日本人が知らない日本誕生の真相① 聖徳太子と推古天皇は疑わしい
聖徳太子信仰の謎
出張で大阪に行ったとき、「聖徳太子信仰」の展覧会のチラシを目にして、フト、こんなことを考えました。
「信仰」とはつまり、聖徳太子には神秘的な要素があるということですが、聖徳太子は後世に仏教の擁護者として尊敬されただけでなく、奈良時代につくられた政府公刊の歴史書である日本書紀の中ですでに神秘的な逸話が多数載せられています。なぜだろう。
厩戸皇子は後世に聖徳太子と呼ばれました。聖なる徳のある皇太子です。
日本書紀によると、推古天皇の摂政であり、皇太子であって、母方の実家である蘇我氏の支援で政治を行ったとされます。天皇になれなかった政治家が、立派な人物として神のごとく崇拝されるのには、なにか特殊な事情があるのではないか。
摂政で皇太子という矛盾
特に気になるのは、聖徳太子は本当に摂政で皇太子だったのか?ということです。
摂政 ⇒ 君主に代わって政治を行う職
皇太子 ⇒ 天皇の跡継ぎ
推古天皇が政治のすべてを聖徳太子に任せたのは、聖徳太子がとても優秀だったからだそうです。でも、ほかに天皇として相応しい年齢の人物がいないので39歳の推古天皇が史上初の女帝として即位したのだとか。
聖徳太子は天皇を補佐できるほどに優秀で、次期天皇になることが約束されているけれど、聖徳太子はまだ二十歳。当時、20歳では倭王としては若すぎるのですね。
ところが、聖徳太子の祖父にあたる欽明天皇は20歳そこそこで即位しており、その際、
「私は若くて知識が浅く政事に通じないから山田皇后(安閑天皇の皇后)に政務の決裁をお願いしたい」
と言ったところ、山田皇后は
「国政処理の難しいことは婦女の預かれるところではない。」
と言って辞退したと日本書紀に書いてあります。
だったら聖徳太子が天皇でもいいような気がしますがどうでしょう。
ちなみに、「天皇」という地位がこの時代にすでにあったという説が常識に近いようですが、私はそう考えておらず、その理由はおいおい触れます。
この時期はまだ「国名」としての「日本」は存在せず、外国から見ると倭国であり、倭国の最高指導者の称号はしばらくの間、対外的に天皇ではなく倭王であるという前提で話をすすめますが、人物特定においては一般的に使用される「〇〇天皇」という通称の方が便利なので頻繁に使います。
推古天皇時代の倭王は男だったという記録
推古天皇について、才色兼備だったこと以外ほとんど記録に残っていないということは、学者さん達も認めているようです。
さらに重大な問題は、隋書という中国側の記録では、7世紀初頭に隋の使者が倭国に派遣されたときの出来事として<倭王の名はタリシヒコといい妻子がいた>、つまり倭王は男であったと記録されていることです。
随所倭国伝より
開皇二十年 俀王姓阿毎字多利思北孤號阿輩雞彌遣使詣闕 上令所司訪其風俗 使者言 俀王以天為兄以日為弟 天未明時出聽政跏趺坐 日出便停理務 云委我弟 高祖曰此大無義理 於是訓令改之 王妻號雞彌 後宮有女六七百人 名太子為利歌彌多弗利
倭王の姓は「アメ」で名は「タリシヒコ」で「オオキミ」と号す。
王の妻は「キミ」といい宮女が600-700人いる。
太子は「ワカミトオリ」という。
(※カタカナ読み方は作者が勝手に修正)
これについて学者さん達は、隋から派遣された使者に面会したのは聖徳太子であり、日本の君主(推古天皇)は外交儀礼として使者には会わないから、使者が聖徳太子を倭王だと勘違いしたと考えているのだそうです。
裴世清の派遣と「隋書倭国伝」の偽造
https://repository.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/record/55008/files/cc023003.pdf
隋書倭国伝の日本語比定
http://repo.komazawa-u.ac.jp/opac/repository/all/19551/KJ00005100486.pdf
倭王に面会しなくても、倭王の家族状況くらいは間違えないと思います。魏志倭人伝では卑弥呼が邪馬台国の女王だったと記録されています。
卑弥呼については人前に出ないで政治をしていたと記録されていますが、それでも卑弥呼が女性であったことが中国側で記録されているのです。それより300年以上あとにやってきた隋の使者は魏の使者よりもにぶい人たちだったのでしょうか。
しかもその倭王は、隋の皇帝に対して対等外交をやってのけた危険人物でした。東アジアにおいて中華の皇帝は最高最強の政治的存在だったとされますが、倭王はそのような存在に対して外交的に危険なことをしていました。
東アジア世界において独自の地位を築こうとしていた可能性があるとすれば、中国側から<微妙な存在>として受けとめられたでしょう。
中国政府の外交官が倭王の性別を勘違い?
この5年後に中華王朝である隋は高句麗(朝鮮半島北部)に侵攻して敗北しますが、このときの倭国は高句麗とそこそこ親しくしていたとすれば、隋からみれば敵対国家と見られる恐れがあります。
実際のところ、半世紀後に倭国は半島へ出兵し中国軍と戦争することになります。
西暦608年、隋から倭国に使者が派遣されたとき、そんな微妙な存在である倭王がどんな人物であるかは、使者たちにとって国家戦略上の重要な関心事のはずですから、スパイを使った諜報活動など様々な手法を使って倭王について情報を収集し分析したに違いないです。その分析結果が<倭王には妻子がいる>でした。
米国大使やCIAがプーチン氏の性別を間違えて報告したという話があったら信じられるでしょうか?
少なくとも、対外的に倭王が男だったことは疑いようがないと思うのです。
または推古天皇らしき女性が実在していて、倭国内の政治通だけが「みんな知らないけど実はうちのトップは女性なんだよね。」と認識していたのか。もしそうであったとしても、世間が認める実質的な倭王が男性であったことは変わりません。
推古天皇は天皇ではない人だった?
こう考えてみると、当時の本当の倭王は男性であり、推古女帝というデッチアゲがあとから必要になったのではないか。
という疑いが生じてしまうのです。もしそうなら、なにかを隠したい事情が日本書紀編纂者に存在したことを意味します。
日本書紀によれば、当時の政治上の実力者は聖徳太子であったとされますから、聖徳太子と呼ばれる人物が実は倭王であった可能性を感じます。
聖徳太子が倭王であっては困るが、その輝かしい実績までは消すわけにもゆかず、仕方なく、
聖徳太子は聖なる徳のある皇太子で、推古天皇の摂政であった。
ということにした?
そんなことがありうるのでしょうか。
例えば、河野洋平さんは総理大臣だったけど麻生太郎さんは総理大臣になったことはない。
これが嘘か本当か一般市民に街角でインタビューしたら、どんな反応になるでしょう。結構多くの人が、間違えるのではないでしょうか。
日本書紀の改ざんはありえるか
現代でさえそんな程度ですから、日本書紀を書いた時代の100年前の倭王が誰だったかなんてことは、その子孫か、よほど史実にこだわりの強い人でもないと記憶に自信がないでしょう。
<額田部皇女という女性が実は推古天皇(倭王)でったのです>
ということにするのは、たいして難しくはないのです。
たとえば、ちょっと大きな同族企業があって、そこの経営者一族がこんな話をしていたとしましょう。
「先々代よりも前だったと思うけど、〇〇さんっていうすごい人がいたよね。あの人は社長だったっけ。」
「いや、あの人は副社長だよ」
「え、専務じゃない?」
みたいな話になったとき、自信を持って
「違うよ、あの人は副社長じゃなくて社長だったんだよ」
と、断定できる人がどれほどいるでしょうか。
「じゃ、昔の議事録を見てみようか」ってことになるでしょうが、その議事録が誰かに書き換えられていたという話です。
21世紀でさえ大胆に嘘をつく政府が存在するのに、8世紀に作られた日本書紀の全てを信じろと言われても無理というものですが、かといってほかに歴史を探る手がかりはほとんどありません。
日本書紀は当時の政府がつくった公式記録である以上、すべてがでたらめであったとも考えにくいです。
政府関係者が目にしたとき、なるほどそのとおりだ、と思わせる程度の信ぴょう性が必要なはずですから、割合として多くの部分は真実のつもりであったろうと思います。
言い換えれば、どこで嘘をついたかで、彼らの本音を探ることもできるでしょう。
一つの方法として、もし聖徳太子が倭王だったら倭王家の系図がどうなってしまうかを考えたみてはどうでしょう。それはあとで試みることにします。
可能性はいろいろ
以上のとおり、推古天皇の周辺はなんとなく疑わしいのですが、そもそもこの当時の倭王権の在り方が私たちのイメージと異なる可能性もあります。
倭王という肩書は対外的なものにすぎず、当時の宮廷では<父ちゃん><母ちゃん>みたいなやりとりになっていて、誰が正式なトップかということにこだわっていなかったかもしれません。
系譜にこだわりすぎるとかえって混乱する可能性があります。
たとえば、西暦1590年頃の日本では最高権威たる天皇は後陽成天皇だから、小田原北条氏を滅ぼして天下を統一し、全国で検地と刀狩を行ったのは後陽成天皇の功績だ、と言ったらおかしいですよね。
豊臣秀吉は関白太政大臣をやめたあとは太閤と呼ばれる隠居じいさんであり、秀次が関白になりました。
しかし、秀吉は最終的に国内で無官になっても、明朝からは日本国王に封ぜられました。
秀吉が死んでから豊臣家が亡ぶまでの17年間は、武家のトップが豊臣秀頼なのか、家康なのか、秀忠なのか、といったことが見えにくかった時期でした。
形式的にはこんなあいまいな権力構造でも、積極的な対外戦争や外交をやれるのですから、7世紀の倭国もこんな状況だったかもしれないと妄想してしまうのです。
ありがとうございます。これからもどうぞよろしくお願いいたします。 <(_ _)>