戦火のアンジェリーク(6) 2.London ~ the UK
2.London ~ the UK
燃ゆる独唱
一方、そんな渦中のアンジュは、異次元のような客席に向かって丁寧にお辞儀をし、感覚の無い足で舞台から降りると、そっ、と会場を抜け出した。
隠れるように、人気の無い場所を必死に探す。ようやく、しん、と静まり返った薄暗い廊下に出た瞬間、冷たい壁に身体を気だるく預け、もたれた。泣きたいのに心は動かず、一滴も涙は出ない。視界が揺らぎ、意識は朦朧としている。
次の演目が始まったのか陽気なメロディと歌声が、扉の向こうから周囲の壁に反響し、ざわざわ、と耳障りに聴こえてくる。今のアンジュには、自分を嘲笑い、擦り切れた心を逆撫でされているようで、ひりひりした。
――私は、歌った。戦争讃歌を……戦争を盛り上げる為に、歌ったんだ……
ずっと、ずっとこれだけは……と大切に守ってきた、貴く綺麗な宝物を奪われただけでなく、自分自身で汚し、盛大に壊させられた気分だった。鮮やかな血の色をしたドレスが、更に思考を闇に追い詰める。虚ろな眼で、天井を見上げた。
「今日の歌は最悪だな。歌姫さん。感情が全然入って無い」
鼻にかかる低音に乗った辛辣な言葉が、周りに重く反響して聞こえた。引かれるように振り向くと、少し離れた所に、ブラックの礼装に身を包んだジェラルドがいた。不意を突かれ、アンジュは慌てて平静を装う。
「……すみません」
「嫌だったんだろう? 何故、歌った?」
「仕方ないじゃないですか……仕事だもの」
次から次に来る詰問に、いつもの調子を守ろうと、精一杯、虚勢を張る。
「……仕事なら、何でもするのか? 壊れた機械みたいに歌うのが、君の仕事?」
「……!! どうして、そんなこと……!!」
とうとう、アンジュは激した。長い間、胸の奥底に秘めていた種火が一気に熱く滾り、めらめら、と燃え上がる。
「歌は、命を奪い合う為じゃない。生きる為にあるんです。そんな歌を歌うのが仕事、歌姫なら、私はなりたくない……ならなくて、いいです……!!」
心の箍が外れ、マリンブルーの瞳から、抑えられていた涙が、どっ、と溢れ出す。ジェラルドの前にも拘らず、アンジュは幼児のように顔を歪め、うっ……ふ……と嗚咽した。
「時代って、何ですか……? どうして、諦めないと……いけないんですか……」
この数ヶ月、ずっと抑えて隠し続けていた疑問、憤り、悲しみ、そして、激しい怒りが融け、溢れる。それを全て、彼にぶつけた。
そんなアンジュを、ずっと冷静な面持ちでジェラルドは凝視していた。出会ってから今まで、彼女が自分に軽く怒ったり膨れっ面をする様子は、何度か見た。
しかし、今は、心から叫び、喘ぎ、訴えるように慟哭している。そんな人間らしいとも言える激しい姿が、彼の瞳には、非常に美しく映った。こんなにも澄んだ怒りを表した人間を見ただろうか……
憎しみ、憤り、恨み……目の前の少女を占めている感情を爆発させた人間を、ジェラルドは何度も幼い頃から見てきた。理性を失い、理不尽な言動で相手を罵倒し、金切り声を撒き散らす。そんな、時に見苦しくも見える様が、何故、今はこんなにも貴く感じるのだろう……
目映く鮮烈な閃光が、全身から迸り、淡くも力強く揺らめくフレアが見える。全てを焼き尽くし無にする業火ではない。邪や魔を浄めるように射し込む、陽の灯だ。
すっ……と惹き寄せられるようにジェラルドは近づき、自身の両腕で躊躇いがちに、アンジュの華奢な身体を包んだ。恐々と、柔らかな蜜蝋色の髪に触れ、長い指でぎこちなく撫でる。
他人に抱かれた経験の無い彼女は、彼の思いがけない行為に動揺し、びくっ、と身体を強張らせた。が、何故か抵抗したいという気は起こらなかった。人の温もりに慣れない身体を通して、彼の不器用な優しさが、少しずつ、少しずつ、沁み入って来る。
「……それでいいんだ。君は、それで……いい」
不意に零れた、ジェラルドの真心の欠片が溶け、アンジュの耳元で穏やかに流れ、低く響く。再び、熱い涙が溢れ出し、彼の腕の中で、いつまでも泣きじゃくっていた。
……出会ってから半年以上。二人の心が、初めて寄り添い、通い合った夜だった。
もうじき、また真冬がやって来る。ロンドンの冬は、容赦なく冷え、心身を痛めつける。しかし、もっと残酷な時代の暗雲が、世界中を覆い尽くそうとしている今、これは悲劇の始まりなのだろうと、どこかで共に予感していた。
年の暮れ。秋のソロデビューがきっかけで、幸か不幸か、アンジュは貴族の間で、少しずつ名前が知られるようになっていった。ワーグナー楽団への依頼はますます増え、単独での仕事も、僅かだがもらえるようになったのだ。とはいえ、歌うのは戦争讃歌や国歌、無難な詠唱ばかりだったので、複雑な思いで仕事をこなしている。
ジェラルドとは、彼に抱き寄せられた日以来、以前とは違う意味で、妙に気まずくなってしまっていた。いつの間にか仲直り(?)し、また話すようにはなったが、お互いどこか気恥ずかしく、今までよりぎこちない。
彼の方は以前のようにからかいづらくなり、アンジュの方も言い返せなくなっていて、互いの様子を伺いながら、沈黙と隣り合わせで接する状態だった。とはいえ、いくら複雑でも、彼のおかげで自分を見失わず、今の仕事をこなせていると思っていたのだが、あの彼を、意識している自分に動揺している。
それは、ジェラルドも同じだった。彼女を抱き締めた時の心境が自身でも解らず、困惑していた。それ以前に、何故、気になって後を追ったのかさえ、解らないでいる。
ただ、放っておけなかった。見過ごせなかった。死んだように歌う彼女が心配になった……それだけだ。
――何故、あんな事をしたのだろう……
かつて無い、自身の変化を受け入れ難く、互いに戸惑っていた。
そんなある日の稽古の休憩中。アンジュはクリスから声をかけられた。あの晩餐会の日以来、彼女は傷心の後輩を案じてか、何かと気遣ってくれる。しかし、何故かジェラルドとの事だけは相談出来ずにいた。
「貴女に手紙が来てるわよ」
一通の白い封筒を差し出される。美しい装飾が施してあり、一般的な市販物ではなさそうだ。
「……誰からですか?」
「分からないわ。差出人の名前が書いてないの。ラブレターじゃない?」
「えっ……」
封筒を受け取った彼女を茶化し、ふふっ、と笑って、クリスは部屋を出て行った。残されたアンジュは、恐る恐る、シーリングされた封を解き、封筒とお揃いの花柄の、白い便箋を開く。瞬間、品のある良い香りが、ほのかに漂ってきた。紙面には、達筆の美しい文字が並んでいる。
『懐かしい蜂蜜色のコアラへ…… 覚えていてくれてるかな……? フィリップ・ベルモントです』
「フィリップ!?」
不意打ちに遭った声に合わせ、心臓が飛び出るかと思った。本当に、あのフィリップ……? 慌てて、続きを読む。
『いきなり、こんな手紙が届いて、きっと驚いてるだろうね。迷惑かもしれないと思ったけど、どうしても、君に伝えたいことがあって。
……まず、アンジュ。頑張ってるんだね。君の名前は、フランスまで届いてるよ。貴族の友達に、君の事を聞いた時は、本当に驚いた。歌の勉強を始めてくれて、本当に嬉しいよ。
それから、あの時は本当にごめん。あんな事をした理由は詳しく言えないけど、決して君を嫌いになった訳じゃなかった。あの時は、ああして君と離れるしかなかった…… とはいえ、君を深く傷つけた事は、本当にすまなかったと思ってる』
相変わらず、温かく優しい彼の言葉に、嬉しさと懐かしさが湧いた。未だ疼く傷痕に沁み、涙が出そうになる。
――ありがとう……
『辛い時代になってきたけど、負けないで頑張ってね。僕も、祖国の為に頑張るよ。実は、この間、フランスの陸軍に志願しました。この手紙が届く頃には、訓練所にいると思います』
「志願兵……!?」
ショックで頭が真っ白になり、軽い眩暈で視界が揺らぐのを感じた。更に衝撃的な文面が、アンジュを襲う。
『もうすぐ、ドイツ軍との戦いに向け、出征します。妻のエレン(彼女と結婚しました)の居る祖国と、君の居るイギリスを守る為に、精一杯戦うつもり。
いつか大勢の人の前で歌う君の姿を、生で見られる日を楽しみにしているよ。その為にもきっと生きて帰って来る。それまで、どうか元気で』
書かれた内容が信じられず、アンジュは呆然と立ち尽くした。
――フィリップが、出征……? しかも、激戦地……
そんな所に行ったら、生きて帰れる保証など無い事は、彼も解っているはずだ。いくら祖国の為とはいえ、どうして、わざわざそんな命の賭けに身を投じたのだろう……
戦争が始まったとはいえ、英国……ロンドンの暮らしは、以前とあまり変わらなかった。不況は続き、職を失った浮浪者や物乞いが増えていたが、街自体を攻撃される事はなかった。
その為か、開戦したという実感があまりなかったが、今、改めて、自分が戦争という非常事態の渦中にいるのだということを認識する。
――フィリップ。お願い……どうか……無事に帰って来て……
アンジュは、遠く離れた彼の無事と武運を祈ると同時に、まだ仄かに彼への想いが残っている自身を実感する。しかし、今のフィリップは一人の女性の夫で、戦地に赴いている。どうしようもない距離が出来てしまったが、友人として、こうして大切に想ってくれている事に感謝しようと決めた。
その年の最後の夜。グラッドストーン公爵家では、新年を迎えるパーティーが催された。フィリップの手紙を読んでから、アンジュの精神はだいぶ落ち着きを取り戻していた。演奏会では変わらず戦歌を歌う日々で、その度に心を擦り減らしてはいるが、彼も激戦地で頑張っているのだから、と気を強く持てるようになったのだ。
そんな彼女の変化に気づいたジェラルドは、公演が終わった後、アンジュの肩を叩き、声をかけた。
「……ちょっと、いいか?」
改まった様子に少し動揺したが、彼に対し信頼に近いものを感じ始めていたアンジュは、後について行った。
暗い廊下を通り過ぎ、螺旋状の大階段の陰に来た時、ジェラルドは、足を止めて振り向いた。遠くからは、賑やかな宴の声が聞こえて来る。とはいえ、戦争中ということで、以前よりも控えめな感じではあったが。
「……何かあったのか?」
ずっと、よそよそしかった彼が、真剣な瞳で尋ねるので、アンジュは戸惑った。心を読まれているみたいで、少し怖くなる。
「え…… どうしてです、か……」
「最近……吹っ切れたように、見えるから」
なんだかんだ言いながらも、自分を気遣ってくれている様子の彼に、フィリップの事を話そうと決めた。
「……ありがとうございます。実は、フィリップから手紙が来たんです」
「フィリップ?」
初めて聞く名前に、すっ、と秀麗に伸びたジェラルドの眉が、ぴくり、と動く。
「オーストラリアにいた時に出来た友達で…… 今は結婚して、フランスにいるんですけど、この間、陸軍に志願したって知らせが来て……」
嬉しそうに、尚且つ、切なそうに話すアンジュを見て、自身の胸奥にちりつくような痛みが走るのを、ジェラルドは感じた。
「彼は激戦地で頑張ってるんだから、私も泣き言ばかり言わずに働こうと思ったんです」
「……そう」
理由が分からない、不穏なざわめきと動揺を努め隠しながら、なんとか冷静さを保つ。一方、話しているうちに嬉しくなったアンジュは、少し明るい口調に変わり、続けた。
「約束したんです。夢を忘れないで生きるって。だから、一人前の歌手になれるように、いつか彼に見てもらえるように歌ってるんです」
妙な苛立ちまでを覚え始めたジェラルドの中で、奥底に蠢く不可思議な塊が、ついに暴発した。あっという間に彼全体を乗っ取る。気づけば、至極冷たく、シビアな言葉が、口から飛び出していた。
「相変わらず甘いな。君は」
「え……?」
急に冷徹な物言いに変わったジェラルドに、アンジュは戸惑った。明かりを灯さない彼のダークグリーンの瞳が、暗闇の中で、いつになく鋭利な光線を放っていた。
★悪魔の挽歌
「戦歌しか歌えないような今の時代に、歌手になって何になる? 君の歌が、皆を戦争へ導く……それでいいのか?
そいつの為なら、何でもするのか? よりによって、約束なんてモノの為に……馬鹿げてる」
ようやく立ち直った彼女を、また追い詰めるような言葉が、次から次に放たれる。アンジュの顔からは完全に微笑が消え、代わりに悲しみと驚きが混ざった、戸惑いの表情に変わった。
「ジェ、ラルド……さん……?」
不思議そうに悲しく問うアンジュの声に、はっ、とジェラルドは我に返った。途端に自責の念に襲われ、きまり悪そうに顔を歪める。彼女から目を反らし、立ち去ろうと後退りした。
「ま……待って下さい!」
慌てて、彼を呼び止めようとした時、少し離れた部屋の扉からカタン、という物音が聞こえた。
「ん……あ……」
続けて聞こえてくる、艶かしい女性の声と荒い息づかいに、二人は反射的に足を止める。何事かと思い、鍵が開いている扉から中を覗くと、そこには一人の女性と同年代の男が抱き合い、濃厚なキスを交わしていた。
慌てて立ち去ろうとした時、女性の顔を見て驚愕した。それは、グラッドストーン公爵夫人――ジェラルドの母親だったのだ。
思わず声を上げそうになったが、慌てて口元を抑える。隣にいたジェラルドが、無表情でありながらも激しい怒りと軽蔑の炎を秘めた、突き刺すような視線を彼らに向けていたからだ。
その間も、吐息に紛れた彼らの会話が聞こえて来る。
「いいんですか? 公爵夫人ともあろうお方が、このような真似を……」
男は口ではそう言っているが、その眼差しと口元は卑しくにやつき、少しも悪いと思っていないのが明らかに判る。
「あら……貴方だって全部わかってるでしょう……? そのつもりで近づいて来たくせに……」
媚びるように、にんまりと口角を上げた夫人は、豊満な胸元の谷間を擦り寄せ、男の襟元の隙間に指を艶かしく這わせる。
「愛してるわ」
「……悪い女ですねぇ」
その言葉を口にすると同時に、男は再び夫人に深く口付ける。暫くすると、夫人のものらしい甘ったるい嬌声と、ベッドが軋む鈍い音が聞こえて来た。
直ぐにでも逃げ出したいのに、アンジュは一歩も動けずにいた。生まれて初めて見た光景に、心も体も釘付けになっていたのだ。それは、物語の中だけで漠然と知っていた行為だった。いつの間にか熱くなっていた頬を抑え、気遣うようにそっ、とジェラルドの様子を伺う。
彼は凍てついた眼差しで、射るように扉を一瞥し、再び足早に歩き出した。アンジュは慌てて後を追いかける。
グラッドストーン公爵夫人……彼女には公の夫である、公爵が存在する。二人の息子までいる。格式高い貴族の夫人が行うにしては、あまりに軽率であるまじき事だった。
自分の母親があんな事をしているのを見て、さぞかし彼は傷ついているだろうと思った。さっきの言葉には驚いたが、内に秘めた痛みや叫びを、アンジュは理屈抜きに感じ取っていた。
――あれは、彼の……本当の言葉じゃないわ。
そんな確信を宿しつつ、必死に彼の背中を追っていると、突然、ジェラルドは足を止めた。
「――追って来るな」
背中を向けたまま放たれた、拒絶の言葉。その撥ね付けるような重く哀しい響きに、びくっ、と身体が強張る。
「同情ならやめろ。かえって不愉快だ」
続けて辛辣な言葉が飛んで来たが、構わずアンジュは叫んでいた。
「同情じゃないわ! ただ、貴方が……心配なだけです……」
包まれるような言葉で不意打ちされ、ジェラルドは、彼女の方に思わず向き直った。真っ直ぐ自分を見ながら、真摯な情をぶつけてくる様子に、強く心を揺さぶられる。ふうっ……と静かなため息をつき、ゆっくり渇いた口を開いた。
「……今に始まったことじゃない。あれは日常茶飯事だ。もう慣れてる」
「でも……」
『貴方は傷ついたでしょう?』とアンジュは言おうとしたが、彼の深緑の瞳に、更に暗い陰が落ちた気がして、喉まで出た言葉を飲み込む。
「そもそも俺が生まれたのも、あの女が公爵以外の男とああして寝たからだ」
「…………!!」
衝撃的な話に、直ぐには意味が理解出来ない。つまり、彼は……
「所謂、不貞の子ってやつ。俺と公爵に血の繋がりは無い。うちの家系は代々カトリックらしくてね。不貞は重罪。世間にバレたら公爵令息から一転、悪魔の遣いにされる」
他人事のように、当人の口から淡々と語られる真実。しかし、アンジュには彼が無理をしているようにしか見えなかった。暗がりで表情はよく見えないが、虚無感を帯びているのは分かる。
「貴方は、何も、悪くないわ……」
アンジュは、今の精一杯の気持ちを伝えた。何を言っても彼を傷つけてしまう気がして、必死に言葉を探したが、これしか見つからない。
すると、ジェラルドは、いつもの皮肉な微笑を浮かべ、自棄気味に返した。
「悪いも何も……事実だ。屋敷内の者は薄々気づいてる。噂も立ってるし、喋ったらいい」
「…………!!」
初めて受ける類いのショックで、視界一面にヒビが入った。一度入れた彼の心の内側から、また閉め出されたような哀しみと失望に沈んでいく。
「喋らないわ!! そんな事、する訳……無いじゃないですか……」
必死に訴えたが、最後の方は涙混じりになって声が震えた。そんな彼女の反応に驚いたのか、ジェラルドは瞳孔を少し見開いた。が、黙ったまま踵を返し、背を向けて歩き出す。今度は、アンジュに引き止める気力は湧かなかった。心が固まってしまったようだ。
――どうして…… どうして、信じてくれないの……?
悲しくて堪らない。容赦なく遠ざかっていく広い背中が、再び大きく開いた、二人の距離を表すように見えた。又、それが意外に激しく堪えたのが、アンジュの心を乱していた。穏やかな表情を見せたかと思えば、冷淡で辛辣な言動に変わる…… ジェラルドという人間の事が、また解らなくなってしまった。
一方、自室に戻ったジェラルドは、自身の感情の不可解な動きに苛立っていた。彼女に見られたからとはいえ、何故、あんな話をしてしまったのだろう。今まで、誰にも言った事の無い、出生の秘密まで明かす必要はなかった。
あの少女といると何故か調子が狂う。隠れていたもう一人の自分が現れ、たちまち脳、心全てを占領する……
苛立ちまかせに辛辣な言葉を吐いた時の、驚いたような悲しげな顔。母親の不倫現場を見た時の、今にも泣き出しそうだった顔。アンジェリークという少女の様々な姿が、ぐるぐる、と脳内を駆け巡る。
――俺の事なのに、何故、そんなに悲しむ……? 関係無いだろう? 放っておいてくれ……!
――あんな嫌な言い方をしたのに、何故、俺を庇う……?
――心配って何だ……? そんな事する訳無い……?
――やめろ! 世辞か嘘に決まってる。信じて堪るか……!!
見知らぬ男の事を話した時の、嬉しそうな顔を描きたい見た瞬間――その微笑みを壊したい衝動に駆られ、無意識に彼女を傷つけようとしていた――
「…………!!」
そんな自分に苛立ち、呆れ、髪をぐしゃり、と掻きむしる。その拳でそのまま、側の大理石の机を思い切り叩いた。
年が明けた1940年。世界が着々と大戦に向かっていく最中、アンジュ達の住む英国――ロンドンでも、対岸の霧が漂って来るかのように、少しずつ、ゆるやかに、趣が変化していった。
たまに、兵隊による凱旋パレードが華やかに通り抜け、民間の成人男性が徴兵に駆り出されつつある。今の平穏な日々が、いつ豹変してもおかしく無い気配だ。自分の夫や恋人、息子が、明日には戦地へ行かされるのではと、女性は日々怯えていた。空襲は無いが、目に見えない何かが、自分達の周りを取り囲んでいく。
そんな心許ない毎日だったが、アンジュの日常は、変わることなく続いていた。……ジェラルドの件を除いては。暮れの夜、出生の秘密を聞かされた日から、また気まずくなってしまっていた。彼は、あれからアンジュを避けるようになり、彼女の方も近づこうとしなかった。
というより、近づきたくても、何と話しかけたらいいのか分からなかったのだ。しかし、いくら拒絶されても、何故か気になって仕方なかった。気づけば、目はジェラルドの姿を探している。だが、たまに目が合っても、すぐに視線を反らされる。そんな彼の態度が、心をひどく締め付けた。
だが仕事の日は、以前と同じく屋敷に行かないわけにはいかない。憂鬱な気持ちを抱えながら、アンジュは今日もグラッドストーン家への道を歩いていた。
ただでさえ、戦争が始まって気が重いのに……と軽くため息をつく。ふと、隣のクリスの方を見ると、彼女も青い顔をしている。こんな時でもいつも明るく振る舞っていた彼女が……と、気になったアンジュは声をかけた。
「クリスさん……? 何かあったんですか……?」
すると、クリスは虚ろな眼差しを向けた。ワインレッドのルージュが塗られた唇が震えている。一呼吸してから、告げた。
「……叔父が、徴兵されたらしいの」
ガン、と頭を殴られたような衝撃を受けた。突然、戦争という現実が、自分のすぐ隣まで近づいて来た気がする。
「クリスさん……」
「今まで実感が湧かなかったけど、本当に戦争が始まったのね」
「…………」
「『良心的兵役拒否権』っていうのがあってね。申請したら拒否出来るかもしれないけど……無理だわ。叔父の居る環境だと多分、周りから白い目で見られて居づらくなるもの」
強張るクリスの言葉に、ジェラルドの姿をアンジュは思い出した。彼は軍人の家系ではない貴族だが、戦地へ行くのだろうか……という、激しい恐怖が襲ってくる。
――嫌。そんなの嫌。あの人まで……
頭に浮かんだ恐ろしい考えを、必死に打ち消す。同時に、彼の存在が自身の中でいつの間にか大きくなっていた事に気づいた。何と返答したらいいのか判らず、この不穏な世相が早く終わる事を、ただ、神に祈るしか出来ないでいた。
グラッドストーン邸宅に到着し、普段通りの催しが進む。今夜は晩餐会だったが、皆、控えめでシックな装いだ。団員達が華麗に奏でるワルツやメヌエットに合わせ、今の不安をまぎらわすかのように、ダンスを楽しんでいる。
楽器の担当でないアンジュは、隅の方で、目の前の人々をぼんやりと眺めていたが、周りの様子が何かおかしい事に気づいた。他の客人達が、やたら自分、そしてジェラルドの方をちらちら、と交互に見ながら内緒話をしている。不審に思っていると、大きな黒い影が彼女を被うように現れた。
「ねぇ、君」
呼び掛けられた方に視線を向けると、ジェラルドの兄、ロベルトが、にっこりとした笑みを浮かべ、アンジュを見下ろしていた。彼に声をかけられたのは初めてだった為、内心戸惑う。
「……いいかな?」
柔らかに促し、彼は広間の扉に視線を向ける。少し不安だったが、公爵家の令息には逆らえない…… 仕方なく、恐々と付いて行った。
「君、うちの弟と、どういう関係なの?」
廊下に出た途端、開口一番にロベルトは問いかけた。口元は相変わらずにこやかだが、どこか怪しげだ。いつもの好青年の顔が剥がれている。
「どうって……貴方と同じ、依頼主のご令息様です」
突然の彼の変貌と、ジェラルドのことを聞かれ狼狽えたが、なるべく努め抑えながら、答える。
「『ご令息様』ね……」
くくっ、と嘲笑する彼にむっ、としたが、なるべく冷静に尋ねた。
「……おかしいですか?」
「客の噂になってるんだよ。知らない? 君と弟がデキてるんじゃないかって」
何故、そんな噂が出たのだろうかと驚く。そんなアンジュの心中を察したのか、今度はにやつきながらロベルトは続けた。
「暮れの夜に、君と弟が二人きりでいるのを見た奴がいるらしくてね」
「…………!!」
「まぁ、俺にはどうでもいい事なんだけど、さすがっていうかさ」
「……さすが?」
事態を把握し、内心動揺したが、彼の不可解な言葉に反応する。
「よりによって、こんな身分の低い女に御執心だなんて。血は争えないってことだよ。知ってる? あいつの父親は男娼だって」
「…………!?」
更に続けられる真実の衝撃で、アンジュの意識が彼方に飛んだ。男娼――売春を男性が行う職業。何をするのか等、具体的な事は知らない。だが、もうすぐ十七歳になる今、その意味は漠然とだったが……理解していた。
↓次話
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