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日本誕生の謎を解く⓪私は日本の意味をまだ知らない


日本の意味をまだ知らない

日本国家の成立事情を知りたくて、日本史の7世紀を焦点にあてて「日本誕生の謎を解く」と題して記事を書き始めました。

教科書はもちろん、古代史の一般的な(基礎的な?)資料はおおよそ目を通しましたし、ネット情報はざっと見ましたし、YOUTUBEコンテンツも見ています。

でも、それらの情報のほとんどは日本書紀、古事記、またはその周辺の文献資料をそのまま表現するもので、これらの情報を日本誕生の物語として素直につなげてみると、どうもどこかがおかしいと思ってしまうのです。

たとえば、

捜査資料を読んだところ、一応、事件の経緯としてはつじつまがが合っているし、誰それが犯人だと言う証拠もあるけれど、なんとなく引っかかる。

そんな感じなのです。

証拠資料にウソの供述があるのではないか。

私たちが自身を日本人だと思う。その「日本」の成立過程というものは、「日本人とはなにか」というテーマと密接につながっています。

しかし、私が得られる情報からでは、日本が生まれるまでの物語が、どうにも不自然に感じられてしまい、直感として納得できていないので、日本について「日本人はまだ知らない」と思ってしまいます。

政府発表には裏がある

ですので、「もう自分はわかっている」という方にとっては、この記事は奇妙で、なんら取るに足らない記事に思えるでしょう。
しかし、私は日本書紀の記述が直感的に不自然に思えてしまうのです。

私はたまたま風営法が専門なので、警察庁が発表する資料に目を通すことがよくあり、そこに書いてあることの「」を読むクセがあります。

関係業界の皆さんは、その「裏」を読もうとしません。
そして、法律を正しく知るためには法律の学者の正しい解説が必要だと思い込んでいます。

それはよくある思い込みであり、現実の判断にはなんら役に立ちません。
しかし、風営法と現実の出来事をつなぎ合わせると、真実が見えてきます。

古代史は現代にもつながっている

公官庁の公式発表というものには、立場として堂々と言えることと、言えないけどわかってほしいこと、があるのです。

現代でさえそうなのに、1300年前の日本書紀を史実として素直に受け取れと言われても、そりゃ無理だわ、と私は思うのです。

あまりにもったいないというか、せっかく情報があるのに、歴史を把握する機会を永遠に失ってしまうような不安に駆られてしまいます。

しかもそれが、日本国家の成立に関わることなのです。
本能寺の変や坂本龍馬暗殺とは、現代における重要性が一根本的に違うのです。
私にとってこのテーマは現代につながっています。

素直に信じるのも結構ですが、今とことん疑っ-ておいて、その疑いを晴らしておきたいというのが私の欲求です。

日本書紀に対する向き合い方

記紀に対する向き合い方には、人それぞれの思考の特徴があるようです。

①日本書紀や学説を正史とみなす人
②日本書紀には価値がないと頭から否定する人
③日本書紀の不自然な点を起点にして想像を張り巡らす人

私は③に近いのですが、想像するにしても、私も私なりの合理性をもとに想像しています-

ネットで拝見する独自の説の多くを、私も「奇妙」だと感じていますが、私の記事も多くの方々から奇妙と思われるはずです。

その「奇妙」に感じる理由を教えてもらうことは、私にとって有意義ですので大歓迎ですが、「通説はこうなっている」という根拠を示されることは、私がその通説をすでに知っているのであれば、あまり意味がありません。

私は日本書紀を学びたいというよりは、私が不自然と感じる点に着目してその謎を解きたいのであって、一般のデータだけでは足りない部分を、周辺データと関連付けて妄想で埋めようとしています。

基本的にはウィキペディアか公的機関等のネット情報を土台にして考察することにしています。

ピースの一つ一つよりも物語を知りたい

パズルに例えてみると。
ピースの中には信用度の高いピース信頼度の低いピースがあるので、信用度が高いピースをとりあえず、それらしいところに並べてみて、それによって全体のイラスト想像し、さらに別のピースを置いてゆく。

そこから想像されるイラストが不自然であれば、別のイラストを想定してやりなおす。

こんなことを日々繰り返してゆくうちに、なんとなく仮の全体像がイメージされてきましたが、まだ自信がありません。

私のイメージしたイラストとは全く違うイラストが史実かもしれないので、今の私が想定しているイメージを「妄想」ということにして記事にしています。

ご指摘に感謝しています

ですので、私はこの記事を頻繁に書き換えてゆきます。そのためのブログです。

私にとって、パズルのピースの形を正しく記憶することには、あまり意味がありません。

ですので、日本書紀に書いてあることを「正しい歴史」としてご指摘いただくことは、この記事の主題からは、はずれてはいます。

しかし、皆様の認識を察するうえではとても貴重でありがたく、いつも感謝しております。

私はコンプライアンスを本業していますが、私のコンプライアンス判断では「意識」を重視しているからです。
意識の集合体としての社会の動きにも注目しています。

そこに何らかの歴史的な法則や傾向があり、そういったものも現代のコンプライアンスや経営判断、人生判断の役に立つかもしれないとも考えながらこの記事を作っています。


ありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願いいたします。 <(_ _)>