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戦火のアンジェリーク(5) 2.London ~ the UK

創作長編『戦火のアンジェリーク』第2幕部分(R15)
※史実を元にしたフィクションです。実在の人物、地名、出来事とは関係ありません。
※予告無しで、加筆修正する場合があります。

2.London ~ the UK

朱に夢現


 グラッドストーン邸に到着し、格調あるティールームに入室して暫くすると、一家が揃って現れた。今度は、始めからジェラルドもいる。彼は、初めに会った時と変わらず無表情で仏頂面だったが、アンジュを見つけると、一瞬だけ、口元を少しだけ歪めて笑った。対しアンジュは、速攻で視線を反らす。
 今日は、アフタヌーン・ティー……お茶会の催しだった。以前と同じメンバーで、前とは違う曲を歌う。今回は、スコットランドのノスタルジックな民謡だ。衣装も前回よりもシンプルなデザインの、ミルクティーベージュに控え目な刺繍が施された、フォーマルワンピースを着ていた。

 無事、演目が全て終わると同時に、和やかでありながら、どこか張り詰めた雰囲気の中で、メインのティータイムが始まる。例のごとく、並ならぬ緊張で疲れ果てていたアンジュは、かぐわしい香りを漂わせている紅茶を、部屋の隅で静かに楽しんでいた。アールグレイというポピュラーな種類らしいが、こんなに美味しい紅茶は生まれて初めてだと思った。
 手にした艶やかな白磁のティーカップにロイヤルブルーで描かれた、小花や鳥の柄も非常に美しく、ニューキャッスルで見た風景を思い出す。次第に緊張が解けてきたアンジュは、空腹を感じた。

 ――お菓子も欲しいな。

 そう思って、スコーンを取りに行こうとした時、山盛りのスコーンやマカロンなど、色とりどりの菓子が乗った皿が、ぬっ、と眼前に差し出された。驚いて見上げると、口元を少し弛めたような、静かな笑みのジェラルドが、アンジュを見下ろしていた。今日の深緑のは、心なしか穏やかな気がする。ダークグレーのベストに、白シャツを少し着崩した礼服が、秀麗な顔立ちとアンバランスだった。

「どうぞ、召し上がれ」

 彼が視界に映った瞬間、先日の件を思い出したアンジュの頭に、一気に血がのぼる。

「……結構です」

 ふい、と、アンジュは顔を反らした。そんな彼女を見て、彼は、どこかたのしげに追求する。

「随分、物欲しげに見てただろう」
「み、見てないです」

 慌てて否定したが、その言葉とは裏腹に、彼女のお腹から、キュルキュル、と鳴き声が聞こえた。思わず腹を押さえたが、しっかりジェラルドの耳に届いていた。その証拠に、もう片方の握り拳を口元にあて、必死に笑いを堪えている。

「……腹は、そうだと言ってる」

 恥ずかし過ぎて消えてしまいたかった。よりによって、この人に聞かれるなんて。直ぐにでも逃げ出したかったが、自分より十五センチ以上はある、長身の男性に道を塞がれていたので、とても突破出来そうになかった。おまけに、袖に付いた長いフリルや、スカートの裾がまとわりついて動きにくい。端から見ると、狼に追い詰められた野ウサギのようだ。
 そんな慌てふためく彼女を、ジェラルドは、可笑しそうに見ている。

「毒なんて入ってない。安心しろ」

 根負けして、アンジュは空腹に白旗を上げた。まだ笑いを堪えている彼を軽く睨むと、目の前のスコーンに手を伸ばした。少しかじると、口内に優しく甘い風味が広がり、不覚にも、ふわり、と頬がほころぶ。

「そんなに美味いのか? ベビーちゃん」

 とうとう、喉をクックッ、と静かに鳴らして笑いながら問う彼に、アンジュは聞き返す。

「……『ベビーちゃん』って、何ですか」
「君の事」

 とうとう沸点に達し、アンジュは思わず声を荒げた。

「勝手に、変な名前付けないで下さい! 私は、アンジェリークです!」
「君、まだまだ『ベビー(赤ちゃん)』って感じだから」

 この聞き捨てならない言葉に、更に、頭に血がのぼる。

「これでも十六です。『ベビー』じゃありません!」
「今日は、機嫌が悪いな」
「……心当たり、ありませんか?」

 以前よりは柔らかい低音の声だが、妙に絡んでくる彼に、アンジュは苛立ちを覚える。

「無いな」

 顔を赤くし、仔犬のように食ってかかる彼女に苦笑しながらも、ジェラルドは、しらっ、と返す。

「『馬子にも衣装』だなんて失礼じゃないですか! 貴方こそ、そんなに着崩していいんですか? 貴族でしょう?」
「……やたら気取るのは、嫌いでね」
「貴方こそ子供じゃないですか」

 そう言うなり、彼から皿を奪い取り、アンジュは、テーブルの方へ歩いて行った。

 ――何て失礼な人なの。嫌な事ばかり言って! 意地悪! フィリップとは大違い!!

 半ば自棄やけ気味にスコーンを頬張ったが、何故、こんなに腹が立つのか、自分でも分からない。単に、コンプレックスを指摘されただけではない気がする。胸の奥が、妙にざわざわして落ち着かない。
 一方、ジェラルドは、そんな彼女を若干、和んだ眼差しで見ていた。彼女の真っ直ぐな言動が、ささくれていた彼の心に深く沁み入り、印象付いている。

「『アンジェリーク』……ね」

 長い年月ときと運命の糸に導かれ、二人は、こうして出逢った。これから、自身も世界中もを揺るがす、未曾有みぞうの業火が待ち受けているとは、夢にも思わず……


 季節は巡り、六月も間近になった頃。一年中、どこかひんやりとしているロンドンにも、ようやくこころよい春の空気がやって来た。
 グラッドストーン家の屋敷の美しい庭園ガーデンにも、色とりどりの花々が咲き誇っていて、様々な甘い香りで満ち溢れている。春真っ盛りの心地好い陽気の中、まるで天国のような空間を、ふわふわとした足取りで、アンジュは歩いていた。
 この数ヵ月の間に、彼女の歌唱力はだいぶ上達し、ほんの僅かだが、貴族の間で名前が知られるようになっていた。そのかいあってか、今秋頃のグラッドストーン家での晩餐会で、自分で作詞した歌を、しかもソロで歌って良いという、団長からの許可が出たのだ。
 そこで、月に一度の休日を利用し、詩のイメージを膨らませようと、アンジュはロンドンの街を歩く事にした。街中を観光した後、最後に、あの屋敷の庭園を散歩しようと考え、今に至っている。自然豊かな土地で育った彼女は、花や動物が懐かしく、以前から、この庭に強く惹かれていた。一度、ゆっくり見てみたいと思い、主人である公爵に、団長づてに許可を取ったのだ。

 ――素敵……

 まるで花の精になった気分だ。澄みきった青空の下、深紅のローズ、純白のデイジー、紫のヒヤシンス、黄色いパンジー……色彩鮮やかに咲き、揺れ動く様は、正に楽園と称するに相応しい。所々に蜜蜂や蝶々が舞い飛んでいて、ここに生きるもの全てが、この季節を喜んでいるかのようだった。
 そんな生命力溢れる花園の、シナモンに染まった石畳の上を踊るように歩く。心地好い薫風くんぷうに吹かれながら、ここにはジェラルドは来ないだろう、と思っていたアンジュは、すっかり夢心地だった。

 この数ヵ月で、楽団がグラッドストーン家の御用達になったのは良いが、仕事の度に顔を合わせることになる為、嫌でも会ってしまう。完全に嫌な印象をいだいてしまったので、必要以上に関わらない、と距離を置いていた。しかし、向こうから何かと話しかけ、からかって来るので話さない訳にはいかなかったのだ。増して、彼は依頼主の息子であり、客でもある。あまり邪険に出来ない為、対応に困っていた。

「……家族がいて、お金持ちで、こんな素敵な場所に住んでるのに…… どうしてあんな風になるの?」

 ぽそり、と一人呟き、目の前のポピーの花に鼻を近づけた。まろやかで甘い香りが、爽やかにアンジュの鼻腔をくすぐる。

「それにしても、すごいポピーの数ね……薔薇も多いけど……」

 周り一面を取り囲んでいる、朱色の絨毯のようなポピー畑を見渡す。ロンドンには多いのか、ここに来る途中に寄った、ウェストミンスター大聖堂にも、この花が植えられていた。

「ポピーは、この国では停戦の象徴なんですよ。お嬢さん」

 急に、少ししわがれた年配の男の声がした。驚いて目を向けると、一人の老人が、畑の中からゆったりと顔を出した。麦わら帽子を被り、軍手をした手にスコップを持ったその老人は、ひげに付いた泥を拭いながら、アンジュの近くまで歩いて来る。直感的に、この屋敷の庭師なのだろうと思った。

「こんにちは。これは、全部、貴方が?」
「ああ。お嬢さんは、花が好きなのかい?」
「はい。こんな素敵な花畑……見たことないです」
「ははっ……ありがとう。そう言ってもらえると、花も喜ぶよ」

 老人は微笑みながら、近くに咲くポピーをいとおしそうに撫でている。

「あの。さっきの、停戦の象徴って……?」
「ああ…… 前の大戦の時に、ある人が、この花をモチーフにして、詩を作ったらしくてな。何でも、ある戦場の跡に咲いていた一面のポピーが、戦闘で死んでいった兵士の血の海に見えたそうで、思わず詩にしたらしい……
 それから毎年追悼の記念日には、皆、胸にポピーの花を飾るようになった。ここに、この花を植えているのは、わしの個人的な意向でな……」

 そう言って、彼は寂しげに花を見つめた。まるで、誰かの姿を重ねているかのように。もしかしたら、この人は、前の大戦で大切な人を亡くされたのかもしれない……とアンジュは思った。

 ふと、抑揚の無い声で、庭師ガーデナーは問いかける。

「お嬢さんは、知ってるかい?」
「え……?」
「今、また戦争が始まるかもしれないって事……」

 思わず目を伏せる。真冬に入った頃から、楽団内や客人の間で、あまり穏やかで無い、仄暗い噂が、頻繁に囁かれていたのだ。アンジュは持っていないので聞いていないが、ラジオやテレビのブラウン管から流れるニュースは、その話題一色らしい。
 優しい夢の世界から残酷で殺伐とした現実へ、一気に引き落とされたような思いで、アンジュは、足元に散らばる朱色の花びらを、悲しく眺めた。
 何でも独裁政権に傾いたドイツが、イタリア、日本と同盟を結び、ヨーロッパの侵略を始めていて、既にオーストリアは併合、ユダヤ系民族は酷い迫害を受けているとの事だった。
 我が国イギリスは、フランスと共に止めるよう忠告しているが、停戦する様子は無く、このままでは、今度は世界中を巻き込んだ戦争になるという…… ユダヤ系の客人達は、仲間が受けている仕打ちを嘆き悲しみ、既に世界的恐慌の影響で、ロンドンの街には失業したらしい浮浪者で溢れている。
 この数ヶ月の間、そんな哀しく痛ましい空気の中を、アンジュなりに苦しみながら過ごしてきたのだ。現実味があるようで、どこか信じられない時流が心許なく、不安定な日々。それでも当たり前のように日常は続き、容赦なくを迎えようとしている。

「……知ってます」

 動揺する不穏な心を鎮めながら、アンジュは返答した。戦争が始まったらどうなるのだろう。この美しい庭園も、長い歴史が積まれ刻まれた、今いるロンドンの街も、全て破壊され、跡形も無く消えてしまうのだろうか……

「そうかい…… 限りある富、どこまで奪い合うのかねぇ……」

 庭師の老人は、彼女に聞かせるのではなく、遠い異国……いや、目に見えぬ何者かに訴えるように、呟いた。

「おじいさん……」

 アンジュの哀しげな呼び声に、彼は、はっ、と我に返る。

「ああ……すまないね。暗い話を聞かせてしまって。また、いつでも見に来ておくれ」
「もちろんです。あ……」

 なるべく明るく答えた後、一つのアイデアが脳裏に弾け、浮かんだ。今の自分が出来る事……

「あの、私、今年の秋に、このお屋敷のパーティーで、自分で作詞した曲を歌わせてもらえるんです。このポピーをモチーフに、私も歌詞を作るわ。反戦歌にするの!」

 憂いが少しかすんだ、マリンブルーのを煌めかせ、無邪気に意気込むアンジュに、彼は少し驚いたように固まった後、皺で囲まれた眼を細め、嬉しそうに頬を綻ばせた。

「そうかい……嬉しいね。儂は聴けないのが残念だが……頑張りなさいよ」
「ここでも歌うわ。こっそりだけど……聴いて欲しいです」

 そう、改めて張り切った時――

「いいのか? 仕事のネタだろう?」

 少し呆れたような、聞き覚えのある静かな低音が、耳に飛び込んできた。
 心臓が跳ね上がり、反射的に声のした方へ振り向くと、ジェラルドが、ズボンのポケットに手を突っ込みながら、アンジュを見下ろすように立っていた。

「な、何で、ここに……」

 を白黒させ、口をぱくぱくさせている彼女を見て、ジェラルドは口元を少し歪め、苦笑する。

「そんなに驚かなくてもいいだろう」
「ジェリー坊っちゃん。今日は早いですね」

 にこやかに優しく微笑み、彼に声をかける老人に、アンジュは更に吃驚びっくりした。

迫り来る狂想


「庭の方で声がしたから、少し気になってね。スコットさん、薔薇の調子はいかがです?」
「ああ、大丈夫ですよ。今年は、気候が良いからね」

 親しげに話す二人は、まるで昔ながらの友人のようである。ジェラルドの服装も、綿のシャツにサスペンダー付きの黒のトラウザーズという、いつもよりラフな恰好だ。初めて見る穏やかな表情で、傍の薔薇を眺めている。

「あの……お二人は……」

 戸惑いながら尋ねるアンジュに、スコットと呼ばれた老人が説明した。

「ジェリー坊っちゃんは、昔から薔薇目当てで来て下さってるんですよ。他のご家族は見向きもされないんだがね」

 意外だった。いつも人を拒絶して皮肉っている彼が、この美しい庭園を気にかけていたなんて。

「すごい…… この庭は、こんな人まで惹き付けるのね」

 思わず本音が漏れてしまったアンジュに、ジェラルドはまた苦笑した。

「随分だな。俺が花を好きじゃいけないのか?」
「いけなくないですけど…… 不自然です」

 不服そうに問う彼に、いつものお返し、とばかりに強気に返す。

わしは戻りますから、二人でゆっくりして下さい」

 そんなやり取りをする二人を見ていたスコットさんは、妙な気を利かせたのか、にこにこしながらそう告げ、屋敷に戻ってしまった。急に二人きりにされてしまい、アンジュは焦った。変な沈黙を避けようと、慌てて口を開く。

「あの、『ジェリー』って……?」
「俺の子供の頃の愛称。そう呼ぶのは、今ではスコットさんだけだけど。……それより、本当に反戦歌を歌うのか?」
「はい。作曲は団長で」

 意気込んで答える彼女に対し、ジェラルドは眉間を寄せた険しい表情に変わった。

「……何の為に?」
「え……?」

 唐突な予想外の問いに、アンジュは戸惑い、たじろぐ。

「もう、世界は大戦へと動き出してる。我が国も軍が防衛に備え始めてるらしい。今更、君が反戦歌を歌ったところで止まらない。無意味だと思わないか」

 彼のシビアな意見に息が止まり、言葉に詰まった。確かにそうかもしれない。自分一人の力で戦争は止められない。ただの自己満足に過ぎないのかもしれない。
 ……だけど、このままではいけない、という熱い思いが身体中を巡り、躍動していた。

「……それでもいい、です。一人でも沢山の人に、このポピーの話を知ってもらえたら……十分です」

 彼のダークグリーンのを捉え、アンジュはきっぱりと答える。

「君の自由だけど…… 無駄な労力だな」

 冷ややかな視線を投げ、ジェラルドは屋敷の方へ帰って行った。唖然とした表情かおで立ち尽くすアンジュの胸の奥には、驚きと憤りがぐるぐる渦巻いている。

 ――無駄とか無駄じゃないとか…… そういう問題じゃないのに……
 ――さっきは、あんなに穏やかな表情かおをして薔薇を見てたのに、急に冷たい目になって……

 アンジュには、彼の事がよくわからなかった。しかし、これだけは改めて確信した。

 ――やっぱり…… あの人、苦手……!!

 屋敷に戻って行く彼の後ろ姿に向けて、珍しく顔を思い切りしかめた。
 一方、ジェラルドは、何故、あんな必死に反論したのか、自分でも分からず困惑していた。何時いつものように、少しからかうだけのつもりだった。軽く受け流して良かったのだ。

「どうかしている……」

 ぎゅっ、と目をつむり、戒めるように呟く。複雑な思いを振り切るかのように、足を急がせた。


 瞬く間に時は過ぎ、季節は九月初頭……待ち望んだ秋に入った。とはいえ、赤道から遥か遠いイギリスに吹いてくる風は、既にひんやりとしている。春から夏の間、国内の空気は、ジェラルドが言った通り、少しずつ重々しく、物騒になっていった。
 『空襲監視員』という国公認の団体が、ドイツ軍からの襲撃に備え、街中で様々な準備をし始めたのだ。警笛やサイレンに合わせての避難訓練が行われ、地下シェルターの建設が始まり、ガスマスクまでが配られ出した。毒ガスによるテロ攻撃に備える為だ。
 アンジュ達の居る街も例外ではなかった。楽団のある建物にも、訓練の案内やガスマスクの使い方を教えに来る人間がやって来る。とりあえず従ってはいたが、グラッドストーン家での公演が評判となり、ますます忙しくなったワーグナー楽団は、正直な話、それどころではなかった。断らなかったら、毎日のように仕事が舞い込んで来る状況だ。
 そんな温度差の激しい日々を送り、アンジュは複雑な思いを抱えながらも、忙しい合間に歌詞を懸命に考えた。団長に曲を付けてもらい、いよいよ発表という段階に入る。
 ジェラルドとはあれから気まずく、アンジュは勿論、彼の方からも、あまり話しかけて来ないでいる。安堵する反面、胸に穴が空いたような気分になっている自身に戸惑っていた。
 あちこちから翻弄される、至極気持ちの悪い毎日だったが、別の貴族の屋敷に招かれた帰り道。他の団員達から少し離れ、一人で歩いていたアンジュは、ふと、思った。

 ――こんなにひとりを意識したのは、久しぶりかもしれない……

 クリスは売れっ子なので、単独での仕事も多く、いつも一緒にいられる訳ではなかったし、団員達には『公爵家の次男坊に取り入った』と、噂されるようになり、相変わらず浮いていた。
 貴族の屋敷に招かれた時も、お客様と仕事として話す以外は、大体一人で過ごしていた。グラッドストーン家での公演以外は…… 彼処あそこでは、いつもジェラルドが何かとからかって来たから、アンジュは独りにならずに済んでいたのだ。

 ――もしかしたら、私がいつも一人でいるから気にかけてくれてた……?

 思い過ごしかもしれない。しかし、彼のおかげで、寂しい思いをすることが少なかったのは事実だった。しかし、お礼を言うにしても、『何の事だ? 自意識過剰だな』と鼻で笑われるのが関の山だと考え、躊躇ためらっていたのだ。気まずくなってしまったことも、原因の一つだったが……


 考え事をしてる間に、気づくと団員達からかなり離れてしまっていた。追いつこうと、慌てて駆け出した時――

「号外!! 号外!!」

 けたたましく張り上げた掛け声と共に、幾枚もの白い紙が、その場一面に舞い上がった。はらはら、と石畳の歩道にビラの雨が降り、落ち葉と混じ入る。

「開戦だ!! ついに、戦争が始まった!!」

 とんでもない情報に、慌てて足元に落ちたものを一枚拾い、印刷された文字を追う。――呼吸が、止まった。

『ドイツ軍、ポーランドに侵略!! これによって、ポーランドと協定を結んでいた、我が国もフランスと共に、ドイツとイタリアに宣戦布告!!』

 ――英国が、ドイツと戦争……!!

 視界が、一気に真っ暗になった気がした。膝が震え、足元がぐらつく。信じたくない現実。悪い夢なら今すぐ覚めて欲しいと願った。それに、フランスはフィリップの故郷である……
 他の団員達も、同じビラを手に、真っ青な顔をして立ち尽くしている。くしゃ、とビラを握りしめ、アンジュは、思わず空を見上げた。相変わらずの晴天だ。いつもと何も変わらない、少し霞んだブルーのロンドンの空。
 しかし、たった今、世界で戦争が始まったのだ。そして、自分が今居るこの国も、その戦いに参加しようとしている。何かが確実に変わっていく。それも悪い方へ。しかし、これは紛れもなく、自身に起こっている現実だ。

 瞬間、あの庭園で見た、ポピー畑が脳裏に浮かんだ。ポピーの朱に染まった絨毯が広がり、ロンドンの青い空が、アンジュの頭上で、たちまちくれないに染まっていく。
 ……まるで血と炎で埋め尽くされた、凄惨な戦場のように見えた。


 開戦を知らせるビラが撒かれてから数日後、アンジュは団長に呼び出され、とんでもない事を稽古場で告げられた。

「ワーグナーさん、今、何て……」

 真っ青な顔で、もう一度、尋ねる。

「言った通りだ。我が国も参戦する事態になった今、反戦歌を歌うのはまずいのだ。よって、これからは君にも戦争讃歌や国歌を歌ってもらう。勿論、他のメンバーもだ」

 一気に血の気が引き、その場から突き落とされるような感覚に襲われた。軽い眩暈で視界がぐらつく。今年の春、グラッドストーン家の庭園でポピーの逸話をスコットさんから知り、一生懸命作った歌詞が……歌えない。
 しかも、反戦歌と正反対の趣旨の、戦争讃歌をこれからは歌わされる。あれほど待ち望んでいた独唱ソロで、だ。スコットさんに、聴いてもらう約束だったのに……

「君のソロデビューの日にしていた、グラッドストーン家での晩餐会まで、悪いがあまり時間がない。急遽、戦歌を作詞してくれ」

 さらなる追い討ちに、心臓を引き裂かれた気がした。暗く重い声が、自然に零れる。

「……嫌、です」
「何だと?」

 団長は声を荒げたが、構わずアンジュは反論する。

「絶対に嫌です。戦争讃歌なんて作れないし、無理です。歌えません!!」
「アンジェリーク!!」

 怒りをあらわにした団長に気圧けおされ尻込みしたが、気持ちは変わらない。それでは、スコットさんとの約束を破るどころか、彼の傷に塩を塗るような真似をすることになる。団長を怒らせても、これだけはどうしても譲れなかった。

「これは、趣味じゃない。仕事、ビジネスだ。個人的な私情も、我が儘も通用しない。……言うべき時を伺っていたが、お前をスカウトする時の条件が、孤児院への多額の寄付だったのだ。それだけ、お前には期待しているのだよ。アンジェリーク」
「…………!!」

 幼く無知だった為、当時はわからないでいたが、あの頃も今も、世界的な大不況で、大抵の一般人は、貧しさと飢えが当たり前の生活だった。こちらに来てから何となく察していたが、やはり、自分は売られたも同然だったのだと実感する。悔しげに唇を噛みしめ、アンジュは泣くのを堪えた。
 どうすることも出来ない現実。それでも、歌を捨てる事は出来ない。無力な自分が情けなく、歯痒はがゆい……

「今はこういう時代なのだ。諦めろ。どうしても無理なら、代わりの歌を用意する。お前は稽古に集中しろ」

 団長はそう言って、彼女を一瞥いちべつし、部屋を出て行った。同時に、アンジュの眼から堪えていた涙が、頬をつたい流れる。

 ――スコットさん、ごめんなさい……

 その場に崩れ落ち、声を上げられないまま、顔を覆った。


 結局、アンジュの作詞デビューは無くなり、団長が勧めた、昔からある普遍的ポピュラーな戦歌を歌う事になり、練習を余儀なくされた。
 今までも厳しいレッスンはあったが、歌を歌っていて、こんなにも精神的にきつい状況は初めてだ。なかなか稽古に身が入らなく、教官に何度も叱られ、怒鳴られる日々。身を裂かれ、心をえぐられる瞬間の連続で……拷問のようだった。

 そしてグラッドストーン家の晩餐会当日。アンジュの心境に反し、開戦してから初の晩餐会である会場の空気は、妙な緊張感がありつつ、心ここにあらずといった様子で浮き立っている。
 アンジュの今夜の衣装は、いつもの傾向とはまるで違うビビッドレッド。それも、あのポピーの花というよりは、真っ赤な鮮血の色だ。
 完全に心を殺したまま舞台に上がる。会場の隅に立つ、ジェラルドと久しぶりに目が合った。彼は、相変わらず無表情で、その深い緑のからは何も読み取れず、何を考えているのか、相変わらず真意は判らない。
 しかし、『だから言っただろう』と、彼が自分に呆れ、責められている気がして、アンジュは反射的に視線を反らした。

 ババーン!! という、勢いづいた前奏が会場に鳴り響き、しくも彼女のソロデビューが始まる。が、当人は喜ぶどころか、悲しみと憤りで心臓が張り裂けそうだった。普段より一オクターブは低い、雄々しいメロディも、勇ましい歌詞も、彼女にとっては拷問でしかない為、その表情かおには、明らかに悲哀と苦しみが表れている。
 戦歌というよりは、透明感ある澄んだ声をした精霊の、叙情的な切なる叫びのような……哀歌エレジーと化していた。
 吐き切るように歌い終わると、凄まじいスタンディングオベーションになった。演目が終わっても、会場が割れるような拍手が、なかなか鳴り止まない。勇ましくはなかったが、アンジュの危機迫る情念溢れる様と、儚くも痛切な歌声が、今時世の観客の心に、深く……響いたのだった。

↓次話

 #創作大賞2023 

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