが伺える。

その後Juice CrewPublic Enemyなどの活躍で、ヒップホップはさらに発展を遂げた。ロックに接近したRun DMCのように他ジャンルとのクロスオーバーも増えていき、1980年代後半にはハウスとヒップホップを融合した「ヒップハウス」と呼ばれるスタイルが誕生。これは現代のジャージークラブラップとも通じるものだ。ヒップハウスの代表例としては、NYのグループのJungle Brothersが1988年に放ったシングルI’ll House Youが挙げられる。このJungle Brothersは、De La SoulA Tribe Called Questなども擁するコレクティヴのNative Tonguesの一員だ。そして、Native TonguesはNY勢が中心の集団だったが、その中にはニュージャージー出身のラッパーのQueen Latifahも所属していた。Queen Latifahも1989年のシングル「Come into My House」でヒップハウスに挑み、続く1991年のアルバム「Nature of a Sista'」収録のBad as a Muthaでも四つ打ちのビートを採用。ヒップハウスの一ページを彩った。

ヒップホップの成長を支えたSugar Hill RecordsやNative Tonguesの一員として活動したQueen Latifahなど、古くからNY勢と交流しながら歩んでいたニュージャージーのヒップホップ。1990年代に入ってサウンドが多様化しても、そのNYとの距離感は変わらずに進んでいった。


多様化が進んだ1990年代でも変わらない関係

1990年代に入ると、ヒップホップでは西海岸のDr. Dre周辺やテキサスのRap-A-Lot周辺など地域性の強いスタイルが発展していった。ニュージャージーにも現代のDrakeなどと同じ「歌えるラッパー」の先駆者でもあったQueen Latifahのようなアーティストがいたものの、サウンド面は基本的にはNY勢との大きな差異がないブーンバップ系譜のスタイルが根付いていた。

Sugar Hill Recordsが1985年に閉鎖した後にSylvia Robinsonが立ち上げたレーベルのBon Ami Recordsには、ニュージャージーのラップグループのThe New Styleが所属していた。1989年にアルバム「Independent Leaders」をリリースしたThe New Styleは、その後Queen Latifahに接近してNaughty By Natureに改名。そして1991年のシングルO.P.P.でブレイクを掴んだ。大ネタ使いのブーンバップ系のビートで異様にキャッチーなフックを聴かせる同曲は、1990年代前半のヒップホップを代表する一曲だ。同曲を収録した1991年のセルフタイトルアルバムも基本的にはブーンバップ系の作品で、その路線はGファンクなどの流行を経た1993年にリリースされたアルバム「19 Naughty III」でも継続された。メンバーのTreach2Pacとの交流もあったが、ここで客演に迎えている地元勢以外のラッパーはHeavy DFreddie FoxxxといったNY勢だ。やはりニュージャージーのヒップホップはNYと近いのである。同作からもキャッチーなフック作りが光る名曲「Hip Hop Hooray」が生まれ、ブーンバップをポップに聴かせることに成功した。

キャッチーなフック作りに長けていたNaughty By Natureとは異なり、コミカルな雰囲気でポップさを得たのがRedmanだ。RedmanはNYのラップデュオのEPMD周辺から登場し、1992年にはEPMDのErick Sermonがメインプロデューサーを務めたアルバム「Whut? Thee Album」をリリースした。Erick SermonはPファンク要素を好んで取り入れるため少し西海岸ヒップホップ的な要素も含んでいたが、それでも基本となっているのはNYヒップホップ文脈だ。Erick Sermon以外の参加アーティストもDJ ScratchCharlie MarottaPete RockとNY勢で固めている。Redmanは1994年にはやはりNY勢と共に作り上げた2ndアルバム「Dare Iz A Darkside」をリリースし、以降もWu-Tang ClanMethod Manと接近するなどNY勢と共にキャリアを進めていった。

そのほかニュージャージーからは、Marley Marlのフックアップを受けたLords of the Undergroundや、シングルNappy RootsのリミックスをSalaam Remiに委ねていたFugeesなどが登場。NY勢と交流しながらシーンを発展させていった。それは1990年代後半から続く南部勢の活躍を経ても変わらず、2000年代に入ってもNY勢と共に進んでいった。


ジャージークラブの誕生とヒップホップとの関係

2000年代のニュージャージーヒップホップの話に行く前に、ジャージークラブについて簡単におさらいしたい。

ジャージークラブのルーツとなったのは、ボルチモア生まれの音楽「ボルチモアクラブ」だ1980年代後半に生まれたと言われているこのスタイルは、リズムの面などにジャージークラブとの共通点が発見できる。Lyn Collinsが1972年にリリースしたファンク名曲Think (About It)のサンプリングが多用されるが、これはヒップハウスのクラシックであるRob Base & DJ EZ Rock「It Takes Two」と同じネタ使いだ。

「Think (About It)」ネタはそのほかにもRoxanne Shante「Go On Girl」やEPMDGold Diggerなど多くのヒップホップの曲でサンプリングされており、いわゆる「定番ブレイク」の一つとなっている。定番ブレイクをまとめたコンピレーションシリーズ「Ultimate Breaks & Beats」収録されたこともそれを後押ししたのだろう。ボルチモアクラブが生まれたとされる時期はヒップハウスのムーブメントとも重なっており、ハウス系譜の音楽ではあるがヒップホップとの関係は深いと思われる。

そんなボルチモアクラブが1990年代後半にニュージャージーに渡り、独自の発展を遂げたのがジャージークラブだ。Resident Advisorのジャージークラブに関する記事Jersey club: From Newark to the worldでは、パイオニアの一人としてはDJ Tameilの名前が挙がっている。DJ Tameilは2001年にはジャージークラブのEP「Da Butt EP」をリリースし、ニュージャージーのシーンはDJとしてボルチモアクラブをプレイするのではなくオリジナルのジャージークラブを手にした。そして2008年には先述した通り、Unicorn151がDJ K-Swiftとのタッグでのシングル「Tote It Remix」を発表。現代のジャージークラブラップへの道を歩み始めた。なお、この時期はヒップホップシーンでSoulja BoyYung Jocなどが振り付けのあるヒット曲を放っていた時期だ。ダンスとラップの接近という話題では、シカゴのラップデュオのDude N Nemがジュークを取り入れたWatch My Feetのような曲も生まれていた。「Tote It Remix」も恐らくその流れにある動きだろう。

なお、ボルチモアクラブはニュージャージーだけではなく、同じ東海岸のフィリーにも渡っている。フィリークラブは現代のLil Uzi Vertや2Rareなどの動きとも直結するものだ。

ジャージークラブは2010年代に入ると、Cashmere CatLidoといったヨーロッパのプロデューサーにより世界的な人気を獲得。また、先述したDJ Telly Tellz「Fuck It Up Challenge」の元ネタであるFun.「We Are Young」DJ Smallz 732によるリミックスもこの頃のリリースだ。ジャージークラブがシーンを席巻する下準備は、この時期に既に整っていたのである。


Just Blazeの活躍があったものの苦戦した2000年代以降

ヒップホップの話題に戻ろう。ジャージークラブが産声を上げた2001年頃のヒップホップシーンでは、ニュージャージー出身のプロデューサーのJust Blazeが大活躍していた。1990年代後半にHarlem WorldBuckshotなどのNY勢の作品でシーンに登場し、2000年代に入るとJay-Z関連作のキーマンとして活躍。2001年のJay-Zの名盤「The Blueprint」でもGirls, Girls, Girls「Song Cry」などを手掛け、一躍時の人となった。

この頃のJust Blazeの作風は、やはりNY勢との共通点の多いものだった。ソウルフルなサンプリングを時にはピッチを上げて巧みに使い、ヒップホップに落とし込むブーンバップ系譜のスタイルを中心に制作していた。Just Blazeはブレイク後、RedmanをフックアップしたErick SermonやMariah Careyなどをプロデュース。Lil Jonに代表されるクラブバンガー路線やThe Neptunesの遊び心のあるサウンドの傍ら、ソウルフルなサンプリングのビートの魅力をメインストリームに提示した。

ラッパーでは、Joe BuddenがJust Blazeプロデュースのシングル「Pump It Up」を2003年にヒットさせてブレイクを掴んだ。同曲はJust Blaze印のソウルフル&アッパーな仕上がりだ。一部バウンシーな路線も取り入れていたものの、収録アルバム「Joe Budden」もかなりJay-Z周辺などのNY勢と近い作りの作品だった。ラッパーで客演に呼ばれているのもNYのBusta Rhymesのみだ。Joe Buddenはその後Christina MillianMarques Houstonといったシンガーの作品に参加しつつ、「Mood Muzik 2: Can It Get Any Worse?」などのミックステープで硬派な側面を示し、スキルフルなラップを好むリスナーの間で人気を集めていった。

しかし、ニュージャージーのラッパーはNY勢と同じくブーンバップがメインで、クランクやトラップなど南部勢のスタイルが勢いを増していく時流には合わなくなっていった。Tame OneやRedmanといったベテランラッパーが継続して作品を残し、プロデューサーの!llmindの活躍などもあったものの、新進ラッパーのブレイクのようなメインストリームでの大きなトピックは長らく生まれなくなった。これはNY勢も同様で、50 Cent率いるG-UnitThe Diplomatsなどの人気はあったもののシーンの中心とは呼べない状況が続いていた。

勢いを失ったニュージャージーのヒップホップだが、2010年代に入るとDa$HRetcHが登場。Da$hはNYのA$AP Mobと交流があり、全米のスタイルを吸収してダークな形でアウトプットしたような音楽性も近いものがあった。ブーンバップにこだわらない新しい世代になっても、やはりニュージャージーとNYのヒップホップの近さは健在なのだ。しかしこの二人も大ブレイクには至らず、ニュージャージーからの久々のスターの登場は2015年まで待たねばならなかった。


Fetty Wapのブレイクと脱ブーンバップの動き

2015年のヒップホップ最大のトピックに、Fetty Wapのシングル「Trap Queen」の大ヒットが挙げられる。ルーズに歌い上げるようなラップをトラップやラチェット系のビートなどに乗せるFetty Wapは、ニュージャージー出身ながら同地の伝統からは少し浮いた存在だ。ラジオ局のPower 105.1が行ったインタビューでは、「家族のほとんどが南部出身で、従兄弟たちはみんなGucci ManeYoung Jeezyなどのトラップミュージック、Lil BoosieSlim ThugProject PatThree 6 MafiaJuicy Jを聴いていた」とそのリスニング体験を話している。ニュージャージー出身だが、そのルーツは地元やNYにはないラッパーなのだ。

Fetty Wapは「Trap Queen」の後も「679」「My Way」などヒットを連発。「My Way」はDrake参加のリミックスも生まれ、ニュージャージーのラッパーとしては久しぶりにメインストリームを賑わせた。また、「Trap Queen」を収録したセルフタイトルアルバムの後すぐにNYのラッパーのFrench Montanaとのタッグ作「Coke Zoo」を発表。さらに2017年にはNYのDJ Envyのシングル「Text Ur Number」DJ Sliinkと共に参加し、その歌フロウでジャージークラブを取り入れたビートを巧みに乗りこなした。音楽性はあまりニュージャージーらしくないように思えるが、NY勢との繋がりも含めてやはりニュージャージーのラッパーなのだ。そもそもニュージャージーといえば「歌えるラッパー」の早い例であるQueen LatifahやFugeesのLauryn Hillの出身地であり、ラップスタイルだけを見ればそこまで浮いた存在でもないのかもしれない。

Fetty Wapのブレイクは後進にも影響を与え、2016年頃にはフロリダ生まれでニュージャージー育ちのSkinnyfromthe9が活動を本格化。2017年にリリースしたシングル「All the Way」はFetty Wap「679」によく似ており、直系のフォロワーが早くも登場した形となる。二人は2018年にはSkinnyfromthe9のアルバム「It’s an Evil World」収録の「Too Fast」で共演し、2019年にはタッグ作「Skinny Wit The Zoo」を発表。ブーンバップにこだわらないニュージャージーのヒップホップを共に提示した。

こうしていよいよブーンバップ以外のスタイルのラッパーが目立ち始めたニュージャージーのヒップホップ。2010年代後半からはCookiee Kawaiiなどジャージークラブにラップや歌を乗せるアーティストが増加し、先述した通りUnicorn151やAceMulaらがNYドリルとジャージークラブの融合を図った。Unicorn151とDJ Fadeの二人によるユニットのJersey Godsは、Fivio ForeignなどNYドリルのラッパーの曲のジャージークラブのリミックスを制作。これはNYとニュージャージーのシーンの近さから繋がった試みと言えるだろう。そして2019年頃からこの流れが本格化し、いよいよジャージードリルの隆盛が始まっていく。


ヒップホップ50年目のサウンド

ここまで振り返ってきた通り、NYとニュージャージーのヒップホップシーンは物理的に距離が近いだけではなく音楽的にも近い。それを踏まえれば、NYで2010年代後半から盛り上がったドリルがニュージャージーにも入ってきたことは自然な流れだ。そこに2019年のCiaraのシングル「Level Up」などでジャージークラブに吹いた追い風にCookiee Kawaiiが乗って「Vibe (If Back It Up)」のヒットを生み出し、地元のアーティストが地元のスタイルで成功を収める姿が示された。2020年前後のジャージードリルの隆盛は、そんな流れの先にあるものだと言えるのではないだろうか。

そして2021年、ラッパーのBandmanrillがシングル「Heartbroken」をきっかけに注目を集め、ジャージードリルが多くのリスナーに発見された。同年にはAceMulaとBandmanrill、Unicorn151のコラボ曲「Jack N Drill」のMVが発表され、同曲を収録したAceMulaによる同タイトルのEPもリリース。ジャージードリルはこの頃からさらに広まっていった。

なお、ニュージャージーにはジャージークラブの要素を導入せず、UK/NYドリルに近いスタイルのビートを採用するラッパーも多い。またDrakeやLil Uzi Vertなどが取り入れていたのはドリル色のないジャージー「クラブ」寄りのスタイルであることから、サブジャンル名について少しわかりづらい状況になっている。ジャージードリルの火付け役となったBandmanrillも「ドリルと呼ばれたくない」という旨の発言をしている。本稿では「ジャージークラブラップ」という言葉を採用したが、今後はどういう名称でこのスタイルが定着していくのかも含めて要注目だ。

Sugar Hill Recordsが牽引したヒップホップ黎明期から始まり、Naughty By NatureやRedmanなどが活躍した1990年代、Just Blazeが精力的に活動した2000年代、Fetty Wapのブレイクがあった2010年代…と、常にNYのシーンと共に歩んできたニュージャージーのヒップホップ。そのスタイルは地域ならではの個性を持たないまま進んできたが、ここに来てついにシグネチャーサウンドを獲得した。ヒップホップ史の重要な瞬間である「Rapper’s Delight」を生んだ地のニュージャージーが、ヒップホップ発祥の地のNYのシーンとの繋がりによって勢いを得たスタイル。それがヒップホップ50周年の節目となる2023年に注目の的になっているのは、なんともロマンティックな話である。


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