【エッセイ】生きづらさを癒してくれたもの「祖父母とコロとゆうくんと。」あの夏の日の思い出
「じいちゃー-ん。セミ捕れないよ。」
虫取り網を片手にした私はぶかぶかの麦わら帽子をかぶり直す。
小さな体躯でやたらと柄が長い虫取り網を空中で懸命に振る。
網にあおられた私はよたよたとよろめいた。
6歳の時、私は祖父母の家に住んでいた。
特別な事情があったわけではなくて、自然あふれる広大な庭と自由奔放に過ごせる祖父母の家の環境がただ純粋に好きだったので、母に帰ってくるように促されるまでの半年間を祖父母の家で過ごした。
両親は私を愛してくれていてそのことに不満があったわけではなかったのだけれど、一戸建てアパートの庭はアスファルトに覆われていて草ひとつ、簡単に生えないほど自然から遠のいた環境にあったことが、自然が好きな私としては苦痛だった。
平日の朝は6時に起き、身支度や朝食を済ませた後は父が迎えにくるまで野菜を店に出す手伝いをした。
父の送迎で学校まで行き、帰りは祖父に迎えに来てもらう。
そして夕方、祖父と一緒に、柴系統の雑種犬「コロ」の散歩をした後のんびりと宿題をして、夕食を摂り、祖母と入浴した後、21時に就寝する。
祖父母の家では、そんな毎日を送っていた。
ASD(自閉症スペクトラム)持ちの私は時折体調を崩すこともあったが、よくも悪くも当時は診断がついてなくてみんな普通に接してくれていた。
自然に溢れた広大な地で自由奔放な生活を送ることで、発達障害がもたらす「生きづらさ」を癒していた。
「じいちゃんってば。あのセミ捕れないよ。」
8月某日。
始めての夏休み。
私は口を尖らし不服そうに祖父に訴える。
「どれ? 貸してみ。」
祖父は私の手から虫取り網を受け取る。
「どれだい? 」
祖父は、目を皿のようにして楓や松、カリンなどといった複数の樹木が生えている庭の一角を見まわたす。
「あれだよ。」
耳をつんざくようなセミの声に負けないように私は精一杯、声を張った。
私の狙いは「ツクツクボウシ」だった。
ツクツクボウシは羽が透明で身体も比較的小さく、動きも素早い為、よくいるアブラゼミと比べると捕まえづらかった。
「いたいた。オーシーツクツクだな。」
なぜか祖父はツクツクボウシのことをそう呼んでいる。
私は忍び足で、数十メートルほどの大きなかりんの木に近づく祖父に習った。
網は祖父に渡してしまっているので一緒に近寄っても仕方がなかったが、そうして捕り方の極意を学んでいるつもりだった。
ぎらぎらと容赦なく照り付ける太陽に照らされて、額から汗が滴る。
祖父は網が届く距離まで近づくと、躊躇なく一気に網を振りぬいた。
「ジジジッ。」
網の中でツクツクボウシが激しく飛び回る。
「やったー。じいちゃん、すごい。」
私は飛び跳ねてその小さな全身で喜びを表現した。
でも、ここからが肝心なのだ。
網から虫かごに移すときに逃がしてしまうことが多かった。
「じいちゃん、絶対に逃がしちゃだめだよ。」
私がプレッシャーをかける中、祖父は慎重且つ大胆に網の中にいるセミを手で鷲掴みにし、虫かごの中に放り込んだ。
私が慌てて虫かごの蓋をしめたもんだから祖父は手を挟まれ
「いててて! 」
と声を上げた後、苦笑いを受けべた。
祖父が強引に虫かごから手を抜いた後、私は虫かごを持って祖母に見せに行った。
「ばあちゃん、見て!じいちゃんが捕ってくれたん。」
祖母はセミよりも私の顔を見て、にこやかに微笑むと
「あらぁ、良かったね。」
ととても嬉しそうに言った。
「ね? じいちゃん。」
私は背後を振り返ってセミの入った虫かごを掲げた。
歯を見せて笑ったその時の祖父の顔は、10年以上経った今でも鮮明に網膜に焼き付いている。
昼下がり、大好きなオムライスを食べた私は居間でごろごろとしていた。
私の祖父母と同居している叔父の「ゆうくん」は祖父母に混じってたわいもない世間話しをしている。
幼い私にはその内容はイマイチ理解できなかったが、穏やかな声が響く中、ゆうくんの膝でうとうととするのが心地よかった。
ゆうくんが朗らかに笑うたびに私の身体が揺れる。
そんな中、安心しきった私は眠りについた。
ふと目を覚ます。
明るかった部屋は薄暗くなりそこには祖父母もゆうくんもいない。
眠い目をこすりながら、ゆっくりと起き上がると私の身体に掛けられていたタオルケットがはらりと落ちた。
「ばあちゃー--ん。どこー-? 」
ふすまが開け放たれた5LDKの広い家を駆けまわり捜索にかかる。
「ばあちゃんってば。」
見つからずパニックになりかけた時、2階から階段を下ってくる足音が響いた。
「どしたん? 」
そういってマグカップ片手に下りてきたのはゆうくんだった。
私の声を聞いて2階にある自室から出てきたようだった。
「部屋真っ暗だし、ばあちゃんいないの。」
「ばあちゃん、多分畑に行ったんだよ。一緒に待とう。」
ゆうくんは階段を降り切ると私の背に手を当ててなだめるように言った。
「あ! コロもいない。」
落ち着きかけた私はコロが鎖を残していなくなっていることに気づき再びパニックになりかける。
「ああ、ほんとだ。でもきっとじいちゃんと散歩に行ったんだよ。すぐに帰ってくるから、ゆうくんと待ってよ。」
毎日のように祖父母の家で過ごしている私には分かり切っていることだったのに、寝起きで情緒不安定になっている私はそわそわとした。
ゆうくんは居間の電気を付けながら言う。
「夏休みの宿題は進んだん? 」
川で捕ってきた品種も分からない川魚と手長エビなどを無数に詰め込んだ過密水槽を見つめながら、私は首を横に振る。
「ううん。作文もポスターもぜんぜん進まん。」
私は癇癪を起したかのように出窓に置いてあった書きかけの原稿用紙をくしゃくしゃに丸めて、放り出した。
ゆうくんはその様子に驚くことも私を咎めることもせず、足元に転がった原稿用紙を拾った。
「なんだ。よく書けてんじゃん。」
くしゃくしゃになった原稿用紙を広げてさっと目を通したゆうくんは、マグカップの中身を一口飲んだ。
「いや、ぜんぜん。うまく書けないんよ。」
私はなぜか水槽上部に張り付いているスジエビを水槽越しにこんこんと突いた。スジエビは慌てて水草の茂みに飛び込む。
「うまく書こうとしたらダメなんだよ。よづきが思いのまま自信を持って書けばいいの。ほら、現によく書けてるし。」
「そうかなぁ。」
現役教師のゆうくんの言葉に私は少し嬉しくなる。
「直すとしたらここをもっとこう・・・。」
ゆうくんがそう言いかけた時、がらがらと横開きの玄関ドアが音を立てて開いた。
「はぁー、暑い、暑い。」
手ぬぐいをぱたぱたとさせながら、入ってきたのは祖母だった。
「ばあちゃん!!どこ行ってたん? 」
私は汗を拭く祖母に駆け寄り分かり切ったことを聞く。
「畑に行ってたんだよ。ほら、大きなスイカが採れた。」
祖母は庭に置いてある一輪車を指さした。
そこにはやたらと存在感のある大玉スイカがひとつ、乗っていた。
「わあ、すいかだ。やったー。」
果物の中でも特にすいかが好きな私は飛び上がって喜んだ。
「それにほら。」
祖母は自身のポケットから何かを取り出す。
それは私の大好きなオスのカブトムシだった。
「おおー!」
私は歓声を上げ子犬のように室内を駆け回る。
カブトムシを祖母から受け取り網戸にたからせてうっとりと眺める私を、祖母とゆうくんは微笑ましそうに見つめていた。
「もう、いらない。」
夕食を半分以上残した私は障子を開けて、庭でドックフードを食べているコロを窓越しに見る。
「もういいの? 」
祖母は、あまり食事を摂らずに痩せてきた私を心配するかのように言った。
「うん・・・。」
一方で私はというと人と食事を共にすることが苦手だった。
どんなに空腹でもたとえ家族とでも、一緒に食事をすることにプレッシャーや大きなストレスを感じてしまい、吐き気や食欲不振を抱えることに繋がっていた。
せっかく食事を用意してくれた祖母への罪悪感に胸が痛んだが、なぜかひとこと「ごめん。」と言えなかった。
「そうかい。じゃあコロにあげるかい? 」
「うん。」
祖母の問いに私はうなづき、コロが食べられそうなものをひとつのお茶碗に盛って窓辺に近づいた。
それに気づいたコロは窓辺に置かれた縁台に飛び乗ったのだが、勢い余って掃き出し窓に激突する。
「あ!コロが!! 」
私はそんなコロを心配したが、祖父母たちは
「コロは雑種で強いから。」
という謎理論をかまし、大して気にする素振りもない。
「そんな・・・。」
窓ガラスにはコロの湿った鼻腔の跡が2つ、奇麗に残っていたがコロ自身もけろっとしていて痛がっている様子もない。
「コロ・・・。」
私は自分がぶつけたかのような胸の痛みを抱えながらも、ゆっくりと掃き出し窓を開けて、コロに残飯をやった。
ドックフードをたんまりと食べた後だというのに、コロは私の指に食い掛らんばかりの勢いでそれにがっつく。
そんなこんなで夕食を終えた私たちは居間でテレビを見てくつろいでいた。
不意に私の鼓膜を
「ぴしっ、ぱしっ。」
という小さな不審な音が揺らした。
「ねえ、変な音がするよ。」
私は隣に座っていたゆうくんに訴えたが
「気のせいじゃない? 」
と取り合ってもらえなかった。
私は確かにその音を聞いたのだが、祖父母も聞こえていないようだし、音の出どころも分からずそのままにしてしまった。
翌朝、そのことを後悔することになる。
寝ぼけ眼で寝室から出てきた私に祖父は何かをつまんで見せた。
それを見た私は一気に眠気が吹き飛ぶ。
「これ、干からびてたよ。」
そうして祖父は「はっ、はっ、はっ。」と快活に笑ったが私はあまりの衝撃に声すら出なかった。
祖父が見せたのは私が例の過密水槽で大事にしていた1匹のスジエビだった。それが市販の干しエビのようにからからに干からびていたのだ。
前日の夜、私が聞いた音はエアレーションの弱い過密水槽で酸欠になって飛び出たスジエビが飛び跳ねる音だったのだ。
「しょうがないよな。」
祖父の言葉にただただうなづくことしかできなかった。
じわじわと胸に後悔が広がっていき、全身がどんよりと重くなった。
”えびさん。私のせいで死んじゃった・・・。”
”昨日気がついていれば死ななかったのに・・・。”
しょんぼりとうなだれる私を窓越しでコロが心配そうに見つめていた。
残りの夏休みももちろん、祖父母の家で満喫した。
おもちゃやお菓子を買ってもらうことよりも、友達と遊ぶことよりも、テーマパークやデパートに行くよりも何よりも祖父母の家で過ごすことが好きだった。
毎日のように買ってもらった手持ち花火。
火がついたそれを手に持つと子供の用にはしゃぐ祖母。
積み上げられた満室の虫かごマンション。
そこから昆虫ゼリーをせっせっと運び出すアミメアリの列。
カブトムシの匂い。
氷水で冷やされた大玉スイカと野菜たち。
つんざくようなセミの合唱。
夏の日々は飛ぶように過ぎて行ってあっという間に終わりを迎える。
ひぐらしが鳴く夏休み最終日、夕暮れ時の薄暗い部屋で私は誰に言うわけでもなくひとりごちた。
「夏が・・・、夏休みが終わっちゃう。」
ゴーヤカーテンの影が憂いを帯びたゆうくんの横顔に落ちた。
少し間を置いて傍にいたゆうくんは静かに言った。
「そうだね。」
「カナカナカナカナカナ・・・・。」
というもの悲しいひぐらしの声を聞いて私は泣きそうになる。
夏休み最終日特有の憂鬱さに胸を侵されていた。
「でも、お友達に会えるでしょ? それに作文もポスターも頑張って書いたじゃん。みんなに見せないと。」
「うん。」
私はゆうくんの言葉に小さくうなづいた。
寿命が近づいた虫かごの中のカブトムシが、視界の端で小さくうごめく。
胸に風穴が開いたかのような虚しさがいつまでも私に付きまとっていた。
それから月日は流れ14年以上が経った。
コロは星になり、年老いた祖父母は痩せて一回りも二回りも小さくなり、ゆうくんは教頭先生になり私は無職になった。
変わっていく日常の中で唯一変わらない祖父母の庭がそこにはあった。
あの日、セミを捕ってもらった大きなかりんの木。
あの日、カブトムシを採ったスイカ畑。
あの日、初めてひとりで押した一輪車。
ひとつひとつの思い出を噛みしめるようにこの夏、私は祖父母の家の庭を歩いた。夏の情景とリンクした思い出が映像のように流れてくる。
そしてコロが愛用していた縁台に腰掛けた。
コロと見ていた風景を共有する。
この場所からは庭全体を見渡すことができた。
松、ツゲ、カリン、楓などの複数の樹木が植えられている広々とした庭はどこか日本庭園を思わせるが、手入れがされていながらも足元に日々草などの花々が咲き乱れている情景は、そこまで堅苦しいものでもなく私は今でも祖父母の家とこの庭が好きだった。
大きな花壇に植えられた白百合の花が風に揺れた。
「いつまでそうしているんだい? 暑いんだからはやく入んな。」
そう言う祖母をゆうくんが
「いいんだよ。よづきはこの庭が好きなんだから。」とたしなめる。
私はズボンの汚れを払って中に入る。
「お茶でも飲むかい? 」
キッチンから急須を持った祖父がひょっこりと顔を出す。
「うん!」
私は手を洗った後、祖父が入れてくれた緑茶を居間ですする。
ぎらぎらと照り付ける攻撃的な日差し。
青々とした木々。
湿気を含んだ夏風。
そしてどこまでも青く澄んだこの空。
そこにはただただ変わらない夏があった。
温暖化が進み気温は上昇し、日差しはより攻撃的になり、セミの合唱は小さくなるなど変わった部分もあるかもしれない。
でも、それでも、変わらない夏が、あの夏の日の思い出が確かにそこにあるのだ。
この夏のすぐそばに。
夏にまつわる作品募集中
#やっぱり夏がスキ
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