戦火のアンジェリーク(5) 2.London ~ the UK
2.London ~ the UK
朱に夢現
グラッドストーン邸に到着し、格調あるティールームに入室して暫くすると、一家が揃って現れた。今度は、始めからジェラルドもいる。彼は、初めに会った時と変わらず無表情で仏頂面だったが、アンジュを見つけると、一瞬だけ、口元を少しだけ歪めて笑った。対しアンジュは、速攻で視線を反らす。
今日は、アフタヌーン・ティー……お茶会の催しだった。以前と同じメンバーで、前とは違う曲を歌う。今回は、スコットランドのノスタルジックな民謡だ。衣装も前回よりもシンプルなデザインの、ミルクティーベージュに控え目な刺繍が施された、フォーマルワンピースを着ていた。
無事、演目が全て終わると同時に、和やかでありながら、どこか張り詰めた雰囲気の中で、メインのティータイムが始まる。例の如く、並ならぬ緊張で疲れ果てていたアンジュは、芳しい香りを漂わせている紅茶を、部屋の隅で静かに楽しんでいた。アールグレイというポピュラーな種類らしいが、こんなに美味しい紅茶は生まれて初めてだと思った。
手にした艶やかな白磁のティーカップにロイヤルブルーで描かれた、小花や鳥の柄も非常に美しく、ニューキャッスルで見た風景を思い出す。次第に緊張が解けてきたアンジュは、空腹を感じた。
――お菓子も欲しいな。
そう思って、スコーンを取りに行こうとした時、山盛りのスコーンやマカロンなど、色とりどりの菓子が乗った皿が、ぬっ、と眼前に差し出された。驚いて見上げると、口元を少し弛めたような、静かな笑みのジェラルドが、アンジュを見下ろしていた。今日の深緑の瞳は、心なしか穏やかな気がする。ダークグレーのベストに、白シャツを少し着崩した礼服が、秀麗な顔立ちとアンバランスだった。
「どうぞ、召し上がれ」
彼が視界に映った瞬間、先日の件を思い出したアンジュの頭に、一気に血がのぼる。
「……結構です」
ふい、と、アンジュは顔を反らした。そんな彼女を見て、彼は、どこか愉しげに追求する。
「随分、物欲しげに見てただろう」
「み、見てないです」
慌てて否定したが、その言葉とは裏腹に、彼女のお腹から、キュルキュル、と鳴き声が聞こえた。思わず腹を押さえたが、しっかりジェラルドの耳に届いていた。その証拠に、もう片方の握り拳を口元にあて、必死に笑いを堪えている。
「……腹は、そうだと言ってる」
恥ずかし過ぎて消えてしまいたかった。よりによって、この人に聞かれるなんて。直ぐにでも逃げ出したかったが、自分より十五センチ以上はある、長身の男性に道を塞がれていたので、とても突破出来そうになかった。おまけに、袖に付いた長いフリルや、スカートの裾がまとわりついて動きにくい。端から見ると、狼に追い詰められた野ウサギのようだ。
そんな慌てふためく彼女を、ジェラルドは、可笑しそうに見ている。
「毒なんて入ってない。安心しろ」
根負けして、アンジュは空腹に白旗を上げた。まだ笑いを堪えている彼を軽く睨むと、目の前のスコーンに手を伸ばした。少しかじると、口内に優しく甘い風味が広がり、不覚にも、ふわり、と頬がほころぶ。
「そんなに美味いのか? ベビーちゃん」
とうとう、喉をクックッ、と静かに鳴らして笑いながら問う彼に、アンジュは聞き返す。
「……『ベビーちゃん』って、何ですか」
「君の事」
とうとう沸点に達し、アンジュは思わず声を荒げた。
「勝手に、変な名前付けないで下さい! 私は、アンジェリークです!」
「君、まだまだ『ベビー(赤ちゃん)』って感じだから」
この聞き捨てならない言葉に、更に、頭に血がのぼる。
「これでも十六です。『ベビー』じゃありません!」
「今日は、機嫌が悪いな」
「……心当たり、ありませんか?」
以前よりは柔らかい低音の声だが、妙に絡んでくる彼に、アンジュは苛立ちを覚える。
「無いな」
顔を赤くし、仔犬のように食ってかかる彼女に苦笑しながらも、ジェラルドは、しらっ、と返す。
「『馬子にも衣装』だなんて失礼じゃないですか! 貴方こそ、そんなに着崩していいんですか? 貴族でしょう?」
「……やたら気取るのは、嫌いでね」
「貴方こそ子供じゃないですか」
そう言うなり、彼から皿を奪い取り、アンジュは、テーブルの方へ歩いて行った。
――何て失礼な人なの。嫌な事ばかり言って! 意地悪! フィリップとは大違い!!
半ば自棄気味にスコーンを頬張ったが、何故、こんなに腹が立つのか、自分でも分からない。単に、コンプレックスを指摘されただけではない気がする。胸の奥が、妙にざわざわして落ち着かない。
一方、ジェラルドは、そんな彼女を若干、和んだ眼差しで見ていた。彼女の真っ直ぐな言動が、ささくれていた彼の心に深く沁み入り、印象付いている。
「『アンジェリーク』……ね」
長い年月と運命の糸に導かれ、二人は、こうして出逢った。これから、自身も世界中もを揺るがす、未曾有の業火が待ち受けているとは、夢にも思わず……
季節は巡り、六月も間近になった頃。一年中、どこかひんやりとしているロンドンにも、ようやく快い春の空気がやって来た。
グラッドストーン家の屋敷の美しい庭園にも、色とりどりの花々が咲き誇っていて、様々な甘い香りで満ち溢れている。春真っ盛りの心地好い陽気の中、まるで天国のような空間を、ふわふわとした足取りで、アンジュは歩いていた。
この数ヵ月の間に、彼女の歌唱力はだいぶ上達し、ほんの僅かだが、貴族の間で名前が知られるようになっていた。そのかいあってか、今秋頃のグラッドストーン家での晩餐会で、自分で作詞した歌を、しかもソロで歌って良いという、団長からの許可が出たのだ。
そこで、月に一度の休日を利用し、詩のイメージを膨らませようと、アンジュはロンドンの街を歩く事にした。街中を観光した後、最後に、あの屋敷の庭園を散歩しようと考え、今に至っている。自然豊かな土地で育った彼女は、花や動物が懐かしく、以前から、この庭に強く惹かれていた。一度、ゆっくり見てみたいと思い、主人である公爵に、団長づてに許可を取ったのだ。
――素敵……
まるで花の精になった気分だ。澄みきった青空の下、深紅のローズ、純白のデイジー、紫のヒヤシンス、黄色いパンジー……色彩鮮やかに咲き、揺れ動く様は、正に楽園と称するに相応しい。所々に蜜蜂や蝶々が舞い飛んでいて、ここに生きるもの全てが、この季節を喜んでいるかのようだった。
そんな生命力溢れる花園の、シナモンに染まった石畳の上を踊るように歩く。心地好い薫風に吹かれながら、ここにはジェラルドは来ないだろう、と思っていたアンジュは、すっかり夢心地だった。
この数ヵ月で、楽団がグラッドストーン家の御用達になったのは良いが、仕事の度に顔を合わせることになる為、嫌でも会ってしまう。完全に嫌な印象を抱いてしまったので、必要以上に関わらない、と距離を置いていた。しかし、向こうから何かと話しかけ、からかって来るので話さない訳にはいかなかったのだ。増して、彼は依頼主の息子であり、客でもある。あまり邪険に出来ない為、対応に困っていた。
「……家族がいて、お金持ちで、こんな素敵な場所に住んでるのに…… どうしてあんな風になるの?」
ぽそり、と一人呟き、目の前のポピーの花に鼻を近づけた。まろやかで甘い香りが、爽やかにアンジュの鼻腔を擽る。
「それにしても、すごいポピーの数ね……薔薇も多いけど……」
周り一面を取り囲んでいる、朱色の絨毯のようなポピー畑を見渡す。ロンドンには多いのか、ここに来る途中に寄った、ウェストミンスター大聖堂にも、この花が植えられていた。
「ポピーは、この国では停戦の象徴なんですよ。お嬢さん」
急に、少し嗄れた年配の男の声がした。驚いて目を向けると、一人の老人が、畑の中からゆったりと顔を出した。麦わら帽子を被り、軍手をした手にスコップを持ったその老人は、髭に付いた泥を拭いながら、アンジュの近くまで歩いて来る。直感的に、この屋敷の庭師なのだろうと思った。
「こんにちは。これは、全部、貴方が?」
「ああ。お嬢さんは、花が好きなのかい?」
「はい。こんな素敵な花畑……見たことないです」
「ははっ……ありがとう。そう言ってもらえると、花も喜ぶよ」
老人は微笑みながら、近くに咲くポピーをいとおしそうに撫でている。
「あの。さっきの、停戦の象徴って……?」
「ああ…… 前の大戦の時に、ある人が、この花をモチーフにして、詩を作ったらしくてな。何でも、ある戦場の跡に咲いていた一面のポピーが、戦闘で死んでいった兵士の血の海に見えたそうで、思わず詩にしたらしい……
それから毎年追悼の記念日には、皆、胸にポピーの花を飾るようになった。ここに、この花を植えているのは、儂の個人的な意向でな……」
そう言って、彼は寂しげに花を見つめた。まるで、誰かの姿を重ねているかのように。もしかしたら、この人は、前の大戦で大切な人を亡くされたのかもしれない……とアンジュは思った。
ふと、抑揚の無い声で、庭師は問いかける。
「お嬢さんは、知ってるかい?」
「え……?」
「今、また戦争が始まるかもしれないって事……」
思わず目を伏せる。真冬に入った頃から、楽団内や客人の間で、あまり穏やかで無い、仄暗い噂が、頻繁に囁かれていたのだ。アンジュは持っていないので聞いていないが、ラジオやテレビのブラウン管から流れるニュースは、その話題一色らしい。
優しい夢の世界から残酷で殺伐とした現実へ、一気に引き落とされたような思いで、アンジュは、足元に散らばる朱色の花びらを、悲しく眺めた。
何でも独裁政権に傾いたドイツが、イタリア、日本と同盟を結び、ヨーロッパの侵略を始めていて、既にオーストリアは併合、ユダヤ系民族は酷い迫害を受けているとの事だった。
我が国イギリスは、フランスと共に止めるよう忠告しているが、停戦する様子は無く、このままでは、今度は世界中を巻き込んだ戦争になるという…… ユダヤ系の客人達は、仲間が受けている仕打ちを嘆き悲しみ、既に世界的恐慌の影響で、ロンドンの街には失業したらしい浮浪者で溢れている。
この数ヶ月の間、そんな哀しく痛ましい空気の中を、アンジュなりに苦しみながら過ごしてきたのだ。現実味があるようで、どこか信じられない時流が心許なく、不安定な日々。それでも当たり前のように日常は続き、容赦なくその時を迎えようとしている。
「……知ってます」
動揺する不穏な心を鎮めながら、アンジュは返答した。戦争が始まったらどうなるのだろう。この美しい庭園も、長い歴史が積まれ刻まれた、今いるロンドンの街も、全て破壊され、跡形も無く消えてしまうのだろうか……
「そうかい…… 限りある富、どこまで奪い合うのかねぇ……」
庭師の老人は、彼女に聞かせるのではなく、遠い異国……いや、目に見えぬ何者かに訴えるように、呟いた。
「おじいさん……」
アンジュの哀しげな呼び声に、彼は、はっ、と我に返る。
「ああ……すまないね。暗い話を聞かせてしまって。また、いつでも見に来ておくれ」
「もちろんです。あ……」
なるべく明るく答えた後、一つのアイデアが脳裏に弾け、浮かんだ。今の自分が出来る事……
「あの、私、今年の秋に、このお屋敷のパーティーで、自分で作詞した曲を歌わせてもらえるんです。このポピーをモチーフに、私も歌詞を作るわ。反戦歌にするの!」
憂いが少し霞んだ、マリンブルーの瞳を煌めかせ、無邪気に意気込むアンジュに、彼は少し驚いたように固まった後、皺で囲まれた眼を細め、嬉しそうに頬を綻ばせた。
「そうかい……嬉しいね。儂は聴けないのが残念だが……頑張りなさいよ」
「ここでも歌うわ。こっそりだけど……聴いて欲しいです」
そう、改めて張り切った時――
「いいのか? 仕事のネタだろう?」
少し呆れたような、聞き覚えのある静かな低音が、耳に飛び込んできた。
心臓が跳ね上がり、反射的に声のした方へ振り向くと、あのジェラルドが、ズボンのポケットに手を突っ込みながら、アンジュを見下ろすように立っていた。
「な、何で、ここに……」
眼を白黒させ、口をぱくぱくさせている彼女を見て、ジェラルドは口元を少し歪め、苦笑する。
「そんなに驚かなくてもいいだろう」
「ジェリー坊っちゃん。今日は早いですね」
にこやかに優しく微笑み、彼に声をかける老人に、アンジュは更に吃驚した。
迫り来る狂想
「庭の方で声がしたから、少し気になってね。スコットさん、薔薇の調子はいかがです?」
「ああ、大丈夫ですよ。今年は、気候が良いからね」
親しげに話す二人は、まるで昔ながらの友人のようである。ジェラルドの服装も、綿のシャツにサスペンダー付きの黒のトラウザーズという、いつもよりラフな恰好だ。初めて見る穏やかな表情で、傍の薔薇を眺めている。
「あの……お二人は……」
戸惑いながら尋ねるアンジュに、スコットと呼ばれた老人が説明した。
「ジェリー坊っちゃんは、昔から薔薇目当てで来て下さってるんですよ。他のご家族は見向きもされないんだがね」
意外だった。いつも人を拒絶して皮肉っている彼が、この美しい庭園を気にかけていたなんて。
「すごい…… この庭は、こんな人まで惹き付けるのね」
思わず本音が漏れてしまったアンジュに、ジェラルドはまた苦笑した。
「随分だな。俺が花を好きじゃいけないのか?」
「いけなくないですけど…… 不自然です」
不服そうに問う彼に、いつものお返し、とばかりに強気に返す。
「儂は戻りますから、二人でゆっくりして下さい」
そんなやり取りをする二人を見ていたスコットさんは、妙な気を利かせたのか、にこにこしながらそう告げ、屋敷に戻ってしまった。急に二人きりにされてしまい、アンジュは焦った。変な沈黙を避けようと、慌てて口を開く。
「あの、『ジェリー』って……?」
「俺の子供の頃の愛称。そう呼ぶのは、今ではスコットさんだけだけど。……それより、本当に反戦歌を歌うのか?」
「はい。作曲は団長で」
意気込んで答える彼女に対し、ジェラルドは眉間を寄せた険しい表情に変わった。
「……何の為に?」
「え……?」
唐突な予想外の問いに、アンジュは戸惑い、たじろぐ。
「もう、世界は大戦へと動き出してる。我が国も軍が防衛に備え始めてるらしい。今更、君が反戦歌を歌ったところで止まらない。無意味だと思わないか」
彼のシビアな意見に息が止まり、言葉に詰まった。確かにそうかもしれない。自分一人の力で戦争は止められない。ただの自己満足に過ぎないのかもしれない。
……だけど、このままではいけない、という熱い思いが身体中を巡り、躍動していた。
「……それでもいい、です。一人でも沢山の人に、このポピーの話を知ってもらえたら……十分です」
彼のダークグリーンの瞳を捉え、アンジュはきっぱりと答える。
「君の自由だけど…… 無駄な労力だな」
冷ややかな視線を投げ、ジェラルドは屋敷の方へ帰って行った。唖然とした表情で立ち尽くすアンジュの胸の奥には、驚きと憤りがぐるぐる渦巻いている。
――無駄とか無駄じゃないとか…… そういう問題じゃないのに……
――さっきは、あんなに穏やかな表情をして薔薇を見てたのに、急に冷たい目になって……
アンジュには、彼の事がよくわからなかった。しかし、これだけは改めて確信した。
――やっぱり…… あの人、苦手……!!
屋敷に戻って行く彼の後ろ姿に向けて、珍しく顔を思い切りしかめた。
一方、ジェラルドは、何故、あんな必死に反論したのか、自分でも分からず困惑していた。何時ものように、少しからかうだけのつもりだった。軽く受け流して良かったのだ。
「どうかしている……」
ぎゅっ、と目を瞑り、戒めるように呟く。複雑な思いを振り切るかのように、足を急がせた。
瞬く間に時は過ぎ、季節は九月初頭……待ち望んだ秋に入った。とはいえ、赤道から遥か遠いイギリスに吹いてくる風は、既にひんやりとしている。春から夏の間、国内の空気は、ジェラルドが言った通り、少しずつ重々しく、物騒になっていった。
『空襲監視員』という国公認の団体が、ドイツ軍からの襲撃に備え、街中で様々な準備をし始めたのだ。警笛やサイレンに合わせての避難訓練が行われ、地下シェルターの建設が始まり、ガスマスクまでが配られ出した。毒ガスによるテロ攻撃に備える為だ。
アンジュ達の居る街も例外ではなかった。楽団のある建物にも、訓練の案内やガスマスクの使い方を教えに来る人間がやって来る。とりあえず従ってはいたが、グラッドストーン家での公演が評判となり、ますます忙しくなったワーグナー楽団は、正直な話、それどころではなかった。断らなかったら、毎日のように仕事が舞い込んで来る状況だ。
そんな温度差の激しい日々を送り、アンジュは複雑な思いを抱えながらも、忙しい合間に歌詞を懸命に考えた。団長に曲を付けてもらい、いよいよ発表という段階に入る。
ジェラルドとはあれから気まずく、アンジュは勿論、彼の方からも、あまり話しかけて来ないでいる。安堵する反面、胸に穴が空いたような気分になっている自身に戸惑っていた。
あちこちから翻弄される、至極気持ちの悪い毎日だったが、別の貴族の屋敷に招かれた帰り道。他の団員達から少し離れ、一人で歩いていたアンジュは、ふと、思った。
――こんなに独りを意識したのは、久しぶりかもしれない……
クリスは売れっ子なので、単独での仕事も多く、いつも一緒にいられる訳ではなかったし、団員達には『公爵家の次男坊に取り入った』と、噂されるようになり、相変わらず浮いていた。
貴族の屋敷に招かれた時も、お客様と仕事として話す以外は、大体一人で過ごしていた。グラッドストーン家での公演以外は…… 彼処では、いつもジェラルドが何かとからかって来たから、アンジュは独りにならずに済んでいたのだ。
――もしかしたら、私がいつも一人でいるから気にかけてくれてた……?
思い過ごしかもしれない。しかし、彼のおかげで、寂しい思いをすることが少なかったのは事実だった。しかし、お礼を言うにしても、『何の事だ? 自意識過剰だな』と鼻で笑われるのが関の山だと考え、躊躇っていたのだ。気まずくなってしまったことも、原因の一つだったが……
考え事をしてる間に、気づくと団員達からかなり離れてしまっていた。追いつこうと、慌てて駆け出した時――
「号外!! 号外!!」
けたたましく張り上げた掛け声と共に、幾枚もの白い紙が、その場一面に舞い上がった。はらはら、と石畳の歩道にビラの雨が降り、落ち葉と混じ入る。
「開戦だ!! ついに、戦争が始まった!!」
とんでもない情報に、慌てて足元に落ちたものを一枚拾い、印刷された文字を追う。――呼吸が、止まった。
『ドイツ軍、ポーランドに侵略!! これによって、ポーランドと協定を結んでいた、我が国もフランスと共に、ドイツとイタリアに宣戦布告!!』
――英国が、ドイツと戦争……!!
視界が、一気に真っ暗になった気がした。膝が震え、足元がぐらつく。信じたくない現実。悪い夢なら今すぐ覚めて欲しいと願った。それに、フランスはフィリップの故郷である……
他の団員達も、同じビラを手に、真っ青な顔をして立ち尽くしている。くしゃ、とビラを握りしめ、アンジュは、思わず空を見上げた。相変わらずの晴天だ。いつもと何も変わらない、少し霞んだブルーのロンドンの空。
しかし、たった今、世界で戦争が始まったのだ。そして、自分が今居るこの国も、その戦いに参加しようとしている。何かが確実に変わっていく。それも悪い方へ。しかし、これは紛れもなく、自身に起こっている現実だ。
瞬間、あの庭園で見た、ポピー畑が脳裏に浮かんだ。ポピーの朱に染まった絨毯が広がり、ロンドンの青い空が、アンジュの頭上で、たちまち紅に染まっていく。
……まるで血と炎で埋め尽くされた、凄惨な戦場のように見えた。
開戦を知らせるビラが撒かれてから数日後、アンジュは団長に呼び出され、とんでもない事を稽古場で告げられた。
「ワーグナーさん、今、何て……」
真っ青な顔で、もう一度、尋ねる。
「言った通りだ。我が国も参戦する事態になった今、反戦歌を歌うのはまずいのだ。よって、これからは君にも戦争讃歌や国歌を歌ってもらう。勿論、他のメンバーもだ」
一気に血の気が引き、その場から突き落とされるような感覚に襲われた。軽い眩暈で視界がぐらつく。今年の春、グラッドストーン家の庭園でポピーの逸話をスコットさんから知り、一生懸命作った歌詞が……歌えない。
しかも、反戦歌と正反対の趣旨の、戦争讃歌をこれからは歌わされる。あれほど待ち望んでいた独唱で、だ。スコットさんに、聴いてもらう約束だったのに……
「君のソロデビューの日にしていた、グラッドストーン家での晩餐会まで、悪いがあまり時間がない。急遽、戦歌を作詞してくれ」
さらなる追い討ちに、心臓を引き裂かれた気がした。暗く重い声が、自然に零れる。
「……嫌、です」
「何だと?」
団長は声を荒げたが、構わずアンジュは反論する。
「絶対に嫌です。戦争讃歌なんて作れないし、無理です。歌えません!!」
「アンジェリーク!!」
怒りを顕にした団長に気圧され尻込みしたが、気持ちは変わらない。それでは、スコットさんとの約束を破るどころか、彼の傷に塩を塗るような真似をすることになる。団長を怒らせても、これだけはどうしても譲れなかった。
「これは、趣味じゃない。仕事、ビジネスだ。個人的な私情も、我が儘も通用しない。……言うべき時を伺っていたが、お前をスカウトする時の条件が、孤児院への多額の寄付だったのだ。それだけ、お前には期待しているのだよ。アンジェリーク」
「…………!!」
幼く無知だった為、当時はわからないでいたが、あの頃も今も、世界的な大不況で、大抵の一般人は、貧しさと飢えが当たり前の生活だった。こちらに来てから何となく察していたが、やはり、自分は売られたも同然だったのだと実感する。悔しげに唇を噛みしめ、アンジュは泣くのを堪えた。
どうすることも出来ない現実。それでも、歌を捨てる事は出来ない。無力な自分が情けなく、歯痒い……
「今はこういう時代なのだ。諦めろ。どうしても無理なら、代わりの歌を用意する。お前は稽古に集中しろ」
団長はそう言って、彼女を一瞥し、部屋を出て行った。同時に、アンジュの眼から堪えていた涙が、頬をつたい流れる。
――スコットさん、ごめんなさい……
その場に崩れ落ち、声を上げられないまま、顔を覆った。
結局、アンジュの作詞デビューは無くなり、団長が勧めた、昔からある普遍的な戦歌を歌う事になり、練習を余儀なくされた。
今までも厳しいレッスンはあったが、歌を歌っていて、こんなにも精神的にきつい状況は初めてだ。なかなか稽古に身が入らなく、教官に何度も叱られ、怒鳴られる日々。身を裂かれ、心を抉られる瞬間の連続で……拷問のようだった。
そしてグラッドストーン家の晩餐会当日。アンジュの心境に反し、開戦してから初の晩餐会である会場の空気は、妙な緊張感がありつつ、心ここに非ずといった様子で浮き立っている。
アンジュの今夜の衣装は、いつもの傾向とはまるで違うビビッドレッド。それも、あのポピーの花というよりは、真っ赤な鮮血の色だ。
完全に心を殺したまま舞台に上がる。会場の隅に立つ、ジェラルドと久しぶりに目が合った。彼は、相変わらず無表情で、その深い緑の瞳からは何も読み取れず、何を考えているのか、相変わらず真意は判らない。
しかし、『だから言っただろう』と、彼が自分に呆れ、責められている気がして、アンジュは反射的に視線を反らした。
ババーン!! という、勢いづいた前奏が会場に鳴り響き、奇しくも彼女のソロデビューが始まる。が、当人は喜ぶどころか、悲しみと憤りで心臓が張り裂けそうだった。普段より一オクターブは低い、雄々しいメロディも、勇ましい歌詞も、彼女にとっては拷問でしかない為、その表情には、明らかに悲哀と苦しみが表れている。
戦歌というよりは、透明感ある澄んだ声をした精霊の、叙情的な切なる叫びのような……哀歌と化していた。
吐き切るように歌い終わると、凄まじいスタンディングオベーションになった。演目が終わっても、会場が割れるような拍手が、なかなか鳴り止まない。勇ましくはなかったが、アンジュの危機迫る情念溢れる様と、儚くも痛切な歌声が、今時世の観客の心に、深く……響いたのだった。
↓次話
#創作大賞2023
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